次に、日本における権力の行使についてです。
山本七平氏は、ガルブレイスの権力行使三つの基盤を引用しています。
「第一系列 1.個人的資質 2.財力 財を動かす力 3.組織
第二系列
1.威嚇権力 古い時代から 黒人奴隷 最低生活を保証
2.報償権力 黒人奴隷よりもみじめだった プアーホワイト 働いた成果にだけ報 償を与えれば何の管理もしなくてよく、より残酷 権力行使の絶対化
3.条件付け権力
基本的人権その他が重んじられるようになり同時に社会保障が充実
威嚇、報償が使えなくなる
宗教家 イエスキリスト マハトマガンジー マルチンルーサーキング
何かに影響されて各人が自発的に動いたつもりが実は権力によって動かわれてい る」
条件付け権力の例としては、中国の舜が偉大な皇帝でありえたのは、徳があるゆえにその徳で天下を治めえたとしています。
何もしなくて天下が治まったからこれが一番であり、
三国志演義の劉備玄徳や、西遊記の三蔵法師等が中国人の理想像であったと指摘しています。
ガルブレイスのソーシャルコンディショニングの整備としては、
「組織内に完全に権力を行使してはじめて外にも力を及ぼし得る
内部が組織的に乱れていると、到底外部には力を及ぼし得ない 権力の原則
商品を買わせるのも権力の行使が必要」
とし、単純な押し売りとテレビコマーシャルによるものを比較して、組織内の権力を固めておいて、外部にまで権力を及ぼし得る状態になって、それが可能になると指摘しています。
組織内を完全につかみ、同時に組織を構成している各人の価値観をつかみ、
さらに組織内秩序をつかむ。この三条件が下位制度をつかむこととなります。
日本の企業は欧米式の制度を上にもってきていますが、でも内部は決して欧米式ではありません。
昔の日本は、天皇と律令の下に幕府と式目がありました。
表向きは中国から輸入の律令制で、下位制度は幕府式目制であったわけです。
下位制度が本当は機能して、下位が動けば上位は自動的に動くわけです。
アメリカ人にとって組織とは契約に基づきます。
雇用契約は日本にはありません。
マニュアル不在が、日本社会です。
日本の会社員の不平不満は三つです。
1.会社はオレの能力を認めない 能力順位でなければならない
能力主義が社会正義であり、社会の秩序となります。
血筋家柄は、タテマエ 能力によって上までいくと血筋家柄がよいことになるの であり、血筋家柄がよいから上にいくのではありません。
2.ウチの社長あるいは課長は細かすぎる
3.上司の言い方が気に入らない
近代社会では、軍隊を動かすには予算が必要だが、これの決定権を軍は持っていないから
チャーチルは、「戦争責任は戦費を支出した者にある」と山本氏は指摘しています。
天皇自身が機関説の信奉者であったのです。
「議会は天皇に対して完全なる独立の地位を有し、天皇の命令に服するものではない」を天皇自身当然のこととし、この原則を破ったことはもちろん、触れたこともありません。
機関説否定は、天皇絶対とすることによって一切合財の責任を天皇に負わせることが出来るが、その責任に対する権限は「機関としての天皇」に一切与えていなかったわけです。
アメリカの大統領が持つ「拒否権」は天皇にはなく、また天皇は国会の制定した法律を拒否した例はないし、あるはずもありません。また国会の議決した予算に停止を命じたこともなく、何らかの増額・減額を命じたこともないわけです。大体国会は「天皇の命令に服するものではない」のであり、逆に「天皇は議会の制限を受ける」のです。
諸外国の天皇への誤解は、主として天皇の異常なまでの「頑固さ」と「継続性の保持」にあると山本氏は指摘しています。世界史において、制限君主制の下で、この制限を破ろうとするのが君主で、破らせまいとするのが議会であるのが普通であったわけです。すなわち「国王と議会との闘争」です。ところが日本では「憲法停止・御親政」、すなわち天皇独裁を主張する強力な勢力があるのに、君主自身が頑としてこれを拒否し、一心に「制限の枠」をその自己規定で守っていたのです。
「これは世界史に類例がない不思議な現象だから、例外的な一部の知日家を除けば、この点を誤解するのは当然であろう」と述べています。
小室直樹氏は、マキャヴェッリは、倫理学及び神学から政治学を解放して、一個の独立した科学として確立したとし、あたかも、心理学におけるパヴロフのごとくに、経済学における英国古典派のごとくに、と述べています。
ゆえに、倫理をもってマキャヴェッリを攻撃することは、利己心の是認(効用の最大化、利潤の最大化)をもって、経済学を攻撃するようなものであり、条件反射をもって心理学を攻撃するようなものであるとしています。
マキャヴェッリの主張は、没倫理というべきであって、反倫理ではありません。
倫理(道徳)を否定しているわけではなく、倫理から政治学を解放したのです。
政治家にとって重要であるのは力です。力の要請は倫理道徳よりも優先するわけです。
「為政者の要件『ヴィルトウ』とは、『活力』、すすんでは『生命力の発揮』という意味である。効力でもある。能力でもある。
『徳』と訳すのであれば、古代中国における為政者の徳か。
儒教イデオロギーによれば、為政者であるための条件は『聖人』であることである。
この場合の聖人とは、『博く民に施して、衆を救う能力のある者』(論語)
聖人とは『徳』のある人のことをいうが、聖人の『徳』とは、『良い政治』をする能力である」
と述べています。
小室氏は「資本主義原論」において、
「資本主義の精神は『エートス』である。
『エートス』とは『いわば、社会の倫理的雰囲気とでもいうべきもの』
内面的行動と外面的行動との統合である。一人の人にとっては、主観的であると同時に客観的である。
エートスの本質は、伝統主義からの解放である」
伝統主義とは、過去にやった、あるいは過去に行われたという、ただそのことだけで、将来における自分たちの行動の基準にしようとする倫理です。
日本は伝統主義に縛られている。
国の官僚制だけでなく、企業の組織も腐朽しました。
それは「過去の慣行へのしがみつき」このことから発生する、どうしようもない「無責任体制」これであったわけです。
役人を束縛している掟・仕来りが腐朽して機能しなくなったのだからたまったものではありません。それらに束縛されている官僚制は腐朽官僚制となりはてて機能を喪失したわけです。
日本企業も伝統主義に縛られています。
「シキタリを破る」こと以外の失敗ならどんな失敗でも、易々と許されてしまうのです。いや、許されるどころではない。不問に付されてしまうのです。
企業人の責任とは、リスクに対する責任です。
企業の目的は利潤の最大化にあります。
企業人は、つねに破産のリスクに直面しているわけで、このリスクを小さくするように努力するべきであり、この危険に対して責任を負います。
「企業は退出とくに破産こそ実に市場における自浄作用である。
資本主義市場の本領は、ミスから学ぶことにある。市場均衡(価格、所得の決定)は、試行錯誤のはてに成立すると考えられた。
資本主義では、試行錯誤こそ、その神髄である。『エラー』は『ミス』といってもよい。試行錯誤によって資本主義は最適点(例。資源の最適配分)に達する。いってみれば、『ミスから学ぶ』ことによって資本主義は成立するのである」
小室氏は「田中角栄の遺言」において、
役人は、与えられた状況の下において、与えられた法の下においてしか行動ができないことであって。換言すれば、与えられた運命に完全服従するという、どうしようもない性質を持っています。
政治家としていちばん大切なものは、運命をいかに駆使するのかということです。予想することのできない激変に、いかに対処するかです。
孔子、孟子をはじめ、日本人が大好きな儒教の思想においても、政治家にとっていちばん大切なことは、国民生活を安定させて、国民に秩序を与えることにあるといえます。
「デモクラシー裁判の最大の目的は、国家という巨大な絶対権力から国民の権利を守ることにあり、刑事裁判とは検事に対する裁判である」と指摘しています。
「役人のメンタリティーは、
1.既存の法律の上で動く。新たな意思決定はできない。
2.減点主義だから、責任は取りたくない。
3.入省年次が序列。人事に口出し無用。
4.薄給で、天下らなければ割に合わない。
5.権限拡大のためなら一所懸命。
これらの特性を熟知した田中角栄は、余人の及ばぬ発想で新たな決断をし、『責任は自分が負う』と宣言した。そして役所の人事には手を触れず、盆暮れに実利を与え、法律を作成する場を提供した。その結果、角栄は一言で官僚を動かし、官僚は角栄を自らの司令塔として仰いだ」
日本でいちばん腐敗が少なかったのは軍人宰相や近衛文麿のような貴族政治家の時代なのでした。
ドイツでは、ナチス政権の時代がいちばん清潔だった。“清潔でありさえすればいい”というのは、考えものなのです。その発想は、デモクラシーとは両立しない。その向かうところは全体主義でしかないわけです。
デモクラシー諸国では、政治にかかる莫大なおカネは、自由のためのコストであると考えているのです。
マックス・ヴェーバーは、政治の要は、「変化する状況における決断である」と言いました。
政治家は役人とは根本的に異なる。役人は、与えられた(主体的には変化しない)状況下における権限の行使である。そこに、運命の入り込む余地はあり得ないとしています。
「最良の官僚は最悪の政治家である」
現代の日本がいかに危険な状態にあるか、真の政治家はなく、政治家はすべて役人の操り人形にすぎません。
小室氏は、ナポレオン、アレクサンダー、シーザーを例として、
「マキャヴェッリは、人間世界は運命=フォーチュナーに支配されていると言う。
マキャヴェッリの運命観を要約して、結論づける、『人間は自分の運命をどうすることもできない、人間社会はフォーチュナーによって支配されている』と、
運命に対抗するのには、いかにすべきか。フォーチュナーを破るものが、ヴィルトウである」
では、生命の力がどのように発揮された状態のことをいうのか。第一義的には、生命の力が政治において発揮されたときの効率のことをいうと指摘しています。これを譬えていうならば、古代中国における天子(為政者)の徳のようなものだと。
普通の個人は、運命に支配され、自分の運命をどうすることもできません。
天子の徳は、自然現象としての運命をも制御できる。
儒学は超自然現象を否定したと、多くの日本人は信じていますが、しかし、そうではない。「『怪力乱神』(論語)を語らなかった孔子ではあったが、超自然現象を全面否定したわけではない。超自然現象も存在する。しかし、超自然現象も自然現象も君主の徳によって制御できると考えた」。
儒教の正統的思考法は、君主の徳によって、経済現象その他社会現象はいうまでもなく、自然現象、超自然現象もまた支配される。この意味において運命は、君主の徳によって制御される。これが、儒教の正統的論理であるとしています。
マキャヴェッリ「君主論」
「人間社会についてフォーチュナーを制御するヴィルトウは君主の力であり」、そして「変化する状況への適応能力である」
この君主の徳を、田中角栄は、「方針をキチンと示す」ことであると表現しています。
韓非子は、政治(統治)の要は法術にありと喝破した。よい法を作って民を制御する。他方、術によって官僚を駆使して統治するとしています。
官僚に問われるのは、所与の状況への適応能力です。固定した状況への適応能力です。
政治家(君主)こそ、変化する状況への適応能力を発揮しなければならない。運命を制御しなければならないのです。これぞ政治家の本領、ここにこそ政治家の存在価値があるわけです。
日本の企業は欧米式の制度を上にもってきていますが、でも内部は決して欧米式ではありません。
また、昔の日本は、天皇と律令の下に幕府と式目がありました。
表向きは中国から輸入の律令制で、下位制度は幕府式目制であったわけです。
つまり、日本人は権力を行使するにあたり、その表向きの制度は外国から輸入されたものであり、実際は、儒教的な「礼楽」、あるいは、一揆的なものによります。
近代社会では、軍隊を動かすには予算が必要だが、これの決定権を軍は持っていないから
戦争責任は戦費を支出した者、つまり議会にあるわけです。
二・二六事件の北一輝自身は明確な、天皇機関説の信奉者でした。
二・二六事件の北一輝自身は明確な、天皇機関説の信奉者でした。
しかし、北一輝の真意とうらはらの機関説否定は、天皇絶対とすることによって一切合財の責任を天皇に負わせることが出来ますが、その責任に対する権限は「機関としての天皇」に一切与えていなかったわけです。
これも、表向きは、天皇を「現人神」と絶対化して「憲法停止・御親政」と唱えながら、内実は、天皇に「拒否権」はなく、天皇は議会の制限を受けていたわけです。
為政者の要件とは、「方針をきっちり示す」効力、能力であり、古代中国においては為政者の徳となります。
政治家は役人とは根本的に異なり、役人は、与えられた状況下における権限の行使であって、最良の官僚は最悪の政治家となってしまいます。
今の日本には、真の政治家はなく、政治家はすべて役人の操り人形になってしまっています。
これも、表向きは政治家が権力を行使しているかのように見せかけて、内実は官僚が牛耳っているわけで、官僚が議会と司法を簒奪してしまっています。
つまり、欧米の自由と民主主義は機能していないのです。
“integrity”の喪失に他なりません。
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