次に、日本における自由主義、民主主義、資本主義についてです。
小室直樹氏は、日本では、近代民主主義の根本的条件である三権分立が機能せずに、「役人クラシ―」になってしまっていると指摘しています。
議会主義デモクラシーが機能するための条件は、一つは国民の代表によって議会が形成されること、次に議会における討論によって国策が決定されること、そして最後にして最大の条件は、国会が立法の機能を失っていないことです。
政治権力者に対する追及の主体は、ウォーターゲート事件の場合には、ジャーナリズムと議会、為政者(政治権力者)を、在野の人々が弾劾したのでありました。
日本でいうならば、尾崎咢堂の桂内閣弾劾と、追求のヴェクトルの向きが同じであり、これぞ、デモクラシーのヴェクトルなわけです。
これに対し、ロッキード事件における田中角栄に対する追及の主体は誰であったかというと、行政権力たる検事です。それに、司法権力たる裁判所が加担しました。こうなると、これは、三権分立を金科玉条とするデモクラシーの死であるわけです。
行政権力と司法権力との野合であります。
コーチャンは自らの刑事免責を日本の最高裁判所に保証されました。日本における裁判で、こんな司法取引をした証言を証拠として採用してよいものかどうかということです。
しかも一審、二審の裁判所が、これに対する被告側からの反対尋問なしで、有罪の判決を下してしまうとは。日本においては、デモクラシー裁判の何たるかを裁判官すら分かっていなかったのだと述べています。
「反対尋問の機会」なきままの有罪判決でありました。これは明白に、憲法(第三七条、刑事被告人は、すべての証人に対して審問する機会を充分に与えられる…)違反であり、明白に人権蹂躙であったわけです。
凄絶なる国家権力から、いかにして人民の権利を守るか。これがデモクラシーの目的であり、主テーマであるのです。
この目的のために、絶対的な国家権力を、立法、行政、司法と三つに分断して、お互いに、相互牽制、チェックス・アンド・バランシズさせることにしたのでした。
司法権力による行政権力の抑止です。
裁判の主機能は、行政権力から人民(国民)の権利を守ることにあります。
日本には裁判所がない。
デモクラシー裁判であるかないかの判定条件を一言で言えば、刑事裁判において、裁判官が被告の味方であることと指摘しています。
「裁判で裁かれる人とは、検事である。デモクラシー裁判とは、検事への裁判である。
何が何でも『真実(事実)を発見する』という教義、この教義が人を殺す。冤罪を生む。この教義から被告(容疑者)を守る盾。それが、『裁判は手続きなり』という教義である」
事実であるかどうかは法律が決める。これを法的事実と呼びます。法が決めるところの特定の手続きによって決められること、それが法的事実であるわけです。
証拠もまた法的事実であるから、証拠であるかどうかは法的手続きが決める。法的手続きが証拠でないと決めれば、それは証拠ではない。法的事実たる証拠に基づいて法的決定(判決)がなされる。これが、デモクラシー裁判の構造であります。
戦後法制の激変にもかかわらず、日本人の法意識があまり変わっていないことを前提とすれば、近代裁判における厳密な手続き主義よりも、調停における曖昧手続き主義が、より好まれるという事実には注目するべきであろうと指摘しています。
山本七平氏は、日本は「納得治国家」であると指摘しています。
ロッキード裁判の田中角栄氏の場合「罰するため」にまず法律探しがあって、「外為法違反」が見つかる。では外為法違反はすべて罰するかといえば、大体は「大目に見る」。彼の場合、裁判はそこからはじまるわけですが、彼が無罪になっては“納得治国家”ではだれも承服できないから、彼が有罪になり、人びとが納得できるように訴訟が指揮される。いわば「刑事裁判は無罪の想定からはじまる」のでなく、「人びとが納得するか否か」の想定からはじまるわけであります。
現今の日本ではすでに「法の前の平等」などというものは存在せず、「納得させるために法を探してその場をしのぐ」という状態になっていることを示しています。これは「法」が、「納得治」のための手段として恣意的に利用されているということなのです。
日本の近代国家は、はじめから統合の原理をもたず、それを行使する機関も組織もない状態を非制度的な「派閥(藩閥)と人間集団」を媒介として統合が成り立っていたわけです。これは現在でも基本的には変わらないと指摘しています。
明治から現在に至るまでの問題点は、法により創出される制度の上で、明確な統合の中心を欠いているという点にあります。
明治は藩閥という非制度的人脈集団を媒介としてはじめて形成される仕組みになっていました。
藩閥が派閥に変わっても変わらず、派閥を中心とした根茎(リゾーム)的人脈集団を媒介として統合がなされているのが現状であるわけです。
最大派閥の長が統合の権限をもつという明治以来の制度の欠陥に問題があるわけです。
「民主制とは『法と権利の世界』が『事実の世界』に正確に対応せねばならぬ政治制度のはずである。
派閥とは政治的利害関係に基づく統合であって、それ以外の何物でもないのである。
政治に要請されるのは政策である。言葉をかえれば法と制度をいかに合理的に組みかえるかであって、それ以外にない。
選挙民が、中央の金を地方に投入するという恩恵を評価する限り、『必要悪』として目をつぶっているからであろう」
と述べています。
また、山本氏は、日本人の金銭感覚 貯蓄への志向は、経済的下剋上によるとし、大名も買える対象であったと指摘しています。
経済的に窮迫したものは、たとえ名目的には社会的階級が上であろうと実質的には下となる現象を経済的下剋上と説明できます。
貨幣の効用が有形無形のあらゆる面で非常に高かったわけで、買おうと思えば、身分、家柄、社会的地位に至るまで買うことができたのです。
利殖するかしないかは、その社会で貨幣がどれだけの効用をもちうるかによって決まります。
経済的下剋上が可能で、それによって上昇していけるか否かによるわけです。
貯蓄することがさまざまな意味において本人とって有利だったのです。
貞永式目によって土地の私有が認められたということは、王土思想を棚上げして、土地私有を原則とする社会を創造したことです。
経営能力なき藩主は、藩主としての資格がなく、資本主義化できるかできないかの分かれ目となります。
生活規範を絶対化して働くことを絶対化しない文化か否かが、やはり資本主義化できるかどうかの分かれ目となり、発展途上国の人びとのように、収入が倍になったら働く日数を半分に減らす文化は無理なわけです。
日本のような勤労が絶対化しているほうがむしろ例外といえます。
渋沢栄一は、うまくいかなくなるたびに何かそれを逆用するような形で自暴自棄にならずに運命を切り開いていくところがあり、その挫折が少しもマイナスになっていないと指摘しています。
農民であると同時に商人であり、武士的気質をもっていました。
藍を作る農民はもう耕して食うという農民ではなく、繊維・染料メーカーのような意識 作って売る 生産性を高め有利に販売し、合理化をするにはどうすべきか絶えず考えるわけです。
物の考え方が大変合理的であると同時に商売ですから当然に情報に対して極めて敏感で柔軟に対応します。
典型的な「兼聴」であり、それに対して水戸浪士などは「偏心的」なわけです。
新しい情報を得たらこれを直ちに分析して新しい判断をする。
社会変化にすばやく対応する即応性があるわけです。
保険と銀行は、一世帯当たりの保険加入額はアメリカを抜いています。
血縁集団が強固な中国韓国のような社会はいざというときには一族の援助が期待できるので保険は発達しにくいのです。
江戸や大坂等の銀行先進圏は、両替商が、地方の中進圏は無尽、質屋がその機能を担いました。
小室氏は、
「自由市場とは、『完全競争市場』のことをいう。
完全競争とは、
1.財の同質性、2.需要者・供給者の多数性、3.完全情報、4.参入と退出の自由
インターネットによる情報ネットワーク革命によって、現実性が増した。
情報開示は自由競争の基本
徳のなかでも、いちばん大切なのが正直という徳である」
と指摘しています。
日本人は、役人も企業も、情報開示が、必ずしも容易に行われていません。
日本が未だ、資本主義になっていないのは明白であるわけです。
役人は経済法則に命令を下せば、経済法則はお役人さまの命令に従うと思い込んでいるのです。
経済法則も自然法則のようなものであり、人間は疎外されているのだから、命令したってどうなることではありません。
「参入と退出の自由自とは、市場の最大の機能は淘汰にあり、すなわち、失業と破産にある」
と指摘しています。
資本主義に相応しい企業と資本主義に相応しい労働者であれば、市場は淘汰によって労働者を作り、企業を作ります。
市場淘汰こそ資本主義の生命であるわけです。
市場で淘汰された労働者は失業者となる。市場で淘汰された企業は破産する。
失業と破産こそ資本主義の生命であると述べています。
山本氏は、明治から現在に至るまでの問題点は、法により創出される制度の上で、明確な統合の中心を欠いているという点にあると指摘しています。
日本の近代国家は、はじめから統合の原理をもたず、それを行使する機関も組織もない状態を非制度的な「派閥(藩閥)と人間集団」を媒介として統合が成り立っていたとし、派閥とは政治的利害関係に基づく統合であって、それ以外の何物でもないと指摘しています。
これは、小室氏が指摘する疎外であり、役人は経済法則に命令を下せば、経済法則はお役人さまの命令に従うと思い込んでいるのであって、経済法則も自然法則のようなものであり、人間は疎外されているのだから、命令したってどうなることではないのであって、“integrity”としての統合の原理を失っていると理解できます。
つまり、「派閥」とは、機能集団が共同体化したものであるので、二重規範を余儀なくされ、統合の中心を欠き、人間は疎外されるわけです。
“integrity”による「救済の恩恵」の必要条件が「宗教的に働くこと」であるならば、十分条件は、「法と権利の世界」が「事実の世界」に正確に対応せねばならぬ「政治制度」でなくてはなりません。
現今の派閥を中心とした「根茎(リゾーム)的人脈集団」を媒介として統合がなされているのは、“integrity”の喪失に他なりません。
キリスト教諸国の法律による「樹木型組織」ではなく、一揆契約的な「ぶどうの房型組織」での「政治制度」では、“integrity”は機能し得ないのでしょうか。
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