2018年11月16日金曜日

日本人にとっての“identity”とは⑭最終章“PAXJAPONICA”への道について

戦没者追悼の国立施設は、京都に創建するのがよいと思います。
天皇には京都にお戻りいただいて、皇居を国民に開放されてはいかがでしょうか。
もともと徳川幕府の江戸城であった皇居は、西郷隆盛と勝海舟によって無血開城したものですが、国民に開放すると言う意味は、無血開城よりも革命的なものとなるのではないでしょうか。都心のど真ん中を開発できるとなれば、その経済的効果は計り知れないものになるのはいうまでもありません。

日本の首都圏上空は「横田空域」という米軍の支配下にあります。横田空域を通過するためには、米軍の許可が必要であり、JALANAの定期便でさえ、この空域を避け不自然な飛行ルートを強いられています。
日本は未だアメリカの支配下にあるわけです。

皇居の地下は、道路も地下鉄の一本も通っていません。
横田空域の問題を議論するのであれば、皇居の地下の問題も議論しなければ、筋が通らないと思います。

皇居が天皇の特権とまでは言いませんが、既得権益者保護の象徴となっている感は否めません。
官僚による利権構造のモデルケースであってはならないはずです。
絶対権力は絶対に腐敗します。官僚の腐敗は病膏肓に入ってしまっているようです。
一部の識者の間では日本の経済破綻、つまりデフォルト(債務不履行)は秒読み段階であることが暗黙の既定路線として語られています。

沖縄に集中する米軍基地の日米地位協定の見直しを求めるのであれば、先に連合国(国連、UNITED NATIONS)の敵国条項の削除を求めるべきであり、これをクリアできなければ常任理事国の加入など正式に議論されることはないと思います。

日本政府は、皇居の地下の問題にしろ、米軍の問題にしろ、内外に対してそれなりの覚悟を示さなければならないのではないでしょうか。

私は、防衛、防災上の観点から、皇居の地下の開発にあたっては、巨大なシェルターを造って、弱者優先で避難、収容できるという思想のもと設計されたものであれば、なおいっそう革命的な意味の内容を伴ってくるであろうと考えるものであります。

日本人にとっての、象徴天皇の意味内容が明確になってゆくにつれ、外国人の天皇に対するイメージも当然変わってくることでしょう。

天皇は、ユダヤ人にとっては、ヨセフの子エフライム(古代イスラエル失われた10支族の一つ)のようなものと思ってもらえればよいし、イスラム教の人には、カリフ(イスラム共同体、イスラム国家の指導者、最高権威者の称号)のようなものと思ってもらえればよいし、カトリック、正教会の人には司祭のようなものと思ってもらえればよいし、プロテスタントの人には、牧師のようなものと思ってもらえればよいと思うのです。

「…のようなもの」とは、不合理な面を吸収する機能を持った機構あるいは機関を意味するものとします。

国立の戦没者追悼施設は、京都が良いと言う理由は、平安京とはヘブライ語でエル・シャロームつまり、エルサレムのことです。

この、戦没者追悼施設は、エルサレムの第三神殿のようなものと思ってもらえればよいと思います。

宗教の壁を越えて、世界平和を祈願するこの施設は、世界の価値観の不合理な面を吸収する機能を持った機構となり、排他的な思想を棚上げしうると思います。

聖書の預言においては、第三神殿がエルサレムに建つと、黙示録の大艱難時代の預言が成就可能になるとされています。つまりハルマゲドン(最終戦争)へと向かうわけですが、その預言も棚上げの原理の効果を期待できればと思うのです。

国立の戦没者追悼施設において、天皇が追悼の式典にて、お言葉を述べるのは、現状にそったものであれば、なんら問題がないのは明らかです。
この施設において、世界の戦没者を慰霊鎮魂し、世界平和を祈願する行為そのものが、日本人のアイデンティティーを回復すものになると思います。

中江兆民が説いた「君民共治」は、日本の伝統、文化に根ざした慣習のものとしては、明治政府に受け入れられませんでした。つまり、孔孟の教えとしての倫理主義ではなく、福沢派の功利主義・実学主義が優先されたのです。

「象徴天皇」ということばが、宣誓、誓約という行為によって反映され、国立の戦没者追悼施設における慰霊鎮魂、世界平和祈願によって、内容を伴ったものになれば、
「象徴天皇・大統領併立制」は、日本の政治制度として、国民に受け入れられ易いものになると思います。

トルストイは、「戦争と平和」において、1812年のロシア戦役での、パリとモスクワの間をシンメトリック(左右対称)に往復した運動は、人智の及ばないものであり、神の摂理、予定(プレデターミネーション)によって支配されていたと述べています。それは、ナポレオンという権力者によるものではなく、個人個人の運動の力の総和が歴史を動かしたのだという考えに基づくものです。

ナポレオンがモスクワへと進軍するにあたっては、攻撃という命令をナポレオン自身は発さず、むしろアレクサンドルに講和を求めています。そしてモスクワからパリへの撤退時には、ロシアの総司令官であるクトゥーゾフは他の将校の意見を聞き入れず、追撃の命令を発しませんでした。それにもかかわらず何万、何十万という人びとが死んでいったのです。

同じようにモスクワとシベリアの間もシンメトリックに個人個人の運動の力の総和が歴史を動かしました。

古くはアッティラ汗(フン族の首長)による征西、モンゴル帝国初代皇帝のチンギス・ハンによる征西、13世紀に始まる「タタールのくびき」は、ロシア人にとって、ヨーロッパ(特にフランス)への憧れと裏腹のものであり、モンゴル人による支配は、外的自己で抑圧されエスとなってロシア人の内的自己に潜在化したと考えられます。
モンゴル帝国第五代皇帝フビライ・ハンは中国をも支配し、元として日本へも侵攻しようとしました。

トルストイは、民族大移動の契機となり、ヨーロッパという世界の更新が、アッティラ汗のきまぐれで歴史を動かしたとは、とうてい想像しえないと述べています。

司馬氏は、ロシア人のシベリアへの東征は、モスクワ、サンクトペテルブルクの貴族の装身具、防寒具としての毛皮への欲求が、東に向かっていった大きな動機の一つであったと述べています。

モスクワからシベリアへの通路は、シルクロードの北方ルートと重なります。シルクロードは、戦争の通路であり、交易の通路であり、聖書の東方周りの伝播、つまり思想の通路でもあったわけです。

トルストイは「戦争と平和」の付録のなかで次のように述べています。
「芸術家は自己の経験、書簡、手記、談話などによって、ある出来事に関する自分自身の観念を帰納する。そして戦闘を例にとっていえば、某々軍の行動に関して歴史家の試みた結論が、芸術家の結論と正反対になることもきわめてしばしばである。こういう結論の相違は、両者が利用した材料によっても説明ができる。歴史家にとっては主なる材料の源泉は部隊長や総司令官の報告である。しかし、芸術家はそういう材料から何ひとつ汲みとることはできない。そうした材料は彼のために何ごとも語らず、何ごとも説明しないのである。そればかりでなく、芸術家はその中に必然の虚偽を発見して、むしろそういうものを避けようとするくらいである。すべての戦闘において、敵どうしがほとんど常に全然相反した戦況の描写をする、などということは今さら蝶々するまでもないが、すべての戦闘記事にはかならず必然の虚偽が伴っている。それは数キロの範囲に散在して、もっとも強烈な精神的興奮を感じ、恐怖と屈辱と死の影響に支配されている、いく十万人の行動を、数語にして叙述しなければならぬ必要から生じるのである。」

山本七平氏は、従軍記者が戦意高揚記事を書いたことへの批判として「私の中の日本軍」において、次のように述べています。
日本軍なるものを把握していたのは下士官(曹長、軍曹)であって、実は将校ではない。従軍記者が、長勇(沖縄戦において突撃を繰り返し実行させた参謀長)とか辻政信(バターン死の行進に関連した偽命令による虐殺の首謀者)とかいったタイプの、大言壮語・誇大妄想・自己顕示型の参謀の一方的言いまくりを取材したとて、第一、こういう人自身が何一つ実態を把握しておらず、それが日本の悲劇だったのだから、その取材自体が無意味なだけでなく、いわば「虚偽の上塗り」で、新しい過誤への出発点になるにすぎない。
また、「ある異常体験者の偏見」において、従軍記者の「引用」の問題に触れ、史料もしくは資料としての引用と、「権威」としての引用は、はっきり別のことで、両者を同じように「引用」というべきではない。聖書学という学問は、聖書を「権威」として「引用」したら、その瞬間に崩壊してしまう。従って絶対に「権威」として引用してはならないのである。従って「教育勅語にこうある」「毛沢東が『強い軍事力』といったから強大な軍事力だ」式の引用が、「資料としての引用」か「権威としての引用」かがすぐ意識に浮かばざるをえない。聖書の引用は「こういうことは、二千年の昔にすでに人類は気づいていた」という例証としてあげてあるのであって、その例証になるなら、ギリシャ人の言葉でも仏典でも中国の古諺でもよいのであって、これが古くから気づいていたことを示すための「史料としての引用」の方法にすげない。

岸田氏は、軍部が強制的に国民を戦争に引きずりこんだというのは誤りであるとしています。いくら忠君愛国と絶対服従の道徳を教え込まれていたとしても、国民の大半の意志に反することを一部の支配者が強制できるものではないからです。この戦争は国民の大半が支持しました。と言ってわるければ、国民の大半がおのれ自身の内的自己に引きずられて同意した戦争であったわけです。軍部にのみ責任をなすりつけて、国民自身における外的自己と内的自己の分裂の状態への反省を欠くことならば、ふたたび同じ失敗を犯す危険がありましょう。

トルストイは、歴史家にとっての主なる材料の源泉は部隊長や総司令官の報告であり、すべての戦闘記事にはかならず必然の虚偽が伴っているとし、山本氏は、従軍記者の記事もトルストイの言う、ヒエラルキーの上層部の虚偽の報告と同様、いわば「虚偽の上塗り」で、新しい過誤への出発点になるにすぎないとし、また「権威としての引用」は読者を恣意的に誘導するものであり、「史料としての引用」とはならないと戒めています。

岸田氏は、国民も、軍部の大本営発表なり、マスコミの戦意高揚記事なりを支持した以上、反省を欠いてはならないとしています。

その反省という意味は、虚偽に対する被害者意識によるものではなく、日本人の場合は、ペリー・ショックによって内的自己に抑圧されたエスである「尊王攘夷」という思想が、誤りであったと悟り、アイデンティティーを回復することに他なりません。

ロシア人の場合は、キリスト教とヘレニズム、ヘレニズムとオリエントそれぞれの間にあるシンメトリックな運動が、戦争、交易、思想として葛藤、闘争し、矛盾して抑圧されたエスが内的自己に潜在化していると思います。

この様に潜在化するエスを受け容れる素地、下地が歴史上あったかどうかということを悟ること、つまりエスとなった誤りを自覚し、慣習に根ざした自己へと修正の判断をすることが、反省という意味になると思います。

この真の意味の反省、つまり「内容のある反省」とは、虚偽に対する被害者意識によって被害妄想的になっている国民が、自主的に過去の誤りを悟ることによって、内的自己と外的自己を統一し、アイデンティティーを回復するということにあると思います。

司馬遼太郎氏の名文である「人間は自然の一部であり、自然によって生かされてきた存在であり、互いに助け合うことが必要で、決して人間だけが偉い存在だなどと傲慢になってはいけない」は、西郷隆盛の死生観、つまり西南戦争において、自己を犠牲にしての混沌(カオス)の収束を、天に問い続けたことからも察せられる通り、日本人本来の宇宙観です。

日本人の本来の宇宙観(コスモス)が日本人のエスを解消すると思います。


天という全知全能の神を前提としたコスモスへの回帰が“PAXJAPONICA”への道につながると思うのであります。


2018年11月15日木曜日

日本人にとっての“identity”とは⑬象徴天皇・大統領併立制について

元来、日本人のメンタリティーは、戦争で殺した敵を祀り、祟られるのを恐れて神社、仏閣を作りました。梅原猛氏によると、法隆寺は王権によって子孫を抹殺された聖徳太子の怨霊を封じるための寺であり、大宰府も菅原道真の怨念を鎮めるために創建されたものとしています。
祟りとは、外的自己において、葛藤し、矛盾して抑圧されたエスが内的自己に潜在化されたものと考えてよいでしょう。

靖国神社は、官軍のために戦死した人を祀り、殺した敵を祀っていません。
これは、日本人のメンタリティーにはそぐわないものです。
つまり、祟となるエスを祓い清めることはできないのです。

神社仏閣が、日本人の不合理な面を吸収する機構として、機能するかどうかということは、日本人の内的自己と外的自己を統一できているかどうかということです。

外的自己において、自我と超自我の間に葛藤が起り、矛盾したものが抑圧され、エスとして内的自己に潜在化するわけですが、屈従を主調とする外的自己が日本という集団のアイデンティティーの基盤となり得るわけではないですから、そこには大きな無理があり、そのバランスはつねに危なっかしく、しばしば崩れ、抑えられていた内的自己が顕在化し爆発するわけです。

日本人のメンタリティーにそぐわないものは、エスとして内的自己に潜在化します。靖国問題はエスであり、たびたび顕在化し、小爆発を繰り返すわけです。

「象徴天皇」という言葉が、内容のない形式のみのものになってしまっているのは、日本の歴史上の伝統文化に根ざした慣習にもとづいていないからのようです。

それでは、内容を伴わせるためには、どうすればよいのでしょうか。
私は、日本人の「宣誓」という行為についての観点と、不合理な面を吸収する機構としての「神社仏閣」という観点のこの二点について、考察してみたいと思います。

小室直樹氏は、戦後天皇の「人間宣言」によって、日本人の自己は崩壊したと述べています。それまで、「現人神」として祀り上げていた天皇の絶対性が否定され、自己を支えていたものを、失ってしまったことによるとしています。

司馬氏が述べているように、古来、天皇は独裁者であったことは慣習としてなく、明治維新に形式だけの「神祇官」を復活させ、とりあえず間に合わせで、歴史上の慣習であるかのように取り繕いましたが、その後、「神祇官」を廃止し、軍部は、天皇の権威を絶対化して利用するために、「天皇の統帥権」にすり替えてしまったわけです。

その反省のもと、とはいえ、人格の統一性の裏付けを欠いた精神分裂病的なある傾向は、つ
ねにそれと正反対の傾向と背中合わせになっているという現実感覚の不全による、ひどい
態度の分裂と逆転を、憲法の条文においても起こしているかのようです。

天皇の権威の絶対化という誤りを、戦後、長期間に及ぶ歴史上の慣習をよく省みたわけでもなく、短期間に過ぎない検討により、国民に対しては憲法第19条において、「思想・良心の自由」を保障している一方、憲法第20条においての「信教の自由」は、政教分離原則(日本においては、戦前の国家神道に対する反省にすぎない)の観点から国家への制限(特定の宗教団体の国からの特権禁止、国による国民への宗教行為の強制禁止、国の宗教的活動禁止)としての「信教の自由」という色彩が濃く、これまた内容のない形式だけのものにすり替わってしまっているように思います。

「象徴天皇」は、まず天皇は人であることが、大前提です。「現人神」は否定されました。

日本の契約の慣習としての「一揆」における起請文は、天地神明という神を証人として、誓うものでした。天地神明の神は多神教の神であり、啓典宗教の唯一絶対の神とは、相容れない神です。
日本人は、そのため、神に絶対性を託することができず、物事を相対化することができないため、次から次へと感情移入した先を偶像化してしまいます。これが、日本人が付和雷同しやすい、つまり熱しやすく冷めやすく、簡単に自我を捨ててしまえる国民性であると山本七平氏が説くところの意味です。

ゆえに、日本人は、天という全知全能の神(大元神)を前提とした本来の宇宙観(コスモス)に回帰すべきであり、“integrity”の回復(「日本人にとっての“integrity”とは」編で詳述しましたので、ここでは繰り返しませんが)にもつながると思います。

キリスト型自由国家においては、法以外の王は許されないというのが大前提のため、アメリカでは、聖書に手を置いて宣誓します。法とは神の命令であり、その神を証人にすることなどありえないわけです。

私は、人である象徴天皇を証人として、宣誓することは、日本の慣習に根ざしたものになるのではと考えています。日本の慣習に根ざすという意味は、日本人にそれを受け容れる素地、下地があるという意味です。

つまり、「自分の良心に従い…」というのを「日本国、日本国民統合の象徴である天皇を証人として…」という宣誓(書)、あるいは誓約(書)を奨励してはと思っています。
これは、あくまでも上からの強制であってはならず、各コミュニティー、自治体等で自主的に奨励して広まっていくのが理想ですが、神社仏閣が指導してゆくのがよいのではないでしょうか。

天皇は、歴史上「現人神」として絶対化された時代を除き、祀られる側の神であったことはなく、祀る側の人でした。

神祇官と太政官が同格で並立していたということは、神事と現事を分離し、政教分離原則に則っていたものと言えます。兆民の説いた「君民共治」は、不合理な面は、神事が吸収し、合理的な面は現事が担当しようということになると言えます。
この時大事なことは、神事が歴史上の慣習に根ざしたものであるかどうかということです。
象徴天皇は、国民の総意を代表して、全知全能の神である大元神を拝して国民の証人になることは、日本の歴史上の慣習に根ざしたものであり、神社仏閣の教えに適ったものになると思います。

こういったことを積み重ねてゆくことが、象徴天皇という言葉が、形式だけのものではなく、内容を伴ったものになってゆくと思います。

日本人にとって、不合理な面を吸収する機能としての機構であった神社仏閣は、明治政府の廃仏毀釈による国家神道という無理な機構の「天皇の統帥権」いうごまかしにより、日本は破滅し、天皇の「人間宣言」によって、日本人の自己は崩壊しました。

この崩壊した自己は、「尊王攘夷」という無理な思想がエスとなり、内的自己に抑圧され潜在化したものです。これがたびたび、外的自己に顕在化し、爆発を繰り返さざるを得ない症状を治癒するためには、内的自己と外的自己を統一しなければなりません。

「尊王」とは天皇を敬い、「攘夷」とは外的を撃退しようとする思想です。
「尊王」と「攘夷」の間での葛藤が矛盾として抑圧され内的自己に潜在化したものが、日本人のエスです。このエスを日本人が誤りであったことを悟ることが、内的自己と外的自己の統一となり、日本人のアイデンティティーは回復すると思います。

兆民の説く「民約論」の本旨は、「人間は、原始時代には自由で平等であった」
という、(このルソーの巨大な前提を自然状態といいます。)その人間固有の権利を回復する方法がであったわけですが、日本においては、自由と平等というキリスト教型国家の思想を形而上学的に検討せず、欽定憲法という上からの規定としてしまい、日本人が受け入れることのできる素地、下地とはなりえませんでした。つまり、日本の歴史上の慣習に根ざした思想にはなり得なかったわけです。

兆民の説いた「君民共治」という政治制度は、イギリスが立憲君主制でありながら、その民権は堂々たる回復の民権(固有にもつ権利を人民が下からすすんで取ったもの、という意味)であるとたたえていることからもわかるように、欽定憲法である帝国憲法とは相容れません。

「君民共治」である天皇、大統領並立制は、現行の間接民主制が、事実上の官僚支配(世襲化した政治家が官僚の操り人形になってしまっている。)から脱却するのが困難であることを考えると、直接民主制の大統領制への移行は望ましく、また、象徴天皇制が歴史上の慣習に根ざした制度でなくてはなりません。

そのための方策としては二つあって、象徴天皇制が現状の形式的なものに内容をともなわせるため、宣誓という行為において、「日本国、日本国民の象徴であり、国民の総意を代表する天皇の名において、(証人として)自己の良心に従い…」というものを、日本の不合理な面の吸収機能の機構であった、神社仏閣が奨励、指導して普及させてゆくことが一つだと思います。

もう一つは、不合理な面を吸収する機能としての機構である神社仏閣ですが、鎮護国家と同格に世界平和を祈願する思想を積極的に広めていくことが望まれます。

世界平和を祈願するには、慰霊鎮魂という儀式が重要な意味の内容となってゆきます。
靖国神社に替わる、戦没者追悼施設を国立で創建することは幾度も検討されてきたようですが、そこでは、政教分離と信教の自由という相矛盾する内容をどのように解決したらよいかということが、問題であったように思われます。

律令時代の神祇官と太政官が同格で並立していたのは、日本における政教分離原則の模範となるわけで、明治政府も一度は復活させたわけですが、神祇官を形骸化(内容を失い形式だけのものになる。)してしまいました。それは、天皇個人を絶対化することにより、(天皇は本来、祀る側の人ではあっても、祀られる側の神ではなかったにもかかわらず)天皇の権威を利用するためでした。


象徴天皇としての内容は、神事を司る日本人の総意に基づく代表として、日本人のみならず、敵国であった戦没者に対しても慰霊鎮魂する式典は、日本人のメンタリティーに適ったものであり、エスとして抑圧された「尊王攘夷」という誤った思想を誤りと悟り、日本人のアイデンティティーを回復させることに寄与すると思います。

そして、象徴天皇という言葉が内容を伴うものとなれば、「象徴天皇・大統領併立制」は、日本の伝統文化に根ざした慣習に適った政治制度になると思います。


2018年11月14日水曜日

日本人にとっての“identity”とは⑫不合理性吸収機構としての神社仏閣について

私は、このブログの「日本人にとってのintegrityとは」編で詳述しましたので、ここでは繰り返しませんが、日本国憲法における「象徴天皇」の象徴という意味が曖昧で、つまり、内容のよくわからない形式に過ぎないもののように思われるのです。

象徴という言葉が憲法内で格別に規定されているわけでもありません。
「象徴天皇」という言葉も、自由、意識、生の本質、自然の力を伴うことによって、内容を持つということになると思います。
それは、日本における、思想の歴史上の伝統文化に根ざした慣習となっているものであるべきということです。

司馬氏は、
「日本は維新によって君主国として出発した。
しかしながら、天皇の独裁は歴史的慣習としてみとめない。中世にあっては関白や上皇、法皇が政治を代行し、次いで鎌倉幕府、室町幕府、豊臣政権、徳川幕府がそれを代行してきた。維新は徳川幕府をたおして天皇の親政にもどすというのが建前であった」と述べ、
建前とは、内容の無い形式だけと理解できます。

司馬遼太郎氏は「翔ぶが如く5」において
「明治憲法の中に天皇の統帥権という非立憲的な要素を噛みこませ、その統帥権の保持機
関としてこの参謀本部の性格を明確にしたことでもわかる。作戦に必要とあればときに内
閣も議会も無視してよいというこの魔術的大権は、山形有朋の生存中こそ無害であったが、
その死後、大正から昭和にかけて参謀本部が政治的謀略の府になるとともに、軍人が国家
を手玉にとるような仕掛けのたねになった。」と述べています。
「天皇の統帥権」という「ごまかし」の仕掛けによって、無理に無理を重ねていったわけです。

奈良朝のころは、神事をつかさどる官庁として神祇官と、現実の政治をつかさどる太政官とが同格で併立していました。
しかし、明治の制度は上代の律令時代とことなり、神祇官は太政官の下におかれ、明治四年、神祇官は廃止されてしまいました。つまり、「現事」が本になり、「神事」が末になってしまったと司馬氏はのべています。

兆民の「君民共治」は、現事は大統領がつかさどり、神事は天皇がつかさどる制度ということでしょうか。
イギリスの立憲君主制は、不合理な面は王室が吸収し、合理的なことは、下院でいこうという棚上げの原理によるものと山本氏は説明しています。

帝国憲法も立憲君主制でしたが、イギリスと決定的に違うところは、イギリス人は神に絶対性を託すことが大前提にあるため、王室と下院も相対的にとらえることができます。つまり、神が自己を支えているわけです。

日本人は、人と人の間のお互いの関係のみが、自己(自分と他人を通しての「自分」)を支えているので、簡単に自我(自分を考える「自分」)を捨ててまで、相手に対して譲歩してしまいます。

トルストイの言うように、自我とは、自由です。キリスト型国家における国民にとって自我を捨てるということは、自由を捨てるに等しく、それは神を否定することとなり、絶対に不可能なことです。

日本人は、そこで、自己を支える「つっかえ棒」として、天皇を持ち出しました。
天皇を「現人神」として神聖化し、絶対的な権威として、軍部が利用したのが、「天皇の統帥権」という魔術的大権でした。

江戸幕府も天皇を権威として利用したことに変わりありませんが、江戸時代は、孔孟の教えである倫理主義が、自己の支えの一つになっていたと思われます。

山本氏が言うように、「キリシタンは困るという理由は、直接神を拝するからいけない、と。儒教においても天を拝するということはあるけれども、天を拝していいのは皇帝だけだと、諸侯は皇帝を拝すること即ち天を拝する所以であり、家臣は諸侯を拝すること即ち天を拝する所以である、と。つまり、すぐ一つ上を拝する。妻は夫を拝すること即ち天を拝する所以なり。こうして順々に階層的になって日本の秩序はできている。」

一つ上を拝するということが、日本の秩序になっていたということは、歴史上、慣習に根ざしていたことであり、孔孟の教えである儒教が、無理なく庶民に受け入れられていたことと言えます。

それに対し、明治政府は、開明派(脱亜入欧)の福沢派の人が多く、功利主義・実学主義が支配的で、兆民が持ちだした孔孟の教えの倫理主義は、容れられなかったのです。

天を拝すとは、形而上学の領域に棚上げする原理が働くと考えてよいと思います。
不合理な面を吸収する機構としては、日本では神社、仏閣が担っていたわけです。

トルストイは、必然の法則を認めたならば、霊魂や善悪に関する観念、ないしこの観念の上に確立された国家および教会の施設が、すべて崩壊するように思われた。
 以前ヴォルテールがなしたのと同様、今でも認められざる必然律の擁護者は、この必然律を宗教と戦う武器として使用した。ところが、それと同じようなぐあいで、歴史における必然の法則は、天文学におけるコペルニクスの法則と同様に、国家と教会の施設の基礎を破壊しないばかりでなく、かえって反対に確立さしているのであるとしています。

これは、唯物史観の根拠である物理学を、ヴォルテールが、カトリックの教会批判に利用したことを批判しているものと理解できますが、霊魂や善悪に関する観念、つまり物理学で解明できない不合理な面は、ヴォルテールの教会に対する闘争にもかかわらず、国家と教会の施設が吸収する機構として機能していたことを意味していると理解できます。

日本において、不合理な面を吸収していた機構は神社仏閣でした。明治政府は、廃仏毀釈による国家神道という、日本の伝統文化にそぐわないものにしてしまいました。
古来、神社と仏閣は併存していたのが自然であり、歴史上、伝統文化に根ざして慣習化されたものでした。それを歪めてしまったものが国家神道というものです。

天皇を神聖化し、絶対の権威として利用した魔術的大権である「天皇の統帥権」の仕掛けのたねの一つになったものです。ここに大きな無理があったことは、言うまでもありません。

岸田氏は、幕末以来、今日に至るまで、日本の政府においては、太平洋戦争中の四年間を除き、ずっと外的自己の代表者が主流を占めてきた。しかし、屈従を主調とする外的自己が日本という集団のアイデンティティーの基盤となり得るわけはないから、そこには大きな無理があり、そのバランスはつねに危なっかしく、しばしば崩れ、抑えられていた内的自己が爆発すると述べています。

西南戦争は、内的自己の爆発の一つです。西郷隆盛は、自分が作った東京政府に対する、武士の不満を、自分が犠牲になることによってしか解消できないことを悟り、実行しました。

西郷は靖国神社には、祀られていません。最期は逆賊になってしまったからです。

靖国神社は、当初、軍部が作ったもので、国の施設(東京招魂社、明治12年靖国神社と改称)でした。
不合理な面を吸収する機能を持った機構としては、伝統文化に根ざした慣習には適っていないと思います。

以下、考察を続けてゆきます。


2018年11月13日火曜日

日本人にとっての“identity”とは⑪伝統文化に根ざした慣習について

日本における思想の歴史上、伝統、文化に根ざした慣習とはいかなるものでしょうか。
岸田氏は
「幕末以来、今日に至るまで、日本の政府においては、太平洋戦争中の四年間を除き、ずっと外的自己の代表者が主流を占めてきた。外的自己は、あるいは内的自己を弾圧、抑圧、放逐し、あるいは内的自己に名目的絶対権を与え(天皇制)、あるいは内的自己と妥協して部分的にその要求を是認、実行し、あるいは外征・対アジア侵略にふりむけ、何とか切り抜けてきた。しかし、屈従を主調とする外的自己が日本という集団のアイデンティティーの基盤となり得るわけはないから、そこには大きな無理があり、そのバランスはつねに危なっかしく、しばしば崩れ、抑えられていた内的自己が爆発する。太平洋戦争は大爆発だったが、小爆発は絶えず繰り返される。日本近代史において、内的自己の代表者は、吉田松陰、西郷隆盛、二・二六事件の蹶起将校、特攻隊員のように、しばしば、いったん生贄に供されたあと、(一部においてにせよ)神聖化され、崇拝されるという経過を辿る。あとからその主張が採択され、実行されることもある。殺されて祀り上げられるのだ。あたかもイエスのように。」

唯一の現人神であるイエスは、磔にされ、三日後に復活しました。すべての人の罪を贖うために自己を犠牲にしたわけです。

日本においては、仏教の「不惜身命」がそれに通じる思想ですが、その思想のもと、特攻隊員は、現人神として祀り上げられた天皇を絶対化してしまい、「天皇万歳」と言って死んでいったのは、自由の無い必然による形式的なものでした。
ほとんどの特攻隊員は「おかぁさん」と言って死んでいったのであって、自由な内容のある死に方でした。
フロイドが記述しているように、生後間もない赤ん坊は母親との関係のみが現実世界であり、日本の古い諺の「三つ子の魂百まで」ということからも察せられます。

彼ら特攻隊員を神聖化することは、偶像化につながり、その矛盾による葛藤は抑圧され、日本人のエスとして内的自己に潜在化してしまっているのです。

司馬遼太郎氏は「翔ぶが如く十」において
「官とは、明治の用語で、太政官のことである。日本語ではない。遠い七世紀に、日本の農地をすべて天皇領にし、すべての耕作者をオオミタカラ(公民・天皇のヤッコ等という意)にしたときそれらを統治するための中央集権の機構を中国式にし、それを官という中国語でよんだ。その後武家政治という現実主義的土地所有制の出発で『官』は有名無実になり、明治維新とともににわかに復活した。極端な開化政策をとるためには、極端な復古主義に重心を求めざるをえなかった当時の政治力学の所産といっていい。
要するに維新早々の『官』というのはかつて幕府のことを『大公儀』と尊称したものと概念、思想、語感がほとんど変わらず、官員の権威は、大官が旧大名で、中以下は旗本であった。かつての大公儀の政令は各藩の内治には及ばず、法理的には『大名のうちで最大なるものでその盟主』というにすぎず、大公儀の武威が衰えると諸藩が野党的色彩を帯びるという相対的な一面もあったが、『官』の場合、明治四年、薩長土の『御親兵』の武威によって廃藩置県が成功すると『官』は日本史上最強の絶対権力になった。維新後わずか四年だから、太政官にいるもの以外からみればあっという間の出来事である。」

司馬氏は「明治維新の『官』というものが、かつて幕府のことを『大公儀』と尊称したものと概念、思想、語感がほとんど変わらない」と述べています。つまり政治制度としては、以前からの慣習のままであったということでしょう。

司馬遼太郎氏は、「翔部が如く六」において
「奈良朝のころは神事(祭祀、大嘗、鎮魂、卜占)をつかさどる官庁として『神祇官』というものがあった。この官庁は現実の政治をつかさどる太政官と同格で併立していた。
明治元年、この制度を復古し、神祇官を再興した。しかし明治の制度は上代の律令時代とことなり、神祇官は太政官の下におかれた。次いで神祇官を太政官のそとに置いて独立させもした。ところが明治四年になって神祇官は廃止されてしまった。単に教部省ということになり、『現事』が本になり、『神事』が末になった。」

司馬氏は「翔部が如く」のなかで、
「ルソーの『民約論』(社会契約論)の訳者である中江兆民は、仏学塾を主宰していた。かれの思想的影響下にあるこの塾の気分が、ほぼ察せられるであろう。
兆民はフランスからの帰国からその死にいたるまで、その思想の基本を変えることがなかった。天皇の存在についても、ときに『君民共治』の論を述べつつ、多分に修辞的にそれを用い、君主が存在しても政治上の責任や権力をもつことを認めず、政体としては共和制以外を認めず(たとえ君主が存在しようとも)、国土のあるじはあくまでも人民であるとした。
 といって、兆民は行動として廃帝をおこなおうとする運動者ではなかった。かれはイギリスが立憲君主制でありながら、その民権は堂々たる回復の民権(固有にもつ権利を人民が下からすすんで取ったもの、という意味)であるとたたえている。
 が、一面、イギリスの貴族跋扈や財産不平均を手痛く指摘するところに、兆民の思想があるであろう。」

兆民の「君民共治」という思想は、奈良朝のころの神事(祭祀、大嘗、鎮魂、卜占)をつかさどる官庁として『神祇官』と、現実の政治をつかさどる太政官とが同格で併立していたことと比較して考察しなくてはならないと思います。

司馬氏は、「伊藤博文の民権論は、多分にきな臭くもある。かれの民権への同情は機略として出ていた。(日本中に充満する東京政権の不満を、民権体制をとることによって吸収してしまわねばならない)
ということであったであろう。事実、からは後年、かれが起草し、その手で発布まで事を運んだ『帝国憲法』によって、自由民権運動の大波の力を一挙に吸収してその力を失わせてしまうのである。この憲法は、欽定であった。天皇が定めた、というものであった。中江兆民という、人民が固有の権利を回復したものではなく、恩寵のそれだった。兆民は帝国憲法の草案をみたとき、一読して苦笑し、何もいわなかったという。」と述べています。

伊藤博文の手法はちょうど、岸田氏の言う「明治国家体制というのは、無理をしたために文化における伝統的な不合理の吸収機構が壊れたんじゃないかと思うんです。」と述べ、また、「それぞれの民族の文化の違いは、本能の壊れ方の違いなのではなくて、壊れたあとの対処の仕方だと思うんです。」ということにおいて、伊藤博文は「ごまかし」の民権体制をとることによって、東京政権に対する不満を吸収したわけですが、兆民は、その「ごまかし」を見抜いていたということだと理解できます。

「中江兆民は儒学をも大切にする。学校の教育に必要なのは徳性の涵養にあるとし、いかに外国語を教えても、人格が高くならなければ教育とはいえない、西洋ではキリスト教をもって徳育の根本としている、日本にあっては孔孟の教えを教えるべきである、と文部省にかけあった。当時の文部省の役人は福沢派の人が多く、功利主義・実学主義が支配的で、兆民が持ちだした倫理主義は、容れられなかった。」
これも、無理をして、キリスト教の徳育を取り入れるのではなく、すでに慣習として根ざしている孔孟の倫理主義を教えるべきとしています。

「人間は、原始時代には自由で平等であった」
という、ルソーの巨大な前提を、兆民はくりかえし話しました。ルソーはその「人間不平等起源論」ではこの状態を自然状態といいます。人間はそこから社会状態へ入って、自由をうしない、平等をうしなった。土地の私有によっていよいよ不平等性が増大し、人間は社会的害悪のなかに苦しむようになったわけです。
その人間固有の権利を回復する方法が「民約論」の本旨である、とルソーは説き、兆民も説くのでありました。

トルストイは、自由は意識であり、内容であり、生の本質であり、自然の力であると説いています。これらに対して相反するものとして、必然、理性、形式、理性の法則を導き出しています。
トルストイの説く自然の力は、ルソーが「自然に帰れ」と説いたことに相通じています。

ルソーの「自然に帰れ」は、トルストイに言わせれば「自由に帰れ」となりましょう。

フロイドの心理学においては、人間は、本能が歪められ、自然との接触を失ったため疑似現実という幻想を必要とし、文化を創造したと説明されます。物理学的思考を土台とする唯物史観とは相容れないのは、トルストイの思想と同様です。

日本人の自然観というものは、天地神明という天と地のあらゆる神々という多神教の世界であり、唯一絶対の啓典宗教の神とは相容れないものと私も以前は考えていましたが、今はそうではないと考えるようになりました。

司馬氏は、小学校6年生の教科書にも載った名文で「人間は自然の一部であり、自然によって生かされてきた存在であり、互いに助け合うことが必要で、決して人間だけが偉い存在だなどと傲慢になってはいけない」と述べています。

これは、天という全知全能の神を前提とした宇宙観(コスモス)といえるのではないでしょうか。

西郷隆盛は「敬天愛人」という言葉を座右の銘にしていました。明治政府を作った張本人である西郷が、ヒエラルキーの頂点に位置するものとして、直接天を拝していたのです。

司馬氏は「翔ぶが如く」において、この西郷を常に天に問い続けた人物として描いています。田原坂において「晋どん、もうこの辺でよか。」(「晋どん」とは、介錯役の別府晋介)と言って自決したくだりは、西郷の宇宙観が集約されています。司馬氏の名文は、この西郷の宇宙観からも察することができると思います。

この司馬氏の名文は、トルストイの言う自然の力であり、宇宙観(コスモス)としては、フロイドの言う内的自己と外的自己の統一に通ずると思います。

コスモスの対義語はカオス(混沌)です。
フロイドが死の欲動の概念として提示した涅槃原則(ニルヴァーナ原則)は熱力学第二法則(エントロピー増大の法則、第一法則はエネルギー保存の法則)の別名とされます。エントロピーが増大の一途を辿る結果として、あらゆるものは「一切空」の状態に達するからです。エントロピーとは、運動状態の混沌性・不規則性の程度を表わす量を意味します。

涅槃原則は、西郷の死生観に通じるものがあると思います。
西郷のもとに結集し、死んでいった薩摩隼人たちの基本思想は、多言を弄さず命を賭して弱きを助けるというものでしたが、多分に不平士族の不満を解消するため、西郷は自己を犠牲とし、混沌の収束に向かわざるを得なかったのだろうと思います。
自分をオセンシとして慕い結集した薩摩隼人や全国の不平士族と、自分が作った東京政府への彼らの不満解消という矛盾による葛藤が、西郷の天への問いかけとなっています。

ルソーのいう回復の民権(固有にもつ権利を人民が下からすすんで取ったもの、という意味)は、日本人にとっては、本来の宇宙観への回帰と言ってよいのではないでしょうか。

私は、自由、リベラルという思想は、欧米の血で血を洗う歴史、つまり奴隷解放の歴史の中から獲得したものであり、そのような経験を歴史上持たない日本人には、理解しようにも理解できないと考えていました。しかし、自由というものは、自然の力であり、回復の民権が日本人本来の宇宙観(コスモス)であると悟った今は、自分の考えが誤りであったと反省し、修正する判断に至ったことを、ここに表明する次第です。

ルソーの「民約論」の訳者である兆民は、「君民共治」の論を述べています。これは、天皇と大統領を併立させる政治制度のことです。

イギリスが、立憲君主制という、共和制の変種を貫いているのは、本来、キリスト教型国家では王制が禁止されているのに、棚上げの原理を採用している例として、山本氏が述べている通りです。

これに比べれば、天皇と大統領を併立させることは、まだましのように思われますが、ことはそう簡単ではありません。

以下、考察を続けてゆきます。


2018年11月12日月曜日

日本人にとっての“identity”とは⑩棚上げの原理について

山本七平氏は岸田氏との対談のなかで次のように述べています。
「絶対性を神に託することによって人間はすべて相対的になり得る。これは政治体制もそうですよね。人間社会における不合理をだんだん棚上げしていっちゃうわけです。イギリスがその典型で棚上げの対象が王室です。だから、国王をいただいた共和国、とこうなる。体制からみるとイギリスは非常におもしろい国で、(日本のように)「国会は国権の最高機関にして…」なんてことはどこにも書いていない。いまもって女王陛下の軍隊であり、女王陛下の下院なんです。民主主義社会になぜ王室なんてものがあるんだというかわりに、不合理性をそこに棚上げして、下院は合理性でいこうや、というわけです。」

岸田氏は、
「明治維新以前には神社などがそういう不合理な面を吸収していた。ところが、明治以降というのは、(神社などに)押し付けていた不合理なものを取り戻しちゃったんですよね。その結果、全能感がこちらに帰ってきて、日本軍人が神がかりになってゆく、という流れが考えられますよね。日本という国がずっと生き続けてきた以上、不合理性の吸収機構がなかったはずはないでしょうね。全然なければ滅びているはずです。その意味では明治国家体制というのは、無理をしたために文化における伝統的な不合理の吸収機構が壊れたんじゃないかと思うんですけどね。」

岸田氏は、「それぞれの民族の文化の違いは、本能の壊れ方の違いなのではなくて、壊れたあとの対処の仕方だと思うんです。」と述べ、
山本氏は「宣誓に関する論争において、誓うという言葉が日本では「お互いの間で」なんです。ところが、イスラム型乃至はキリスト教型世界では、基本的にいって「お互いの間で誓って、神との契約を破る」などと言うことは絶対に許されないし、天地神明のように神を証人としてひっぱり出すことも許されない。」と述べています。

トルストイは「戦争と平和」のなかで、「義務と忠誠宣誓は何よりも尊い」と述べています。
この義務と忠誠は、祖国ロシアに対するもので、国民のナショナリズムとしてのエネルギーを高揚させる一因となったものでしょう。

アメリカでは、大統領が就任するとき、聖書に手を置いて宣誓します。これは、イギリスとの独立戦争において、絶対王制では国王が法であるように、自由国家においては、法が国王であるべきであり、またそれ以外が国王であってはならないという思想に基づいていると言われています。
これによって、アメリカは特別な日に聖書の上に手を置き、宣誓することになったようです。
民衆から選ばれた大統領が、神に職務を忠実に遂行する、という意味合いも含まれるでしょう。
王制は、聖書では禁止されています。

次に、政教分離原則の観点から考えてみますと、ヨーロッパにおいては、ルターの宗教改革の後、異教徒虐殺という宗教戦争を経て、宗教の政治への介入をふせぐという考え方のものでした。

日本での政教分離は、戦前の国家神道に対する特典を廃止することから始まりました。

日本における、信教の自由とは、国が特定の宗教団体に特権を与えたり、国が個人に宗教上の行
為を強制したり、国が宗教的活動をしてはならないというもので、国家に対する制限となっています
が、戦前の国家神道に対する反省のもとに、短期間で日本国憲法、第20条に規定されたもので
す。

それに対して、欧米の信教の自由は、個人個人の精神的自由そのものの希求により、自由権確立
に至った長い闘争(宗教戦争)の歴史があります。

山本氏は、宣誓というものについて、欧米と日本の違いを述べています。

「お互いの間で誓って、神との契約を破る」などと言うことは絶対に許されないし、天地神明のように神を証人としてひっぱり出すことも許されない。」と述べているのは、欧米では、「絶対性を神に託することによって人間はすべて相対的になり得る。」のに対して、日本では、「お互いの間で」となってしまいます。

トルストイは、自由と必然の関係から、内容と形式の関係を導きだしましたが、日本にお
いての宣誓は、自由すなわち内容の無い必然的な形式だけのものになってしまっていま
す。欧米での自由は形而上学の対象として、棚上げされていますが、日本における信教の
自由などというものは、自由という言葉自体、形而上学として検討されたものでもなく、
それこそ内容の無い形式だけのものとなってしまっています。それゆえ、天地神明(天と
地のあらゆる神々のこと)という神を証人としてひっぱり出してしまえるわけです。

キリスト教型自由国家において、法が国王であるということは、絶対性を託された神の命
令が契約であり、それによって政治体制もできているわけで、神を証人とするなどという
ことは、あり得ないわけです。

日本においては、国会の証人喚問にしても、裁判における証人の宣誓においても、「自分
の良心に従い…」となされますが、そもそも「自分の良心」なるものが、内容の無い形式
だけのものとなっていて、宣誓に値するものではなくなっています。

心理学においては、外的自己における、自我と超自我のうち、超自我が良心の機能を営む
ものとしています。自我と超自我の間で葛藤が起り、矛盾したエスが抑圧され、内的自己
に潜在化されます。自我は自由なる意識であり、超自我は、必然的な理性であり、理性の
法則が形式となるわけですが、それは、歴史において自由の力の本質、あるいは、自然の
力が内容を形づくってきたものであることが、前提となります。

日本における宣誓は、思想の歴史において、自由の力の本質が反映されていると言えるで
しょうか?
つまり、歴史上の伝統、文化という慣習に根ざしたものでなければ、良心の呵責を意識で
きないということにあると思います。

心理学では、抑圧されて内的自己に潜在化したエスを矛盾した誤ったものであると悟り、
自由である意識として外的自己に顕在化できうるかどうかということ、つまり、良心の呵
責に迫ることができるかどうかということになると思います。

余談になりますが、ダグラス・グラマン事件(1979年)において、国会の証人喚問で当時
の海部八郎日商岩井副社長が、宣誓書に署名する際、手がふるえてなかなか書けなかった
場面がTV中継されました。
これは、あくまでも私個人の憶測ですが、海部八郎氏は、海部(あまべ)氏の系統なので
はないかと思います。海部一族は代々神官として、神に仕えた家柄です。海部俊樹元首相
もその系統だったと思います。
特に、天橋立で有名な元伊勢の籠神社は、海部氏が代々神官を勤めてします。元伊勢の籠
神社は、アマテラス以前の大元の神である大元霊神(大元神)が祀られています。大元神
とは、いわゆる唯一絶対のユダヤ教のヤハゥエ、イスラム教のアッラー、キリスト教の父
なる神と同じで、それぞれ呼び名が違うだけの全知全能の神です。海部八郎氏が、神官と
しての系統であるが故、手がふるえて宣誓書に署名できなかったのだとしたら、その心情
はよく理解できます。ご本人は手がふるえたのは、血管の病気によると説明されたとのこ
とですが…

最近の国会において、官僚による行政文書の捏造、隠蔽が問題となっています。国の根幹
を揺さぶるものと言われながら、その官僚を国会に招致し、質疑応答するにあたって、参
考人招致では偽証罪に問うことができないので、証人喚問にすべきという議論は、これほ
ど国会という場が議論の場ではなくなり、形骸化(内容を失い形式だけになってしま
う。)してしまっているということの証明にほかなりません。

宣誓という行為が、意味のない形式だけのものではなく、歴史上の慣習に根ざした内容を
持ったものでなくてはならなく、また、神聖なものでなくてはならないのは、国会という
国家の最高機関が正常を取り戻すためにも必要なものと思います。

国会は、合理的な議論がなされなければならない場でありながら、官僚によって不合理な
状態に棚上げされてしまっていると言っても過言ではないでしょう。

岸田氏によれば、西欧の歴史においては、生気論と機械論、目的論と因果論、観念論と唯物
論、先験論と経験論、創造説と進化論など、多岐にわたるさまざまな思想の闘争の歴史が
あり、人間は物理化学的反応体であるというテーゼも、その闘争のなかから必然的に生ま
れてきたテーゼの一つであって、そういう思想の歴史を背負っている西欧人としては、こ
のテーゼの真偽はその世界観の存亡にかかわる重大な問題であり、いずれ決着をつけねば
ならないわけです。


これらの思想の闘争の歴史も、それぞれ、将来決着がつくまで、棚上げにされている状態と言えるわけです。


2018年11月11日日曜日

日本人にとっての“identity”とは⑨現実感覚の不全について

 岸田氏によると、日本にペリー・ショックという精神外傷を与えて日本を精神分裂病質者にしたのも、日本を発狂に追いつめたのもアメリカでありました。そのアメリカへの憎悪にはすさまじいものがありました。この憎悪は、単に鬼畜米英のスローガンによって惹き起こされたのではなく、百年の歴史をもつ憎悪であったわけです。日米戦争によって、百年来はじめてこの憎悪の自由な発現が許されました。開戦は内的自己を解放したのです。
 軍部が強制的に国民を戦争に引きずりこんだというのは誤りであるとしています。いくら忠君愛国と絶対服従の道徳を教え込まれていたとしても、国民の大半の意志に反することを一部の支配者が強制できるものではないからです。この戦争は国民の大半が支持しました。と言ってわるければ、国民の大半がおのれ自身の内的自己に引きずられて同意した戦争であったわけです。軍部にのみ責任をなすりつけて、国民自身における外的自己と内的自己の分裂の状態への反省を欠くことならば、ふたたび同じ失敗を犯す危険がありましょう。
 国力の不足もさることながら、日本の敗北に拍車をかけたのは、日本軍の現実感覚の不全でありました。
 人格の統一性の裏付けを欠いた精神分裂病的なある傾向は、つねにそれと正反対の傾向と背中合わせになっています。泥水すすり、草をはみ、死ぬまで戦う日本兵の向こう見ずの勇敢さと、なかには頼まれもしないのに自分から申し出てアメリカ空軍の爆撃機に乗り込み、ここが日本軍守備隊の司令部、あそこが砲兵陣地だと教えた者もいた日本兵の捕虜の卑屈さとは、表裏一体のものであって、前者を賛美して後者を非難するのは筋が通らないと言えるとしています。
昔の日本人には、このようにひどい態度の分裂と逆転はあまり見られなかったと思われます。戦国時代の武将が命を懸けるときは、敗北したときに予想される事態と勝利の可能性を計算して、客観的にいっても命を懸けるに値すると思われるときでありました。そしてとくに、彼らは退くときをしっており、闘争精神を示すだけの無用な戦いはできるかぎり避けました。敗北と決まれば、さっさと戦いをやめたのです。もちろん、判断を誤ることはあったが、その誤りは人格の分裂にもとづく痼疾的なものではありませんでした。日本人がこのような現実感覚を喪失して、退却を屈辱と感じ、実際の効果のないことのために命を捨てるのを勇敢と思うようになったのは、日露戦争のときの旅順攻略がはじめてで、日米戦争の末期にその極に達したわけです。

連合国の日本占領が平和裡に成功したのは、マッカーサーの占領政策がうまかったためでも、戦争をはじめるときと同じく戦争をやめるときも日本国民が天皇の命令に忠実であったためでもありません。分裂病質者に特有な態度の逆転が起こっただけのことであるわけです。

小室直樹氏は、山本氏と岸田氏との対談の解説として、次のように述べています。
「日本は何故大東亜戦争に敗けたか。
敗けた理由は、日本国民が精神分裂病(的)であったからである。
岸田氏の方法論は、精神分析を集団現象の説明に用いる。
アメリカ軍は一つ失敗を犯すと、同じような失敗を二度と繰り返すことはほとんどない。
しかし、日本軍は同じ失敗をまた繰り返す。それ故に日本は敗けた。
精神分析で、手段が目的化し、本来の目的より優位に立つのをフェティシズムと言う。日本軍は一種のフェティシズムに陥っていたので、「臨機応変性、柔軟性」を失い、「状況を無視した固定的、強迫的反応を示しはじめる」そして「反応が固定する」
この理由によって、日本軍は「いったん決定すると、何度失敗しても断固として方針を変えないわけである。言葉を換言すれば、目的合理性を欠き強迫観念的に呪縛されてしまうことになってしまうのである。その結果、現実感覚が不全になる。
すなわち、「日本軍があれほどみじめな惨敗を喫したのは、戦意、努力、物量の不足のためではなく、諸症状にあらわれている現実感覚の不全のためである。
日本国家の構造的欠陥は、現在に至ってもそのままである。」

岸田氏は、「人間集団は不安定である。集団は無限に拡大しつづけることはできないし、それを支える共同幻想は各人の私的幻想を完全に吸収することは決してできない。各人に分有された共同幻想は超自我および自我となり、共同化されずに残った私的幻想はエス*を構成する。このエスが、共同幻想にもとづく集団の統一性を内部から危うくする重大な要因となる。」と述べています。
     精神分析で、人格構造に関する基本的概念。人間が生まれつき持っている無意識の本能的衝動、欲求など精神的エネルギーの源泉。快を求め不快を避ける快楽原則に支配される。したがって自我や超自我と葛藤を起す。

集団と個人は共同幻想を介してつながっています。集団を支えているのも、個人を支えているのも共同幻想であるわけです。集団の共同幻想は、個人の私的幻想の共同化としてしか成立し得ず、個人はその私的幻想を共同化することによってしか個人となり得ません。したがって、集団の共同幻想は、個人の私的幻想の共同化された部分(超自我および自我)と一致します。そして、共同化されなかった部分(エス)は、集団を構成する個人のあいだで大体共通しています。そこで、各人のエスは集団のなかで、忌まわしいもの、おおっぴらには言えないもの、罪深いもの等々を形づくるわけです。

トルストイは
「歴史の対象たる人間は直截明瞭に、われは自由なり、したがっていっさいの法則に服従せず、と断言する。
 言葉をもって明白に表示こそされないけれど、人間の意志は自由なりという問題の存在は、歴史研究の一歩ごとに感じられる。」

「この矛盾のなかにこそ、意志の自由に関する問題がひそんでいるのである。それは古代より卓越した人々の頭脳を領し、偉大な意義を付与されてきた問題である。」

もし人間が自己を観察の対象としたとき、自分の意志がいつも同じ法則によって方向づけていることを認めるならば(たとえば食物摂取の必要、もしくは頭脳の活動、その他いかなる作用を観察するとしても)、彼はこのつねに同一な意志の方向も目して、一種の制限とよりほか解釈することができないわけです。自由でないものが制限されるべきはずはありません。人間が自分の意志を制限されたものと感じるのは、つまりそれを自由なものとよりほか意識することができないからであるというわけです。

この答は、理性に支配されない意識の表現であるとしています。
 もし自由なる意識が、理性から離れて独立した自己意識の根源でないならば、それは議論や経験に屈服すべき道理であるわけです。しかし実際において、そういう屈服はかつて一度もみられなかったし、またとうてい考えられないことなのであるとしています。

心理学においては、自由なる意識は外的自己における自我に相当します。理性に支配された意識が超自我(良心の機能を営むもの)です。自由なる意識である自我が、超自我と離れて外的自己から独立したものが、議論や経験(他者との関係)に屈服したもの、すなわちエスとなり、内的自己に抑圧され潜在化します。トルストイは理性に支配されない自由なる意識が自己意識の根源であるとし、他者との関係に屈服することはあり得ないとしていますが、ここに人間の生活の法則(たとえば食物摂取の必要、もしくは頭脳の活動、その他いかなる作用)との矛盾を見いだしていると言えます。人間の生活の法則とは、人間自体も物理的生体化学反応の対象ととらえる史的唯物論の根拠をなすものを指していると考えられます。

岸田氏のいう「人格の統一性の裏付けを欠いた精神分裂病的なある傾向は、つねにそれと正反対の傾向と背中合わせになっている」という現実感覚の不全は、トルストイのいう理性に支配されない自由なる意識(自我)が、人間の生活の法則(超自我)において矛盾することにより、その矛盾が抑圧されエスとなり内的自己に潜在化し、外的自己を正当化するため強迫観念的に起ると理解できます。

それでは、この現実感覚の不全を惹き起こすエスを解消するためには、どのようにすればよいのでしょうか。
以下、考察を続けてゆきます。





2018年11月10日土曜日

日本人にとっての“identity”とは⑧自己同一性について

 岸田氏は、「精神分裂病質は外的自己と内的自己との分裂を特徴とする。内的自己のみが真の自己とされるが、他者との関係、外界への適応はもっぱら外的自己にまかされ、外的自己は、他者の意志に服従し、一応の適応の役目は果たすが、当人の内的な感情、欲求、判断と切り離され、ますます無意味な、生気のないものになってゆく。外的自己と内的自己とのこの分裂と断絶が分裂病ないし分裂病質を形づくり、自己同一性(セルフ・アイデンティティー)は失われる。」としています。

 経済成長政策は、日米戦争ほどあからさまな大失敗は招かなかったものの、日本国民の自己同一性を回復する方策としては、やはり失敗だったと言わざるを得ないと述べています。
 結局、日本人が日米戦争あるいは経済成長によって解決しようとした問題、すなわち外的自己と内的自己との分裂の問題は依然として解決されずに残っています。日本人の自己同一性は依然として不安定であるわけです。外的自己と切り離されて純化された内的自己の一つの重要な形態である尊王攘夷思想は、戦後の一つの底流として流れつづけており、ときどき表面まで吹き出してきて、山口二矢の浅沼委員長暗殺や三島由紀夫の割腹自殺のような事件を惹き起こします。彼らを時代錯誤的と決めつけても問題は解決しません。彼らは時代錯誤的なのではなく、戦後抑圧されている日本人の人格の半面を純粋な形で表現したものであるわけです。
 ペリー・ショックが日本人に与えた心の傷はまだ癒えていない。それを癒すためには外的自己と内的自己との統一が必要であるとします。この統一が成れば、そこに自己同一性の基盤を見出すことができるわけです。従来の統一が失敗したのは、外的自己と内的自己とのどちらか一方を隠蔽あるいは排除して他方のみを自己と認め、無理やりその半端な自己を自己の統一的全体と見なそうとしたからであり、あるいは、この両自己を切り離したまま使い分けようとしたからであり、あるいは、この両自己の対立をいい加減な妥協形式によって糊塗しようとしたからであるとしています。

 ペリー・ショックによって惹き起こされた外的自己と内的自己への日本国民の分裂は、まず、開国論と尊王攘夷論との対立となって現われました、開国は日本の軍事的無力の自覚、アメリカをはじめとする強大な諸外国への適応の必要性にもとづいていましたが、日本人の内的自己から見れば、それは真の自己、真実の伝統的日本を売り渡す裏切りであり、屈辱でありました。この裏切りによって、日本は自己同一性の喪失の危険にさらされることになったわけです。そこで、不安定な内的自己を支える砦としてもってこられたのが天皇であったわけです。ペリー・ショックにひきつづいて、屈辱的開国を不本意ながら強制されたために人格分裂を起こし、自己喪失の危険にさらされた日本国民はその恐怖から逃れるための「つっかえ棒」を必要としたのであり、天皇制はまさにそのための好都合な「つっかえ棒」に向いていました。つまり、支配者側から押し付けられなくても、天皇制を受け容れる心理的基盤(素地、下地)は国民の側にもあったと思われます。
 明治維新が成り、開国論(外的自己)と攘夷論(内的自己)との抗争は一応、前者の勝利に終わり、後者は神風連の乱から西南の役に至る一連の事件を通じて散発的にふき出したものの、深く潜行することとなりました。だがもちろん、消滅したわけではありません。抑圧されたものは必ずいつかは回帰する。開国は一時の便法であり、本音は攘夷であったわけです。

 外的自己と内的自己とが生き生きとした統一的関係にあってこそ、いいかえれば外的自己が内的自己のありのままの自発的表現であり、かつ内的自己が外的自己の行動を自分の主体的意思に発し、自分が決定でき、自分に責任がある行動であると実感していてこそ、人格の統一性、自己同一性は保たれるのであるわけです。

アメリカの独立宣言に表明されている自由、平等、民主の共同幻想の背後には、アメリカ大陸「発見」当時に北米に100万人はいたと推定される原住民が20万人を下回るに至った大量虐殺の経験がありました。アメリカの共同幻想はこの経験の抑圧と正当化に支えられているわけです。そのため、アメリカの共同幻想は硬直化し、この共同幻想にその私的共同幻想を共同化しようとする成員(アメリカ国民)に安定感と確実感を与えるものではなくなっています。どこかうしろめたく、うさんくさいのです。またそのため、抑圧し正当化したもとの経験に類似した経験に関して、アメリカ国民の精神構造に盲点が生じ、類似の経験が強迫的に反復されるようになります。したがって、アメリカは、その不確実感、不安定感を補うため、他民族にその共同幻想を押し付け、またときには他民族を大量虐殺するよう強迫的にかり立てられているわけです。広島、長崎への原爆投下、ベトナムにおける大量虐殺は、インディアンの大量虐殺の経験の強迫的反復であります。

日本に関して言えば、ペリーの黒船来航以来、戦後から現在に至るまで基本的には変わっていません。天皇崇拝、神国日本、大アジア主義など、内的自己を中心とする戦前の共同幻想は、敗戦によって廃棄され、この共同幻想が吸収し、共同化していた日本人の私的幻想は、公的承認を失って集団の「エス」として底流することになったわけです。戦後の民主主義の共同幻想は、日本人の私的幻想を共同化する点ではなはだ不充分であるとしています。日本は、戦前のイデオロギーを思想的に超克したうえで戦後のイデオロギーを主体的に築いたのではありません。いわば、戦前のイデオロギーを「抑圧」しただけであって、抑圧されたものは必ず回帰するのであります。開国後の「文明開化」の共同幻想が、結局は「鬼畜米英」の共同幻想に取って代わられたことを忘れてはならないとしています。



2018年11月9日金曜日

日本人にとっての“identity”とは⑦近代の歴史観について

司馬遼太郎氏の「翔ぶが如く」の解説として、平川氏は
「第二次世界大戦後の日本で歴史学会を風靡した一つの史観があった。それはマルクシズムに由来する唯物史観とか史的唯物論とかいわれたもので、未来については社会主義革命の必然性や不可避性を説き、過去については生産力に基づく発展段階説で、世界史も日本史も説明してくれた。日本の歴史学会ではこの「科学的」な歴史観を奉ぜぬ人は人に非ず、といったような強圧的な風潮も一時期はあったらしい。ずいぶん多くの学者が唯物史観にのっとって日本史を再解釈したようであるから、さぞかし多くの科学的成果もあったにちがいない。」と唯物史観を皮肉っています。

また、平川氏は、日本における人間不在の唯物史観の最近の退潮について考えてみますと。
唯物史観はかつて英雄中心主義の史観と異なり、人間個人個人の主体的な活動の意味をほとんど無視したところにその特徴があったとしています。それは人権不在の国にふさわしい歴史の見方であるともいえます。しかし日本史の流れはけっしてそれほど徹底した人間不在ではなかったのであろうとしています。司馬氏の史書が日本国民に愛読されるのは、さまざまな履歴、さまざまな背景の日本人が歴史の変動期に演ずる役柄の面白さに惹かれてのことであるわけです。氏は日本史のうえで、勝者とともに敗者の人権も回復してくれたようであるとしています。

世界のどの国を見ても、中央集権の国民国家が成立するについては、近代の神話ともいうべき伝説がまつわりついています。それは国民各層に参加の意識を与えたネーション・ステートの成立が、各国民のナショナリズムの感情を煽り、その感情の余波が今日なお私たちを揺すぶっているからです。その火山の爆発に似たナショナリズムの余熱がいまなおさめていない以上、旧体制を破壊した英雄については批判がましい口を利くことが許されないというわけです。
ソ連邦とか中華人民共和国とかでは、革命の元勲に対して批判がましい発言をすれば、その言動が反革命的とみなされ極刑に処せられる可能性のある時期が長く続きました。

なにしろ中国革命に命を賭して参加した何万、何十万という中国人がいた以上、どの象徴的指導者のために喜んで死のうと思った人が何十万、何百万といた以上、一度植えつけられたその感情を逆撫ですることは中国大陸では難しいのでした。
 ただ西郷隆盛の場合には違う要素もあったとしています。日本は独裁者が出にくい社会的体質であったために、権力者はいつも天皇という権威を利用することで統治に成功してきました。明治維新の志士たちはナポレオン、ワシントン、ピョートル大帝といった西洋人をひそかに欽慕しましたが、しかし徳川幕府を倒した後も、権威と権力とを一身に兼ね備えたような独裁者はついに我が国には現われなかったのです。

トルストイは、
「文学史はわれわれに、ある文学者、もしくは改革家の衝動や、生活条件や、思想などを説明してくれる。われわれはルターが激しやすい性質で、しかじかと演説をしたことを知る。またルソーが猜疑神の強い人間で、かくかくの書を著したことを知る。しかし何ゆえ宗教改革の後に国民が互いに斬りあったか、なぜフランス革命の後で互いに処刑しあったか、というようなことは、ついに知ることができないのである。
 もし最近歴史家が試みているように、これら二つの歴史を一つに結合したならば、それは君主と文学者の歴史ができあがるだけで、決して国民生活の歴史とはならない。」
と、「戦争と平和」のなかで述べており、一人の個人の権力者や思想家が歴史を動かしたのではなく、民衆個々の運動の力の総和が、歴史を動かし、そこには、神の摂理、予定(プレデターミネーション)による支配があったとの確信にいたります。

一つの集団の歴史は、一人の個人の歴史として説明できるという立場に立って、岸田氏は幕末から現代に至る日本国民の歴史を一人の神経症ないし精神病の患者の生活史として考察しました。歴史を動かす力を経済的条件に求める唯物史観と根本的に対立するであろうが、経済的条件はいっさい考慮にいれないことにします。

岸田氏は、
 「日本国民は精神分裂病的である。この精神分裂病的素質をつくったのは、1853年のペリー来航の事件である。日本は、極東の島国という特殊な地理的条件のため、他の諸民族、とくにヨーロッパの諸民族とくらべると、有史以来、一度として外国の侵略や支配を受けたことのない、言わば甘やかされた子どもであった。
日本は無理やりに開国を強制された。司馬遼太郎がどこかで日本はアメリカに強姦されたと言っていたが、まさに日本は無理やりに股を(港を)開かせられたのである。それは日本にとって耐えがたい屈辱であった。このペリー・ショックが日本を精神分裂病質にした病因的精神外傷であった。」

芝遼太郎氏は「翔ぶが如く」四において、
西郷従道が太政大臣三条実美からの征台の中止という命令に対して、天皇からの征台の勅文を盾に独断で大臣の命令に従わなかったことのいきさつにおいて、つぎのように述べています。

「日本は維新によって君主国として出発した。
しかしながら、天皇の独裁は歴史的慣習としてみとめない。中世にあっては関白や上皇、法皇が政治を代行し、次いで鎌倉幕府、室町幕府、豊臣政権、徳川幕府がそれを代行してきた。維新は徳川幕府をたおして天皇の親政にもどすというのが建前であったが、しかし内実は中世と変わらない。
 あくまでも政治は太政大臣以下が担当するのである。太政大臣・右大臣が参議たちに相談した結論が、形式的に天皇の裁可をへて実行され、ときに勅文もでる。その勅文は太政大臣が起草の責任を持って作られ、それに対して天皇が御名を書き、御璽を捺す。その逆はありえない。
 逆というのは、天皇がみずから政策を思いついて太政大臣をよんで相談したり、あるいは『親政』ということでいきなり個人の意志と決断で実行に移したり、あるいは直接勅命をくだしたりするようなことはありえなかった。天皇はあくまでも受身であり、形式上はともかく、実質上はその機能をもたされていなかった。
 この、天皇という位置の性格については、維新後、談合があってそうなったわけでもなく、また成文があってこのように規定され運営されているわけでもない。自然にできた。要するに過去の慣習の延長といってよい。」

「この征台の一件は、日本史上の珍事件といってよく、官製の倭寇といっていい。
この種の奇術的な軍隊使用のやりかたは、のちに体質的なものとして日本国家にあらわれる。明治期の20年代以後では立憲国家の運営に比較的忠実であったが、昭和期に入って遺伝的症状が露骨にあらわれた。陸軍参謀本部は統帥権という奇妙なものを常時「勅命」として保有し、軍隊使用は内閣と相談せずにできるという妄団をもってたとえば満州事変をおこし、日華事変をおこし、かたわらノモンハン事変をおこしてそのつど内閣に事後承認させ、ついには太平洋戦争をおこす道をひらいて国家を敗亡させた。大久保利通と西郷従道、それに大隈重信の三人が、三人きりで合作したこの官製倭寇は、それらの先例をひらいたものであろう。」

岸田氏は
明治政府そのものが、開国派と尊王攘夷派、外的自己と内的自己とのある種の妥協の産物で、その屈辱、文明開化政策は、内に抱え込んだ、または野に放たれている攘夷派、旧士族の反発を招かずにはおかなかった。(大久保と西郷、内地派と征韓派の対立は、政府内部における外的自己と内的自己の対立の典型的な例である。このパターンは、昭和になって、政党と軍部の対立という形で繰り返される。)としています。

トルストイは、自由と必然の関係から、内容と形式の関係を導き出しています。つまり、内容が自由であり、形式は必然であるとしています。
心理学の観点から見ますと、内容は意識(自由)であり、形式(必然)は理性となり、内容は自我であり、形式は超自我(良心の機能を営むもの)となります。外的自己における自我と超自我つまり内容と形式の間に葛藤がおこり、矛盾したものが、エスとして、内的自己に抑圧され潜在化します。

岸田氏は山本氏との対談(20年以上以前)のなかで
「日本人にとって、なぜ憲法改正はタブーなんでしょうか。
精神分析から言えば、それを変えることがタブーであるという、そのことが、ニセ物である証拠なんですよ。神経症の患者の場合、意識的には偽りの理由を持っているので、その理由に断固として固執するんですよね。つまり、ニセ物であるがゆえに、変えられないんです。また、現実にそれを守り、それにもとづいて行動しなくてもいいんですから、変える必要もないわけです。
ニセ物という意味は、憲法が理念や原理として間違っているとか、いないとかいうことではなくて、日本人の行動を決定している本当の法じゃないということです。
固執するのは、いわば強迫観念と同じで、ニセ物でなければ固執する必要はないんですから。現実として、日本の憲法が機能していないがゆえに、逆に固執するということですよね。」と述べています。

日本人の行動を決定している本当の法になっていないと言う意味は、形式のみで内容が伴わないということと思われます。
トルストイは、自由の力の本質が歴史の内容を形づくると言っています。自由の力の本質は、生の本質であり、自然の力です。

司馬氏は、奇しくも「天皇という位置の性格(天皇の独裁は歴史的慣習としてみとめない。)については、維新後、談合があってそうなったわけでもなく、また成文があってこのように規定され運営されているわけでもない。自然にできた。要するに過去の慣習の延長といってよい。」と述べました。

生の本質、自然の力が内容を形づくっていない法であれば、それはニセ物となり、外的自己において、自我と超自我(良心の機能を営むもの)の間で葛藤がおこり、矛盾したニセ物は内的自己にエスとして抑圧され潜在化し、逆に固執することになるということに思われます。したがって憲法改正は、日本人にとって、タブー視されてきました。

最近になっての憲法改正論議は、九条の取り扱い方が中心になっています。
私は、平和憲法の理念は堅持しなければならないという立場ではありますが、どうも昨今の議論は、上滑りのように思えて違和感をぬぐえません。つまり、内容の無い形式論のみなってしまっているように思えてならないからです。
今回のこのブログの主題である「日本人にとってのアイデンティティーとは」にした動機はここにあります。

日本人にとっての自己同一性とは、いかなるものなのであるかを考察しなければ、日本の国のかたちである憲法は、本物にはならないと思うのです。

岸田氏が言うとおり、ペリー・ショックにより、「尊王攘夷」という思想が、エスとなり、内的自己に抑圧され、病因となり、精神病的症状を発症しているのであれば、それが誤りであったことを日本人は悟り、内的自己と外的自己の統一を図らなくてはなりません。
私は尊王(天皇を敬う)という思想と攘夷(外敵を斥けようとする)という思想を結び合わせたところに無理があったのであろうと思っています。

以下このことについての考察を続けてゆきます。


2018年11月8日木曜日

日本人にとっての“identity”とは⑥ヒエラルキーについて

 トルストイは、人間が共同行為の達成のために形づくるすべての結合のうちで、もっとも明白顕著なものの一つは軍隊であるとしています。
 すべての軍隊の組織を見ると、軍事上の位置から見てもっとも低い組成分子、すなわち常に最大多数を占めている列兵からはじまって、軍事的位置からいえばその次に相当するやや高い階級、すなわち第一のものより比較的少数の伍長や曹長、それからさらに少数でさらに高級の人々、こういうふうに進んでいって、ついに一人に集中されている軍の最高権力にいたってやみます。
 軍隊の組織は完全正確に円錐形をもって表示することができ、最大の直径を有している底部は、列兵によって形づくられています。より高い、したがってより小さい底部は、より高級の士官というふうに進んでいって、ついに総指揮官たる円錐形の頂点に達するのであります。
 最大多数を占めている兵士は、円錐形の最下点、すなわち底部を形づくっている。兵士は自分で直接突いたり、斬ったり、焼いたり、掠奪したりする。そしてこれらの行為に対する命令を、常に上級の人々から受けとっていますが、自分では決して命令しません。下士官は(下士官の数はもうだいぶ少ない)兵士に比べると、自分で行動する機会が稀であるけれど、しかしすでに命令を下します。将校はいっそう稀にしか行動しないで、いっそう頻繁に命令を下します。将官となると、すでに軍隊に目的を指示して、ただ命令を下すばかりで、ほとんど武器を使用しません。総指揮官はそれこそ決して軍の活動そのものに直接関与しない、ただ群衆の運動に関して全般的な指令をするばかりです。これと同じ人間どうしの相互関係は、人間が共同活動のために結合した場合、常に認めうるところである、農業、商業、およびいっさいの官庁がそれであるわけです。
 こうして軍隊の階級は、あらゆる官庁の官位、あるいは一般事業関係者の位置など、円錐形の諸点と同じように、最下級から最上級まで互いに融合しあったものを、人工的に分解してみないまでも、次の法則の存在することは明瞭であります。人間は共同活動の達成のために、常に一つの関係に結合します。その際、事件に直接参与する程度が多ければ多いほど、命令を下しうる可能性は減じて、その数が多くなります。しかして、実際活動に直接参与する度合いが少なければ少ないほど、人間はますます多く命令し、その数は減じていく。こういうふうにして、最下層からだんだん昇っていくうちに、ついに最後の一人に到達します。彼は事件に最小の直接関係を有し、誰よりももっとも多く、おのれの活動能力を命令に傾注するのであるわけです。
 この命令者の被命令者に対する関係こそ、権力と呼ばれる概念の本質を形成しているのであります。
 すべて事件の行われる時間の条件を確立したとき、命令が実行されるのは、事件に相応した場合に限ることが発見されました。また命令者と被命令者との間に存する関係の必然的条件を確立した時、われわれは命令者が本来の性質上、事件そのものに参与することがもっとも少なく、その活動力は全部を挙げて命令に向けられている、とこいうことを発見しました。

岸田氏は、集団において最高の権威、最高の指導者が一人しか必要でないのは、事務上の便宜のためではない。集団のまとまりが必要であればあるほど、一人の最高権威をいやが上にも聖なるものとし、彼への崇拝を喚起または強制しなければならない(ヒトラー、スターリン、天皇、毛沢東などの個人崇拝)としています。
 さて、聖なる一人の(または一つの)絶対者を頂点となし、日常性を下辺の広がりとしてここにピラミッド型の集団のヒエラルキーが形成されます。最下辺のどの部分も、聖なる絶対者に支えられ、是認され、正当化されていなければならないわけです。中位の者の、より下位の者に対する権威は、彼が分有している聖なる絶対者の権威に由来する(たとえば、旧日本軍で言われたように、「上官の命令は陛下の命令」)。人間が道徳的存在であるのは、おのれの行動の道徳的裏づけを欠くことができないのは、人びとのために役立ちたいやさしい人間性を具えているからではなく、自己の上にある権威によって自己の存在を支え、正当化する必要があるからです。
人間がおのれの道徳的正当生を確証するために、どれほど残酷なことをするか考えてみられたい。たとえばキリスト教徒の異教徒虐殺。

山本七平氏は岸田氏との対談(日本人と「日本病」について)のなかで、次のようにのべています。
「キリシタンは困るという理由は、直接神を拝するからいけない、と。儒教においても天を拝するということはあるけれども、天を拝していいのは皇帝だけだと言ってるんですよね。諸侯は皇帝を拝すること即ち天を拝する所以であり、家臣は諸侯を拝すること即ち天を拝する所以である、と。つまり、すぐ一つ上を拝するんだと言うんです。妻は夫を拝すること即ち天を拝する所以なり。こうして順々に階層的になって日本の秩序はできている。」

山本氏も、岸田氏も、トルストイと同じように、ヒエラルキーにおいて、命令者と被命令者の関係は、頂点に君臨する最高の権威、最高の指導者の権力によるものではなく、一つ上の命令者に由来するものであるとしています。

トルストイは命令者と被命令者の間に存する関係において、自由と必然の関係を見いだし、神の摂理による歴史の支配という確信への根拠とします。

しかし、日本人においては、聖なる絶対者である神に直接支えられているわけではなく、「上官の命令は陛下の命令」であり、すぐ一つ上を拝し、順々に階層的になっているというのは、キリスト教のように直接神を拝するのでは、日本の秩序にそぐわないためとしています。
それでは、日本の秩序、すなわち日本人の自己を支えてきたものは一体何であったのでしょうか。
時の権力者でないことだけは明らかなように思われます。

以下、考察を続けてゆきます。


2018年11月7日水曜日

日本人にとっての“identity”とは⑤権力について

 トルストイは、「なぜ戦争や革命が起るか、それはわれわれにはわからない。ただある行為を成就するために、人々が一定の結合を形づくって、すべての人がそれに参与する、ということを知りうるのみである。われわれはこれについて、それはそうなのだ、なぜならば、ほかに考え方がないからだ、これが法則なのだから、とこう言うだけに過ぎない。」と述べています。

権力の源泉が、それを占有している人物の肉体的資質にも、精神的資質にも存しないとすれば、この権力の源泉は明らかに所有者以前に存在すべきです。すなわち、所有者と群衆との関係にひそんでいるべきはずであるわけです。

神より権力を授けられ、直接神の意志によって指導される人々のかわりに、新しい歴史学は非凡な超人的才能を賦与された英雄や、君主や、群衆を動かすジャーナリストにいたるまで、種々雑多な性質の人間を選んでいます。ユダヤ、ギリシャ、ローマなどの諸民族が、人類運動の目標とみなし、神意にかなえるものと思考した目的のかわりに、新しい歴史学は自分自身の目的を樹立した、それはフランス、ドイツ、イギリス等の福祉であり、最高の抽象的意味における全人類文明の福祉であるわけです。しかし、この人類なる言葉は、通常大陸の北西にあたる小さい一隅を占めた、少数の民族を意味するのであるとしています。

岸田氏によると
大英帝国が他のヨーロッパ諸国を抜いて七つの海にまたがる帝国になり得たのは、異民族のノルマンに征服され、支配された屈辱感がバネになっていたと考えられるし、ヨーロッパからはじき出されたあぶれ者としての劣等感がアメリカ帝国主義の基盤であり、第一次世界大戦に敗れて屈辱的なベルサイユ条約を押しつけられた口惜しさがヒトラーの第三帝国を支えていました。彼らはそれぞれ、イギリス文明とか、自由と民主主義とか、アリアン民族の優秀性とかを普遍的に価値あるものと信じ、それを諸外国に押しつけようとしていたわけです。大日本帝国の場合も、幕末以来の欧米列強の度重なる恫喝、不平等条約の押しつけ、不当な干渉などによってまさに被害者の屈辱感に煮えたぎっていたのであって、同じく八紘一宇とやらを普遍的原理と信じたのです。イスラエルの侵略主義も自分たちが受けた屈辱を取り返そうとしたのです。ソ連にしても、遠くはジンギスカンに征服され、近くはナポレオン、ついでにヒトラーに侵略され、日本との関係においても、日露戦争に敗れ、さらにシベリアに出兵され、大日本帝国の場合と同じく、その被害者意識は、単なる被害妄想ではなく、充分根拠のあるものなのです。そして、帝国主義国家の例に漏れず、共産主義とやらを普遍的原理と信じて、その伝道に熱心で、全世界が共産化されたときに、戦争も搾取もない正しい理想の世界が実現すると思っていたわけです。

日本は、明治維新によって、封建制から、絶対王制と近代資本主義とのごちゃまぜのような変な社会体制へ移行しましたが、いずれの社会体制も、血縁家族共同体という共同幻想に支えられていて、各藩をそれぞれ支えていたこの共同幻想が一つにまとまった日本という国家を支えるようになったに過ぎず、また、ロシアは、革命によって、帝制から共産主義社会へと移行したが、名称と建前とが変わっただけで、人民の強制労働を根幹とする社会体制には何の変化もないとしています。
史的唯物論は、つまるところ、歴史を神の意志の実現過程と見るキリスト教、客観的精神の必然的発展過程と見るヘーゲル哲学などのヨーロッパの伝統の延長線上にあるわけです。

トルストイは
「ナポレオンが権力を有していて、そのために事件が生じたということは理解しうる。またいくぶんか譲歩して、ナポレオンが他の勢力とともに、事件の原因となったということも、理解しうるとしよう。しかしどうして「社会契約論」(ルソー)なる一冊の書籍がフランス人に殺し合いをさせたか、この疑問はその新思想と事件の因果関係の説明をまたないでは、とうてい理解できないことなのである。」
個々の人物を取り扱って、事件に関与するすべての人々、一つの例外もなくすべての人々を取り扱わない限り、一つの目的にむかって人間を動かす力という観念なしに、人類の運動を描写することは断じて不可能であるとし、この種の観念のうちで、歴史家に知られている唯一のものは権力であるとしています。

トルストイは
「経験の教えるところによると、権力は言葉でなくして、実際に存在する現象なのである。」と述べています。

もし古代人の歴史が示すごとく、神が命令を発したり、自分の意志を表示したりするならば、この意志の表示は時間の支配を受けもしなければ、なんらの動機をも持っていないはずです。なぜならば、神はなにものによってもその事件に結び合わされていないからであるからです。しかし時間のなかで、互いに結び合わされている人間の意志表示たる、命令というものについて論ずるならば、この命令と事件との関係を明らかにするために、われわれは次の点を確立しなければなりません。
(一)   事件全体の情況、事件および命令者の時間のなかにおける運動の連続性
(二)   命令者と、その命令の実行者(被命令者)との間に存在する必然的関係の条件、
すなわちこれであります。

時間から独立している神の意志表示のみが、数年もしくは数世紀の後に起るべき多くの事件に関係をもつことができるわけです。そして、なんらの動機をもたぬ神のみが、おのれ一個の意志によって、人類運動の方向を決定することができます。しかるに、人間は時間のなかで行動して、みずから事件に参与するのであります。

命令と事件との関係を時間の中で検証する時、われわれは次の事実を見出します。すなわち、命令はいかなる場合においても事件の原因となりえない、ただこの両者の間に、ある一定の相互関係が存在するのみです。
この命令者の被命令者に対する関係こそ、とりもなおさず、権力と呼ばれるものなのであるとしています。
この関係は次の点に存するとしています。
「人間は共同活動のために常にある結合を行う。その際、この共同活動のためにたてられた目的が、まちまちであるにもかかわらず、その活動に参与する人々の相互関係は、常に一様である。
こういう結合に加わった人々は、常に次のような関係にたつ。すなわち、最大多数の人々はもっとも多く直接に、結合の目的たる共同活動に参与することとなり、最少数の人は直接に参与する程度がもっとも少ない。」

歴史家は、命令として事件に結合されている史的人物の意志表示のみを検討して、事件はこれらの命令に左右されているものと考えます。しかるに、われわれは事件そのもの、および史的人物と群衆の関係を研究して、史的人物とその命令は、事件に左右されていることを発見しました。この結論の疑うべからざる証拠となるものは、ほかでもない、どんなに命令の数が多くても、その他の原因がなければ事件は成就されない、という事実であります。しかし、事件が成就されるやいなや、たとえいかなる事件であろうとも、間断なく表白された種々雑多な人物の意志の中から、意味においても時間においても、命令としてその事件に結びつけられるようなものが、必ず発見されるでありましょう。この結論に到達したわれわれは、
(一)   権力とはなんぞや?
(二)   いかなる力が民衆の運動を惹起するか?

こういう歴史上の本質的な二つの疑問に対して、躊躇なく断乎として答えることができる。
(一)   権力とは、ある人物が他の人々に対して持つ一種の関係である。この関係においては、その人物の事件に関与する程度が少なければ少ないほど、現に行われつつある共同行為に関して、意見や、予想や、理由づけを表白する機会が多いのである。
(二)   民衆の運動を惹起するものは、従来の歴史家が考えたように、権力でもなければ、知的活動でもなく、さらに進んでこの両者の結合でもない。それは事件に直接関与しているすべての人々の活動である。しかも、彼らはもっとも多く事件に関与するにしたがって、それに対する責任がもっとも少なくなり、またその反対ともなるように結合するのが常である。
 精神的関係においては、事件の原因は、権力であると見なされ、肉体的関係においては、その権力に服従する人々のように考えられています。しかし、肉体的活動を伴わない精神的活動は、とうてい考えることもできないから、したがって事件の原因はそのどちらでもなく、両者の結合の中に存するのであるわけです。
 語をかえていえば、われわれの検討する現象に対しては、原因なる観念を適用することができないのであるとしています。

岸田氏は
指揮官がいくら命令を発しても、兵士がついてこないような状態が、現実原則に従う自我と快感原則に従うエスとの対立としてフロイドが記述したものです。現実原則と快感原則とのこの対立と分裂は、人類だけが直面する悲劇であり、動物においては、現実への適応と快感の追及とのあいだに矛盾はないとしています。

トルストイの言う、事件の原因は、精神的関係と肉体的関係の結合の中に存するという意味は、フロイドが記述した現実原則に従う自我と快感原則に従うエスとの対立と分裂に直面する人類の悲劇であると理解できます。

したがって、事件の原因が、個人の権力によるものであるとは言えないことになります。

民衆の運動を惹き起こすのは、事件に直接関与しているすべての人々の活動であることになります。