2018年11月6日火曜日

日本人にとっての“identity”とは④古代の歴史観について

 トルストイは、「戦争と平和」のなかで、歴史観について、次のように述べています。
「国民の意志が一個の選ばれた人に服従するとか、その選ばれた人が神に服従するとか、そういう古人の見方を拒否した後も、歴史は矛盾なしに一歩も先へ進むことができないでいる。人類のことに神が直接参与するという昔の信仰に帰るか、あるいは権力と呼ばれる力、(史上に事件を引き起す力)、の意義を明確に説明するか、二つに一つを選択しなければならない。」

そして、神の摂理、神の予定(プレデターミネーション)が歴史を支配するという立場を主張します。

「歴史の対象は国民と人類の生活である。
すべて古代の歴史家は、一見捕捉できないように思われる国民の生活を、とらえかつ描くために、常に同一の態度をとった。彼らは国民を支配する個々の人物の行動を描写した。この行動は彼らにとって、全国民の行動を表現するものであった。
いったいどんなふうにして個々の人物が、自分の意志どおりに国民を動かしたか、またこれらの人物の意志そのものは、何によって支配されていたか、こういう問いに対して、古人は次のように答えた。第一の問いに対する答えは、選ばれたる一個人の意志に国民を服従させる神意の容認であり、第二の問いに対する答えは、この選ばれたる人物の意志を予定(プレデターミネーション)の目的へ向ける、同じ神意の容認である。
古人にとってこれらの問題は、神が人類のことに直接関与するという信仰によって、解決を見いだしていた。
新しい歴史学は理論上これらの命題をひとしく排斥した。」

新しい歴史学とは、唯物史観を念頭においていると思われます。トルストイはロシアにおいて、共産主義国家が樹立され、神が否定されることを危惧していたかのようです。
次に「戦争と平和」のエピローグにおけるトルストイの記述を引用します。

「わたしにとってもっとも重大な点は、いわゆる偉人英雄が歴史的事件において、あまり大きな意義を持っていないという、わたしの意見に関するものである。
 あれほど悲劇的な時代、あれほど大きな事件に富んでいる時代、あれほど種々雑多な伝説が生き残っているわれわれに近い時代を研究しているうちに、わたしは一つの明白な事実に逢着した。それは現に行われつつある史的事件の原因が、とうてい人知に及びがたいということである。

 なぜいく百万の人間が互いに殺しあったのか?そういうことが開闢以来、肉体的にも精神的にもよくないとされているのは、知れきっているではないか。
 ほかでもない、それは不可避的に必要なこだからである。こういうことを実行した人間は、蜜蜂が秋に向かうころ互いに殺しあったり、動物の雄が互いに滅ぼしあったりするのと同じ、自然発生的な、動物学的法則を実行したからである。この恐ろしい疑問に対しては、それよりほかに答えようがない。
 この真理は火のごとく明瞭なばかりでなく、各人に深く固有なものであるから、もし人間が別種の感情や意識がなかったら、今さら証明の必要がないくらいである。しかし、この別種の感情と意識によって、人間がある行為を行なう瞬間、常に我は自由なりとの確信をいだくのである。」

この人間の別種の感情や意識に関しては、フロイド(トルストイより28歳若いが、1800年代から1900年代の同時代を生きた。)が心理学において述べていることを想定しているようにも思えます。

岸田氏は、「人類だけが歴史をもつに至ったのは、人類がその生物学的本能に従っては生存できなくなったからである。本能がこわれてしまった人類は、それまで本能によって保証されていた自然的現実との密接な接触を失い、幻想の世界に住むようになった。現実を見失ったのだから、幻想しかもち得ないわけである。人類の努力は、この幻想を、何とかして見失った現実に近づけることに傾けられた。幻想の共同化としての類似現実の創設がこれである。この類似現実は一般に文化と呼ばれる。文化とは、そもそも幻想の産物である。
人類の歴史は幻想の歴史であって、必然的な発展段階などあろうはずもない。幻想の変化に法則はないからである。原始共産制→奴隷制→封建制→資本制→共産制という史的唯物論の発展段階説は、人類のごく一部であるヨーロッパの歴史を、何の根拠もなく人類一般に普遍化したものに過ぎず、そのヨーロッパにおいてさえ、現実に確証できるのは、封建制から資本制への移行のみである。あとは推定にすぎない。ヨーロッパのどの国においても、封建制の前に奴隷制が存在したという証拠はない。いわゆる『未開社会』を『未開』と呼び、原始的段階にとどまっているとみなしたり、中国の長期にわたってつづいていた安定した体制をアジア的『停滞』と呼んだりするのは、思い上がりもはなはだしい。

岸田氏によると、フロイドの言うところのエスとその快感原則は、人類に特有な本能のずれと歪みを表わしており、決して動物における本能と同一視できるものではないとしています。エスは本能ではない。快感原則は本能の原則ではない。それはむしろ幻想の原則である。つねに過去の状態の復元を求めるというフロイドの衝動の定義は、幻想の世界に釘付けになった本能の定義としてのみ理解できるのであって、動物における本能には当てはまらないとしています。
快感原則は、論理的につきつめれば、涅槃(ニルヴァーナ)原則*とならざるを得ない。

S.フロイトの多分に思弁的なメタ心理学的用語。仏教用語の涅槃(ねはん)(サンスクリットでニルバーナ)に由来するもので,〈涅槃原則〉ともいう。彼は《快楽原則の彼岸》(1920)において,ニルバーナ原則とは,刺激に基づく緊張をゼロにまで引き下げようとする心的装置の傾向(すなわち〈死の本能〉の表現)であり,快楽原則とは,その前段階の緊張をできるだけ低くかつ恒常的に維持しようとする傾向(すなわち〈生の本能〉の表現)であると説いた。涅槃原則【nirvana principle

 
トルストイは、「一般的見地から歴史を考察する時、われわれは事件を支配する永遠の摂理の存在を疑うわけにいかない。しかし、個人的見地から眺めると、その反対を確信せざるをえないのである。
 この矛盾は解決しがたいもののように思われる。ある行為を行なうとき、わたしは自分の自由意志で行ったように確信している。ところが、全人類の生活に参与するものという意味において(歴史的意義において)この行為を検討するとき、わたしはこの行為が予定されたものであり、必然のものであることを確信する。この誤りはそもそもどこに含まれているのか?

われわれの行動と他人の行動の連繋が抽象的であり、したがって薄弱であればあるだけ、それだけわれわれの行動は自由なのである。これに反して、われわれの行動が他人に結びつけられる程度が大きければ大きいだけ、ますます不自由になるのである。
 対他関係の中でもっとも多く力と重みをそなえ、とうてい断ちきることができないほど不断に存在しているものは、いわゆる他人に対する権力である。しかし、それは真の意味において、もっとも多く他人に左右せられる状態にすぎない。
 わたしは自分の労作をつづけている間に、十分このことについて確信を得たので、自然の結果として1805年、1807年、ことにこの予定(プレデターミネーション)の法則がもっとも明瞭に現われている1812年の歴史的事件を描写する際、わたしは事件を支配したように思われている人々の事績に、なんらの意義をも賦与することができなかった。実際、彼らは事件のすべての関与の中で、自由な人間的活動を寄与することがもっとも少なかったのである。これらの人々の行動がわたしに興味を感じさせるのは、歴史を支配している(とわたしは確信する)予定(プレデターミネーション)の法則と、もっとも非自由な行為を行なっている人間に、自分自身の自由を証明するため、いくたの回顧的推理を想像のなかでつくりあげさせる心理的法則、この二つの法則の挿し絵の意味にすぎないのである。

小室直樹氏は、岸田氏と山本七平氏の対談(日本人と「日本病」について)の解説において
「日本社会の構造的特色の第一は、日本社会には神がないということ。
『日本の社会には神がいない。人間と人間とがいて、お互いの間で相手の立場に立って話し合う』しかないのである。
啓典宗教においては、創造神との契約が宗教であり、上下契約社会でもある。創造神と人間との上下契約が根本である。根本規範でもある。法でもある。
創造神のない日本には契約もない。法もない。
上下契約の特徴は絶対的であることである。上下契約の相手は絶対神(創造神)であり、それはまた、絶対神の命令でもある。
この絶対的な上下契約(タテの絶対契約)が、ヨコの絶対契約になるところから近代が発生した。資本主義も近代法もリベラル・デモクラシーも、ヨコの絶対契約から生ずる。」
と説明しています。

岸田秀氏と、山本七平氏は「日本人と日本病について」の対談のなかで、
岸田 「欧米と日本は他人との友好的な協調のあり方が違うんですよね。
日本人は、自分の主体的判断をお互いに捨ててというか、横にのけておいて仲よくやれば、対決も葛藤もないんだという、一つのフィクションの上に立っている。
一方、向こうではお互いに自己を最大限に主張しあって、その主張の間に共通一致点を見だすことが双方の協力友好の基礎ですよね。友好という意味が日本とは初めから違う。だから、日本人が自我を捨てることを前提とした日本的やり方で仲よくしようと思っても、向こうは仲よくなってくれない。日本人が自我を捨てたって、向こうは自我を捨ててはくれませんからね。すると、日本人の方では、は自我を捨てて譲歩しているのに、おまえは少しも歩み寄ってこないと腹を立てる。向こうに言わせれば、そこで日本人がなぜ腹を立てるのかがわからない。」
                  
岸田 「ヨーロッパ人は神に支えられてはじめて、日本人から見ればきわめて個人的な強い自我を持ち得たんです。神への信仰が自我を支えてるわけですよね。
日本人の自我はというと、神がいないわけですから、神よって支えることができない。結局、人間関係が自我を支えてる。」

小室氏は、日本社会の特殊構造からも明らかなように、日本人は、「日常接する具体性のあるもの(例。周囲の人の善意)、それ以外は規定してこない」
ゆえに、環境が崩壊すると人格が崩壊しちゃう。
「自我」とは幻想であるから支えが必要である。
日本人は、この「支え」をどこにもとめるか。
神なき日本では、これを神にもとめることはできない。
日本の外的世界を知らないナルチシズムたる鎖国は、ペリー・ショックによって、強制的に破られた。
環境は一気に崩壊した。落差はひどすぎた。日本人の人格も崩壊した。
ペリー・ショックにひきつづいて、屈辱的開国の強制によって人格分裂を起し、自己喪失の危険にさらされた日本国民は、天皇制を「つっかえ棒」として必要とした。
このように、岸田氏は、「日本近代史を、ペリー・ショックを病因とする精神分裂病者の行動として見る」それゆえに目的合理的行動ができなくなった。
「マッカーサー・ショック」によって、日本人の精神分裂病はどこまで進んだか。
戦前、戦中の日本人の行動も、戦後のそれも本質的に同じであると論じています。

ここで、心理学における、自我と自己について、整理しておきます。
端的に言えば、自分を考える「自分」が「自我」、自分と他人を通しての「自分」が「自己」です。
フロイドによれば、外的自己は、自我と超自我(良心の機能を営むもの。)によって他人との関係は支えられます。他人との関係において、内的自己に抑圧された自我がエス(イド)となります。



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