2018年11月8日木曜日

日本人にとっての“identity”とは⑥ヒエラルキーについて

 トルストイは、人間が共同行為の達成のために形づくるすべての結合のうちで、もっとも明白顕著なものの一つは軍隊であるとしています。
 すべての軍隊の組織を見ると、軍事上の位置から見てもっとも低い組成分子、すなわち常に最大多数を占めている列兵からはじまって、軍事的位置からいえばその次に相当するやや高い階級、すなわち第一のものより比較的少数の伍長や曹長、それからさらに少数でさらに高級の人々、こういうふうに進んでいって、ついに一人に集中されている軍の最高権力にいたってやみます。
 軍隊の組織は完全正確に円錐形をもって表示することができ、最大の直径を有している底部は、列兵によって形づくられています。より高い、したがってより小さい底部は、より高級の士官というふうに進んでいって、ついに総指揮官たる円錐形の頂点に達するのであります。
 最大多数を占めている兵士は、円錐形の最下点、すなわち底部を形づくっている。兵士は自分で直接突いたり、斬ったり、焼いたり、掠奪したりする。そしてこれらの行為に対する命令を、常に上級の人々から受けとっていますが、自分では決して命令しません。下士官は(下士官の数はもうだいぶ少ない)兵士に比べると、自分で行動する機会が稀であるけれど、しかしすでに命令を下します。将校はいっそう稀にしか行動しないで、いっそう頻繁に命令を下します。将官となると、すでに軍隊に目的を指示して、ただ命令を下すばかりで、ほとんど武器を使用しません。総指揮官はそれこそ決して軍の活動そのものに直接関与しない、ただ群衆の運動に関して全般的な指令をするばかりです。これと同じ人間どうしの相互関係は、人間が共同活動のために結合した場合、常に認めうるところである、農業、商業、およびいっさいの官庁がそれであるわけです。
 こうして軍隊の階級は、あらゆる官庁の官位、あるいは一般事業関係者の位置など、円錐形の諸点と同じように、最下級から最上級まで互いに融合しあったものを、人工的に分解してみないまでも、次の法則の存在することは明瞭であります。人間は共同活動の達成のために、常に一つの関係に結合します。その際、事件に直接参与する程度が多ければ多いほど、命令を下しうる可能性は減じて、その数が多くなります。しかして、実際活動に直接参与する度合いが少なければ少ないほど、人間はますます多く命令し、その数は減じていく。こういうふうにして、最下層からだんだん昇っていくうちに、ついに最後の一人に到達します。彼は事件に最小の直接関係を有し、誰よりももっとも多く、おのれの活動能力を命令に傾注するのであるわけです。
 この命令者の被命令者に対する関係こそ、権力と呼ばれる概念の本質を形成しているのであります。
 すべて事件の行われる時間の条件を確立したとき、命令が実行されるのは、事件に相応した場合に限ることが発見されました。また命令者と被命令者との間に存する関係の必然的条件を確立した時、われわれは命令者が本来の性質上、事件そのものに参与することがもっとも少なく、その活動力は全部を挙げて命令に向けられている、とこいうことを発見しました。

岸田氏は、集団において最高の権威、最高の指導者が一人しか必要でないのは、事務上の便宜のためではない。集団のまとまりが必要であればあるほど、一人の最高権威をいやが上にも聖なるものとし、彼への崇拝を喚起または強制しなければならない(ヒトラー、スターリン、天皇、毛沢東などの個人崇拝)としています。
 さて、聖なる一人の(または一つの)絶対者を頂点となし、日常性を下辺の広がりとしてここにピラミッド型の集団のヒエラルキーが形成されます。最下辺のどの部分も、聖なる絶対者に支えられ、是認され、正当化されていなければならないわけです。中位の者の、より下位の者に対する権威は、彼が分有している聖なる絶対者の権威に由来する(たとえば、旧日本軍で言われたように、「上官の命令は陛下の命令」)。人間が道徳的存在であるのは、おのれの行動の道徳的裏づけを欠くことができないのは、人びとのために役立ちたいやさしい人間性を具えているからではなく、自己の上にある権威によって自己の存在を支え、正当化する必要があるからです。
人間がおのれの道徳的正当生を確証するために、どれほど残酷なことをするか考えてみられたい。たとえばキリスト教徒の異教徒虐殺。

山本七平氏は岸田氏との対談(日本人と「日本病」について)のなかで、次のようにのべています。
「キリシタンは困るという理由は、直接神を拝するからいけない、と。儒教においても天を拝するということはあるけれども、天を拝していいのは皇帝だけだと言ってるんですよね。諸侯は皇帝を拝すること即ち天を拝する所以であり、家臣は諸侯を拝すること即ち天を拝する所以である、と。つまり、すぐ一つ上を拝するんだと言うんです。妻は夫を拝すること即ち天を拝する所以なり。こうして順々に階層的になって日本の秩序はできている。」

山本氏も、岸田氏も、トルストイと同じように、ヒエラルキーにおいて、命令者と被命令者の関係は、頂点に君臨する最高の権威、最高の指導者の権力によるものではなく、一つ上の命令者に由来するものであるとしています。

トルストイは命令者と被命令者の間に存する関係において、自由と必然の関係を見いだし、神の摂理による歴史の支配という確信への根拠とします。

しかし、日本人においては、聖なる絶対者である神に直接支えられているわけではなく、「上官の命令は陛下の命令」であり、すぐ一つ上を拝し、順々に階層的になっているというのは、キリスト教のように直接神を拝するのでは、日本の秩序にそぐわないためとしています。
それでは、日本の秩序、すなわち日本人の自己を支えてきたものは一体何であったのでしょうか。
時の権力者でないことだけは明らかなように思われます。

以下、考察を続けてゆきます。


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