2018年11月7日水曜日

日本人にとっての“identity”とは⑤権力について

 トルストイは、「なぜ戦争や革命が起るか、それはわれわれにはわからない。ただある行為を成就するために、人々が一定の結合を形づくって、すべての人がそれに参与する、ということを知りうるのみである。われわれはこれについて、それはそうなのだ、なぜならば、ほかに考え方がないからだ、これが法則なのだから、とこう言うだけに過ぎない。」と述べています。

権力の源泉が、それを占有している人物の肉体的資質にも、精神的資質にも存しないとすれば、この権力の源泉は明らかに所有者以前に存在すべきです。すなわち、所有者と群衆との関係にひそんでいるべきはずであるわけです。

神より権力を授けられ、直接神の意志によって指導される人々のかわりに、新しい歴史学は非凡な超人的才能を賦与された英雄や、君主や、群衆を動かすジャーナリストにいたるまで、種々雑多な性質の人間を選んでいます。ユダヤ、ギリシャ、ローマなどの諸民族が、人類運動の目標とみなし、神意にかなえるものと思考した目的のかわりに、新しい歴史学は自分自身の目的を樹立した、それはフランス、ドイツ、イギリス等の福祉であり、最高の抽象的意味における全人類文明の福祉であるわけです。しかし、この人類なる言葉は、通常大陸の北西にあたる小さい一隅を占めた、少数の民族を意味するのであるとしています。

岸田氏によると
大英帝国が他のヨーロッパ諸国を抜いて七つの海にまたがる帝国になり得たのは、異民族のノルマンに征服され、支配された屈辱感がバネになっていたと考えられるし、ヨーロッパからはじき出されたあぶれ者としての劣等感がアメリカ帝国主義の基盤であり、第一次世界大戦に敗れて屈辱的なベルサイユ条約を押しつけられた口惜しさがヒトラーの第三帝国を支えていました。彼らはそれぞれ、イギリス文明とか、自由と民主主義とか、アリアン民族の優秀性とかを普遍的に価値あるものと信じ、それを諸外国に押しつけようとしていたわけです。大日本帝国の場合も、幕末以来の欧米列強の度重なる恫喝、不平等条約の押しつけ、不当な干渉などによってまさに被害者の屈辱感に煮えたぎっていたのであって、同じく八紘一宇とやらを普遍的原理と信じたのです。イスラエルの侵略主義も自分たちが受けた屈辱を取り返そうとしたのです。ソ連にしても、遠くはジンギスカンに征服され、近くはナポレオン、ついでにヒトラーに侵略され、日本との関係においても、日露戦争に敗れ、さらにシベリアに出兵され、大日本帝国の場合と同じく、その被害者意識は、単なる被害妄想ではなく、充分根拠のあるものなのです。そして、帝国主義国家の例に漏れず、共産主義とやらを普遍的原理と信じて、その伝道に熱心で、全世界が共産化されたときに、戦争も搾取もない正しい理想の世界が実現すると思っていたわけです。

日本は、明治維新によって、封建制から、絶対王制と近代資本主義とのごちゃまぜのような変な社会体制へ移行しましたが、いずれの社会体制も、血縁家族共同体という共同幻想に支えられていて、各藩をそれぞれ支えていたこの共同幻想が一つにまとまった日本という国家を支えるようになったに過ぎず、また、ロシアは、革命によって、帝制から共産主義社会へと移行したが、名称と建前とが変わっただけで、人民の強制労働を根幹とする社会体制には何の変化もないとしています。
史的唯物論は、つまるところ、歴史を神の意志の実現過程と見るキリスト教、客観的精神の必然的発展過程と見るヘーゲル哲学などのヨーロッパの伝統の延長線上にあるわけです。

トルストイは
「ナポレオンが権力を有していて、そのために事件が生じたということは理解しうる。またいくぶんか譲歩して、ナポレオンが他の勢力とともに、事件の原因となったということも、理解しうるとしよう。しかしどうして「社会契約論」(ルソー)なる一冊の書籍がフランス人に殺し合いをさせたか、この疑問はその新思想と事件の因果関係の説明をまたないでは、とうてい理解できないことなのである。」
個々の人物を取り扱って、事件に関与するすべての人々、一つの例外もなくすべての人々を取り扱わない限り、一つの目的にむかって人間を動かす力という観念なしに、人類の運動を描写することは断じて不可能であるとし、この種の観念のうちで、歴史家に知られている唯一のものは権力であるとしています。

トルストイは
「経験の教えるところによると、権力は言葉でなくして、実際に存在する現象なのである。」と述べています。

もし古代人の歴史が示すごとく、神が命令を発したり、自分の意志を表示したりするならば、この意志の表示は時間の支配を受けもしなければ、なんらの動機をも持っていないはずです。なぜならば、神はなにものによってもその事件に結び合わされていないからであるからです。しかし時間のなかで、互いに結び合わされている人間の意志表示たる、命令というものについて論ずるならば、この命令と事件との関係を明らかにするために、われわれは次の点を確立しなければなりません。
(一)   事件全体の情況、事件および命令者の時間のなかにおける運動の連続性
(二)   命令者と、その命令の実行者(被命令者)との間に存在する必然的関係の条件、
すなわちこれであります。

時間から独立している神の意志表示のみが、数年もしくは数世紀の後に起るべき多くの事件に関係をもつことができるわけです。そして、なんらの動機をもたぬ神のみが、おのれ一個の意志によって、人類運動の方向を決定することができます。しかるに、人間は時間のなかで行動して、みずから事件に参与するのであります。

命令と事件との関係を時間の中で検証する時、われわれは次の事実を見出します。すなわち、命令はいかなる場合においても事件の原因となりえない、ただこの両者の間に、ある一定の相互関係が存在するのみです。
この命令者の被命令者に対する関係こそ、とりもなおさず、権力と呼ばれるものなのであるとしています。
この関係は次の点に存するとしています。
「人間は共同活動のために常にある結合を行う。その際、この共同活動のためにたてられた目的が、まちまちであるにもかかわらず、その活動に参与する人々の相互関係は、常に一様である。
こういう結合に加わった人々は、常に次のような関係にたつ。すなわち、最大多数の人々はもっとも多く直接に、結合の目的たる共同活動に参与することとなり、最少数の人は直接に参与する程度がもっとも少ない。」

歴史家は、命令として事件に結合されている史的人物の意志表示のみを検討して、事件はこれらの命令に左右されているものと考えます。しかるに、われわれは事件そのもの、および史的人物と群衆の関係を研究して、史的人物とその命令は、事件に左右されていることを発見しました。この結論の疑うべからざる証拠となるものは、ほかでもない、どんなに命令の数が多くても、その他の原因がなければ事件は成就されない、という事実であります。しかし、事件が成就されるやいなや、たとえいかなる事件であろうとも、間断なく表白された種々雑多な人物の意志の中から、意味においても時間においても、命令としてその事件に結びつけられるようなものが、必ず発見されるでありましょう。この結論に到達したわれわれは、
(一)   権力とはなんぞや?
(二)   いかなる力が民衆の運動を惹起するか?

こういう歴史上の本質的な二つの疑問に対して、躊躇なく断乎として答えることができる。
(一)   権力とは、ある人物が他の人々に対して持つ一種の関係である。この関係においては、その人物の事件に関与する程度が少なければ少ないほど、現に行われつつある共同行為に関して、意見や、予想や、理由づけを表白する機会が多いのである。
(二)   民衆の運動を惹起するものは、従来の歴史家が考えたように、権力でもなければ、知的活動でもなく、さらに進んでこの両者の結合でもない。それは事件に直接関与しているすべての人々の活動である。しかも、彼らはもっとも多く事件に関与するにしたがって、それに対する責任がもっとも少なくなり、またその反対ともなるように結合するのが常である。
 精神的関係においては、事件の原因は、権力であると見なされ、肉体的関係においては、その権力に服従する人々のように考えられています。しかし、肉体的活動を伴わない精神的活動は、とうてい考えることもできないから、したがって事件の原因はそのどちらでもなく、両者の結合の中に存するのであるわけです。
 語をかえていえば、われわれの検討する現象に対しては、原因なる観念を適用することができないのであるとしています。

岸田氏は
指揮官がいくら命令を発しても、兵士がついてこないような状態が、現実原則に従う自我と快感原則に従うエスとの対立としてフロイドが記述したものです。現実原則と快感原則とのこの対立と分裂は、人類だけが直面する悲劇であり、動物においては、現実への適応と快感の追及とのあいだに矛盾はないとしています。

トルストイの言う、事件の原因は、精神的関係と肉体的関係の結合の中に存するという意味は、フロイドが記述した現実原則に従う自我と快感原則に従うエスとの対立と分裂に直面する人類の悲劇であると理解できます。

したがって、事件の原因が、個人の権力によるものであるとは言えないことになります。

民衆の運動を惹き起こすのは、事件に直接関与しているすべての人々の活動であることになります。


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