トルストイは、必然の法則のみに支配される人間の行為を想像するためには、無限量の空間的条件、無限大の期間、無限量の原因、こういうものの知識を認容しなければならないとしています。
必然の法則に左右されない絶対自由の人間を想像するためには、空間と時間と因果律を超越した唯一人を想像しなければならなくなります。
もし自由のない必然ということが可能であるならば、われわれは必然の法則の定義を同じ必然をもって試みるという結果になってしまいます。しかし、これは内容のない単なる形式にすぎないわけです。
もし必然のない自由が可能であるならば、われわれは空間と時間と原因を超越した無条件の自由に到着したことでしょう。しかし、それは無条件であって、なんらの制限を有していないということによって、あるいは無となるか、あるいは形式のない単なる内容のみとなるからです。
トルストイは、全体としてわれわれは、人間の世界観の全部を形成している二つの根拠に逢着するであろうし、それはほかでもない、不可解なる生の本質と、この本質を限定する法則であるとしています。
トルストイによると、理性は次のように言います。
(一)
外見を与えるところの形式、すなわち物質をそなえた空間は無限であって、それ以外には考えることもできない。
(二)
時間は一瞬間の休みもない無限の運動であって、それよりほかには考えようがない。
(三)
因果の関係は始まりをもっていない、したがって終わりを持つべきはずがない。
トルストイによると、意識は次のように言います。
(一)
我は一人である。しかして存在するいっさいのものは、ただ我のみにすぎない、したがって、我は空間を含有する。
(二)
我は自己を生けるものとして意識する。現在の動かざる一瞬間によって、流動する時間を測る。したがって、我は時間の外にある。
(三)
我は原因を超越する。何となれば、我は自己の生活のあらゆる現象の原因として、おのれを感ずるからである。
理性は必然の法則を表わし、意識は自由の本質を表現します。
なんらの制限を受けない自由は、人間の意識内における生の本質であり、内容のない必然は三つの形式をそなえた人間の理性であります。
「自由は検討されるものであり、必然は検討するものである。自由は内容であり、必然は形式である。」
このトルストイの「理性と意識」の関係は、心理学における「自己と自我」の関係に相通じるもののように思われます。つまり、理性は必然の法則であるということは、自己が自分と他人を通しての「自分」、意識は自由の本質であるということは、自我が自分を考える自分、「理性は自己であり、意識は自我である」となり、「形式は自己であり、内容は自我である。」となると思います。また、外的自己において、理性と意識の関係は、超自我と自我に相当します。
トルストイは、形式および内容として相互に関係しているこの認識の二つの根源を分離したとき、自由と必然という互いに排除しあう不可解な概念が、この時はじめて生ずるのであるとします。
この二つを結び合わせた時、その時はじめて、人間の生活に関する明瞭な観念が生じるのです。内容対形式の関係と同様、結合状態においてはじめて相互に決定せられるところのこれら二つの概念をほかにしては、人生に関するいっさいの観念はとうてい不可解なわけです。
われわれが人間の生活について知りうるいっさいのものは、単に自由と必然、すなわち意識と理性の法則の「ある関係」にすぎません。
われわれが自然の外界について知っているいっさいのことは、必然に対する「自然の力」、もしくは理性の法則にたいする生の本質の「ある関係」にすぎません。
「自然の力」はわれわれの外部にあって、意識することを許しません。それゆえ、われわれはこの力を引力、惰力、電気、動物的力などと名づけています。しかるに、人間の生活の力はわれわれに意識されるのに対して、われわれは、「自然の力」を自由と呼ぶわけです。
外的自己において、意識が自由であり、必然が理性の法則ということから、意識が自我であり、必然が超自我(良心の機能を営むもの)であると導き出されます。つまり、自我は自由であり、超自我は理性の法則であるとなり、外的自己は、自由と理性の法則に支えられるわけですが、自由と理性の法則の間の葛藤により矛盾したものがエスとして、内的自己に抑圧され、潜在化すると考えられます。つまり、自由であるはずの「自然の力」あるいは「生の本質」が、必然あるいは理性の法則と相容れなくなり、内的自己に抑圧されてしまうわけです。
岸田氏は、人間と自然の外界との関係を「人類だけが歴史をもつに至ったのは、人類がその生物学的本能に従っては生存できなくなったからである。本能がこわれてしまった人類は、それまで本能によって保証されていた自然的現実との密接な接触を失い、幻想の世界に住むようになった。現実を見失ったのだから、幻想しかもち得ないわけである。」と説明しています。
トルストイは、知識というものは、すべて生の本質を理性の法則へあてはめるものにすぎないとしています。
人間の自由が他のあらゆる力と異なるところは、この力が人間に意識されるという点であります。しかし、理性の目から見れば、それは他のあらゆる力に比して、なんら異なるところがないのです。
人間の自由が自然界の他の力と異なる点も、理性の見地から見ると、この理性の与える定義の一つにすぎないのです。必然のない自由、すなわち理性の法則に定義されない自由は、引力や、熱や、成育力などと少しも異なる点がなく、それは理性によって定義することのできない、刹那的生の感触にほかならないからであるとしています。
自由の力の本質は歴史の内容を形づくっています。しかし、いっさいの科学の対象がこの未知の生の本質の発現であって、この本質自身は、単に形而上学の対象となりうるにすぎないのと同様に、空間、時間、因果律の支配等の中におかれた人間の自由な力の発現も、歴史の対象を形づくってはいるが、しかし自由そのものは形而上学の対象であるとしています。
生体に関する科学においては、すでに知られているものを必然の法則と名づけ、まだ知られていないものを「生の力」と呼ぶわけです。「生の力」とは、われわれが生の本質に関して知っているものを除いた未知の残部の表現にすぎないわけです。
それと同じく歴史においても、すでに知られているものを必然の法則を名づけ、まだ知られていないものを自由と呼びます。歴史にとって自由というのは、われわれが人間生活の法則に関して知っているものを除いた未知の残部の表現にすぎないわけです。
歴史は人間の自由の発現を外界と関連させて、時間と因果律の支配のうちに検討します。すなわちこの自由を理性の法則によって定義します。それゆえ歴史というものは、自由がこれらの法則によって定義せられる範囲内においてのみ、科学でありうるにすぎないわけです。
トルストイは、自由であるはずの自然の力あるいは生の本質と、必然であるはずの人間生活の法則の関係を形而上学の対象として、棚上げしています。自我と超自我(良心の機能を営むもの)に支えられた人間の意識できる外的自己において相容れず、矛盾したものが、未知の残部の表現であり、内的自己に抑圧され潜在化したものが、エスとなるものであると考えられます。
岸田氏は、現代の心理学が迷信から出発しているにしても、西欧の歴史においては、そのような迷信が生じたのはそれなりの思想的背景があると述べています。生気論と機械論、目的論と因果論、観念論と唯物論、先験論と経験論、創造説と進化論など、多岐にわたるさまざまな思想の闘争の歴史があり、人間は物理化学的反応体であるというテーゼも、その闘争のなかから必然的に生まれてきたテーゼの一つであって、そういう思想の歴史を背負っている西欧人としては、このテーゼの真偽はその世界観の存亡にかかわる重大な問題であり、いずれ決着をつけねばならないわけです。そのために、それが真であるとの仮説に立ち、莫大な努力を払って研究しなければならないとしても、やってみるだけの価値のあること、いやむしろ、やらないではすまされないことであるわけです。それが結局、途方もない浪費だったことがわかるとしても、それは必要な、と言ってわるければ、避け得ない浪費であります。現代の心理学が、人間の心に関する日常的な素朴な問いかけから切り離されているのは、西欧においても日本においても同じだが、西欧においては、少なくとも上述のように、日常的レベルでは無意味でも、思想的レベルでは避けて通れない問題とかかわっているのです。はっきり言えば、心理学は、自然科学の一部門であると自称しているけれども、その正体は、科学ではなく、形而上学であるわけです。
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