次に、日本における経済についてです。
山本七平氏は
「徳川時代 大名の領国は独立採算性
各藩は財政的に自立するため『領国の経営』をしなければならなかった
インダストリアルポリシー」
米相場は江戸時代を通じて常に投機の対象でありました。
日本の近代化の基礎は「商品の集積」によってはじまります。
大阪、江戸という物資の間の決済は、十人両替商と御為替組の間で行われました。
江戸時代は武士よりも町人が主導権を持った時代「町人文化」でした。
「農民は原価計算などしないが商人は厳密な原価計算をしている
金融業はすでに幕府の財源になっていたため保護と振興策が必要だった
武力を必要としない時代になると、おカネだけが唯一の威力」
山本氏は、尾崎藍香の「御伝馬論」を引き合いに出して、農民までがこういう金銭感覚であったとし、明治における経済的発展の基礎であったと指摘しています。
韓国での貨幣使用の強制に比べると全く逆の現象で、上昇志向を持つ者は科挙の試験に合格するしかありませんでした。
足利時代には、すべてのものは家柄であろうと官位であろうとカネを出せば手に入らないものはありませんでした。
1.無尽に関する法令が初めて出てくる鎌倉時代初期
2.経済的下剋上が強く出てくる足利時代
3.限定的とはいえ銀行に等しいものが発生した徳川時代
4.近代的銀行が出来た時
と指摘しています。
小室直樹氏は、「国民のための経済原論」において、
「『日本式経営』とは、企業という機能集団が、共同体になったことにより生ずる。
ヴェーバーのいう共同体とは、規範の二重性と分配の二重性の特徴をもつ社会体系のことをいう。
アメリカの企業は、単なる機能集団にすぎない。共同体ではない。
日本の企業は、機能集団であるとともに、共同体でもある。アメリカ企業は、企業内でも企業外でも通用する一般的な市民規範あるのみである」
二重分配とは、もと、農村における共同体における収穫物の分配の仕方です。
一定の農地を、いくつかの共同体が耕作したとします。
この収穫物を、まず、各共同体に分配する。その後で、それぞれの共同体で、当該共同体に分配された収穫物を共同体の各メンバーに分配する。
農業における収穫物という経済財の二重分配であるわけです。経済財以外の社会財も、共同体においては二重分配されます。
中国、韓国、インド、中近東社会などとはちがって、日本には、血縁共同体は発生し得ないと指摘しています。
小室氏は田沼意次を例にして、日本の賄賂は忠義宣言であるとしています。
「金銀(賄賂)が『奉公したい志が忠である』ことの証明であると解釈されている点だ。金銀は、報酬として相手に贈られているのではない。金銀によって、相手の行為を買収したのではない。それを贈ることによって、『奉公したい志が忠である』ことが証明されるがゆえに贈る。それは、取引ではなくて、一種の忠義宣言」
賄賂そのものが目的ではなく、特定の人間関係を樹立することが目的であるからであるとしています。
欧米における賄賂は、要するに買収。相手の行為をカネで買うところの取引なのです。日本では、これと異なり、カネのやり取りによって特殊な人間関係が成立する。この人間関係の樹立こそが目的なのであるわけです。
日本における賄賂は買収ではなく、より本質的には特殊な人間関係の確立のために用いられる。そのための触媒であるとしています。
山本氏は、徳川時代は、大名の領国は独立採算性であり、「領国の経営」をしなければならなく、足利時代には、すべてのものは家柄であろうと官位であろうとカネを出せば手に入らないものはなかったと指摘し、現在の企業も同じです。
小室氏は、「日本式経営」とは、企業という機能集団が、共同体になったことにより生ずるのに対し、アメリカの企業は、単なる機能集団にすぎず、共同体ではないとしています。
日本の企業は、機能集団であるとともに、共同体でもあり、アメリカ企業は、企業内でも企業外でも通用する一般的な市民規範あるのみであるとしています。
日本における賄賂は買収ではなく、より本質的には特殊な人間関係の確立のために用いられる。そのための触媒、つまり、共同体化した機能集団を動かすためのコストとしています。
アメリカ企業における、一般的な市民規範とは、“integrity”です。
共同体化した機能集団である日本の企業や官僚は、二重規範(ダブルスタンダード)となり、一般的な外の規範と企業や官僚内の規範とに齟齬をきたしていき、賄賂は、必要悪となっていきます。
“integrity”を喪失した企業、官僚は、近代資本主義の精神も喪失していきます。
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