次に、日本における仏教についてです。
小室直樹氏によると、仏教の説教の効果は坊主の態度、物腰、人相、服装、口調、背景 道具立てによって決定されると指摘しています。
つまり、説教の内容は二の次で、僧の醸し出す雰囲気(空気)による効果としています。
仏教の論理は因果応報の因果律であり、因果律とキリスト教の予定説は真向対立するものです。
内村鑑三でさえ、神は不公平と嘆いたことを例として、因果律が骨の髄まで染み込んでしまっている日本人が、いかに予定説を理解することが困難であるかを説明しています。
仏教徒は、僧と俗人を類別します。
イスラム教に僧はなく、キリスト教にはあってもなくてもよいと小室氏は指摘しています。
「仏教において戒律はその本質
キリスト教における『戒』は修道院が勝手に決めたルールで本質と関係ない
儒教は家族道徳を根本規範とする 家族を棄てることは根本規範の蹂躙。
日本は唯一の例外 最澄は戒律を廃止してしまった
具足戒250戒を菩薩戒の十重戒、48軽戒に替えてしまった
受戒の儀式を徹底的に簡素化」
山本七平氏は、因果応報が六界と一体化している世界が仏教の前提であり、
いかにしてその状態から脱せるかが仏教における救済のテーマと指摘しています。
小室氏は、修業により出家して、家族とさえ関係を断たねばならない僧は、儒教の家族道徳にも反するということもあり、日本の仏教は修行のための戒律を廃止してしまったというわけです。
「受戒は外面的儀式によらず内面的信仰による
仏教の原点は人間の外面的行為から人間の内面的信仰へ
世俗権力たる朝廷の勅許によって受戒の方法が変更された これが日本の特徴
天台円戒の本質は精神的なものとなる 自誓受戒も許す
伝教大師最澄は日本の仏教から戒律を追放
日蓮 最澄が残したわずかな戒律も実質的になくした
法然 戒律全廃
親鸞 肉食妻帯の生活」
日本の平安仏教は朝廷の保護の元、上からの貴族のための仏教であったものが、鎌倉仏教では下からの民衆のための仏教となり、広く浸透していきます。
それは、最澄が戒律を追放し、日蓮、法然によって戒律は全廃され、親鸞にいたっては、肉食妻帯の生活を始めてしまったわけです。
ここで重要なのは、受戒は外面的儀式でしかなく、仏教の原点は人間の外面的行為から人間の内面的信仰へ移行したという指摘です。
これは、モーセの法律である人間の外面的行動を禁止し、イエスにより、法律の場は人間の内面たる心の中に移し変えられ、行動規範から心情規範への大転換したことと同じです。
山本氏は、日本の仏教が広く民衆に浸透していくにあたって、鈴木正三の功績をあげています。
鈴木正三の考え方は、
「宇宙の基本は一仏
一神教ではないが一仏教。 一仏論はキリスト教を連想させる
一仏には徳目が三つ
キリスト教の三位一体=「一つの本質」「三つのペルソナ」と相似
一つが月、一つか仏性仏心、一つが医(いやし)
仏の機能が三つの面に出ている」
とし、日本の仏教とキリスト教の相似性を指摘しています。
「月は天地自然の秩序、内心の秩序、山川草木悉皆成仏(万物はことごとく仏性を持つ)
もちろん人間の中心にも仏性はある 宇宙は自然の秩序 象徴的に月
仏はいやしてくださいと頼む宗教的対象 医
儒教では『天理即本然の性』 天理が内心の秩序
人間は知覚があって他と接触するために利害関係を生ずる
仏教でいえば仏性、儒教でいえば本性が侵される」
とし、日本の仏教と儒教の相似性も指摘しています。
「貪欲、怒り、愚痴 三毒が仏性を侵すから成仏できない 修行は、一種の予防医学
人間が仏性通りになることを成仏という
『衆生もまた仏なり』という言葉が成就して社会が全部うまくいく
『農業即仏行なり』おのおのの所作において成仏すればよい
日常業務を全部禅のつもりでやっていけばみな成仏できる 万人成仏論
内心の安堵の獲得のために働くことが、『生命の充足を求める行為』一種の宗教現象
世は平和になったが閉塞状態 宗教的な救済へ脱出できる宗教的、心理的な道を拓いた」
鈴木正三によれば、修業は、俗世から解脱して出家し、家族とも縁を切るものであったものが、おのおのが日常業務をやっていれば、それそのものが修行であり、成仏できるとしました。
ここでやはり重要なことは、内心の安堵の獲得のために働くことが、一種の宗教現象であり、マックス・ヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」においての労働による救済との相似性がみられることです。
次に、日本における儒教についてです。
小室氏は、
「孟子流の善政主義である易姓革命とは、システムの調和を攪乱した暴君は放伐してシステムの秩序を回復
前提としてあるのは規則正しい自然の循環と平天下の『秩序』との間の相関を調う思想」
と指摘しています。
山本氏は日本における儒教について、禅僧の鈴木正三との比較で、儒者の石田梅岩を引き合いに出しています。
徳川時代中期より儒教が浸透し、仏教時代から儒教時代へと進みます。
「石田梅岩の思想は、
孟子の性善説 宇宙の基本は善
正三の『仏』が『善』になり『月』が『天』になる
天の秩序は内心の秩序 儒教の本然の性
諸思想は薬のつもりで全部取り入れよ
本心通りにしていればよろしい 日本人ははなはだ宗教的
本心がない人間などという人種は日本人には扱えない人種 日本人は『本心教徒』
『天理即本然の性』=『本心』=『宇宙の秩序』 本心においては全員が善人
働いて食物を得ていれば、これが善=働くことが善
人間が本心通りにしていること=働いていること
勤勉=善 怠惰=悪
働いていないということは正三的禅の修行からいっても罪悪
儒教的な梅岩的規範からいっても罪悪
人間、勤勉にならざるをいないという結果になる
欧米の社会は、雇用契約とそれに基づくマニュアル通りの遂行を絶対視
何らかのこういう組織的な原則とのそれに基づく個人の規範がない限り
近代社会は機能しない」
山本氏は、北条泰時の貞永式目が、日本における秩序を作る大きな役割を果たしたと指摘したうえで、貞永式目においては宗教、宗派全部認められている点を重要視しています。
どの宗派にも特権は認めず、他宗派批判もしてはならないということで、「諸思想は薬のつもりで全部取り入れよ」となるわけです。
また、日本人は「本心教徒」であり、はなはだ宗教的であるとしています。
人間が本心通りにしていることは、働いていることであり、鈴木正三の「農業即仏行なり」と同じで、石田梅岩も勤勉に労働することが善であるとしています。
石田梅岩も、マックス・ヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」においての労働による救済との相似性がみられます。
欧米社会では、絶対的神との契約を守ることが、水平展開して、雇用契約とそれに基づくマニュアル通りの遂行を絶対視しました。
何らかのこういう組織的な原則とのそれに基づく個人の規範がない限り、近代社会は機能しないわけですが、現代の日本においても、孟子の性善説に基づく「本心」が秩序をつくり、社会を機能させていると、山本氏は指摘しています。
ここで重要と思われることは、小室氏が指摘する孟子の「易姓革命とは、システムの調和を攪乱した暴君は放伐してシステムの秩序を回復」するという点です。
暴君と化した湯、武は秩序を乱したので放伐してよいことになるわけですが、その前提として、聖天子としての尭、舜の存在があります。
「怪力乱神」を語らなかった孔子も晩年には天命を嘆いています。
つまり、実際主義者であった孔子も、尭舜の聖天子はなにもせずとも、ただ北極星に向かって座っているだけで、それを中心に、他の星々が秩序正しく回っていくようになることが理想だとしました。
これが、日本においては「天命」という「宇宙の秩序」としての垂直的規範が、「天理即本然の性」である「本心」として広く民衆に水平展開していったと考えられます。
しかし、垂直的規範としての「天命」が、日本人にとっての“integrity”であるためには、啓典宗教を信仰する人びとの「唯一絶対の神からの命令」でなくてはならないという問題が残ります。
つまり、一神教では、絶対的な神によって、すべてを相対化して考えることができるわけですが、日本人は八百万の神のように、次から次へと絶対化する対象をと乗り換えていってしまうため、物事を相対化して考えることが苦手なわけです。
日本人の「付和雷同しやすい」とか、「熱しやすく冷めやすい」という習性はここからくると、小室氏も山本氏も指摘しています。
これらについて、引き続き両氏の著作を引用しつつ、考察を進めていきたいと思います。
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