2018年4月11日水曜日

日本人にとっての“integrity”とは②世界宗教に対する考え方の整理

小室直樹氏の「天皇の原理」より引用(「」内)して、世界宗教といわれる、仏教、儒教、キリスト教、イスラム教等について、その原理原則を整理してみたいと思います。

小室氏によると
「世界宗教は、本源的根拠を具象化された具体的なものにおかず、抽象的なものにおいている。
キリスト教の本源的根拠はイエスの現行たる預言、イスラム教の本源的根拠はアッラーの言葉たるコーランの情報におき、これらは、抽象的存在である。
仏教、儒教、キリスト教、イスラム教は根本的にはその教義を物の呪縛から解放した。
モーセはユダヤ教の本源的根拠を情報におき、ユダヤ教の法律と規範(倫理・道徳)は、まったく同義である。
ユダヤ教の根拠はトーラーだけであり、革命的変化(契約の箱の喪失)により、個人宗教へ重心を移した」

と述べています。つまり、ユダヤ教も「契約の箱」の喪失により、具体的なものから抽象的なトーラーに本源的根拠の重心を移したわけです。

次にそれぞれの救済の対象については
「ユダヤ教は個人救済ではなく集団救済であり、儒教と同じ、仏教、キリスト教、イスラム教は個人救済である」とし、救済の対象が個人と集団に区別されています。

救済理由としては、
「個人を救済するキリスト教の救済理由は『信仰』、集団を救済する儒教の救済理由は『徳行』である」と述べています。

ユダヤ教の論理としては、
「神が欲するところが正しい。神とは別に客観的に是非善悪の基準がない。『王を使って民を罰する』ことを政治を通じてなされる。これは、儒教と同じ。仏教的な考え方だと『法』は『仏』に先行する。ユダヤ教においては、王が犯した罪によって民が罰せられる」

つまり、ユダヤ教の神が絶対的であり、政治的な面は儒教と同じだが、仏教においての政治的な「法」が、「神」に相当する「仏」に先行することと対称的であると指摘しています。

次に、奇蹟については
「ユダヤ教とキリスト教の共通点は奇蹟の宗教だが、儒教、イスラム教は奇蹟のデモンストレーションを行わない。
仏教もまた奇蹟を認めない
ユダヤ教、キリスト教では奇蹟は宗教の中心的位置を占める。
奇蹟は魔法とはちがう ユダヤ教は魔法を厳禁 呪術からの解放をした。
ユダヤ教における救いは、危機に際して神が必ず奇蹟によってイスラエルの民を危機から脱せさせたもうた」

つまり、奇蹟と呪術を峻別し、ユダヤ教がイスラエルの民を集団救済し、キリスト教が個人を救済したのは、呪術のような魔法ではなく、絶対的な神の法律と規範(倫理・道徳)からの奇蹟によるものであることを強調しています。

一般に救いの定義としては、
「当該宗教がめざす人間最高の状態 宗教的至福」
具体的には 
「仏教の救い このうえなきさとりを開いて涅槃に入る。
 儒教の救い 聖人が天子の位について理想的な良い政治を行うこと。
 キリスト教の救い 神の国に入って永遠の生命を得る。
 イスラム教の救い イスラムの法を遵守して天国に入れてもらう。
 ユダヤ教の救い 神の奇蹟による危機からの脱出。救済単位はイスラエルの民全体で個人ではない」
としています。

次に予定説についてです。
「予定説とは、神が予め定めるグレイス(恩恵)によって救われる人とそうでない人の選別。これは、無条件の選別であり、当該の人の行いと無関係。
神は天と地とそれらの間にあるすべてのものを創造した。
それらの間にある法則も正当性も神の創造 天然といえども例外でない被造物。
ユダヤ教、キリスト教においては正、不正は、神とは別に存在するものではなく神の創造による。
神が欲することが正 欲せざることが不正 是非・善悪も。
これは、仏教とも儒教とも違う。
神の予定は絶対。
『神は公平である』ことを証明しなければならないと考えることこそ瀆神。
ユダヤ教、キリスト教はこの論理で一貫。
神は是非・善悪・正不正 まったく自由に任意に決定する。
それらは神が与えたまいし法に照らして決定 法とは神の命令であり神との契約である。
法はまた同時に社会規範でこの点はイスラム教と同様。
『善悪は法によって決められる』『法がなければ善悪なし』
法は神が自由に作る 神の自由な意思決定による。
人間の規範、是非善悪、正不正などに左右されない 左右されると考えることこそ瀆神。」

つまり、創造主である、絶対的な神は、被造物である人間の意志にも行動にも左右されず、不正 是非・善悪を自由に任意に決定でき、救われる人とそうでない人の選別も無条件にできるとしています。神の決定が、人間の意志に左右されると考えることこそ、神を冒涜するものとなります。
そして、
「救済の選別は天地創造より前にすでになされていた。
神が予定しない人だからこの人は悪しきことをする。
予定説は逆因果律 目的論 善行(悪行)と救済(救済されない)ということの因果関係が逆になっている。
キリストの贖いの死は、選ばれた者だけのためであって、全人類のためではない。
キリスト教徒になるのは神が選んだからである。
自らの意志で信仰に入るのではない。
救済は道徳とは無関係。
神意によって救済されると予定された者は神の憐みによって善人となり、救済せずと予定された者は神に反抗せしめられて悪人となる。
贖罪、復活、予定説はキリスト教の根本教義。
神の恩恵なくして善行をすることはできない」

つまり、予定説は仏教の因果律とは真逆であって、人間の善行、道徳(規範、是非善悪、正不正)に左右されることなく、神の憐みによってのみ、善人、悪人の選別がなされます。
さらに、
「秘蹟という儀礼(一種の呪術)によって恩恵をえられるカトリックは宗教活動において予定説から遠ざかっていった。
義しい、義しくないかは法(律法)にてらして決められる。
イエスキリストを信ずることによって義しいとされる。
人の行為はどうでもいいどころではなくて義しい人は一人もいない。
『神を信ずる』のは人間が求めて信ずるようになるのではなく、神が求めて信ぜしめる」

カトリックにおける秘蹟は、一種の呪術であるとし、キリスト教の根本教義から遠のくとは、イエスキリストを信ずることによってのみ義しいという教義に反するので、儀礼により恩恵を与えることができるというカトリックの宗教活動はおかしいと批判しています。

また、キリスト教における救済の原理は予定説であるのに対して
「ユダヤ教における救済の論理は因果律で予定説ではない。
 旧約によれば、神は無条件でイスラエルの民を救済するのではない。
 法を守った場合に限って神はイスラエルの民を救済する。
ユダヤ教は仏教、キリスト教、イスラム教とちがって個人救済ではない。
 儒教のごとき集団救済である。
 奇蹟によってイスラエルの民を危機から脱せしめてやることは、個人ではなくユダヤ人全体である。
個人においては予定説が作動 預言者を立てる。
すべての預言者は無条件で神の予定によって選ばれる。
ユダヤ教の宗教単位であるイスラエル民族全体に対して予定説は作動せず因果律の作動」

儒教のごとき集団救済のユダヤ教の救済の論理は因果律であると指摘しています。
法を守ったという条件で、神はイスラエルの民を救済するのであって無条件ではなく、預言者のみ個人において無条件で神の予定によって選ばれると指摘しています。
つまり、旧約聖書では、預言者個人以外の集団は因果律が作動し、新約聖書となってすべての個人に対して予定説が作動するということです。

予定説であるか因果律であるかの決定的違いは戒律の有無であるとしています。
「仏教においては仏教のルール戒律と世俗の法律とは全然ちがう。
 キリスト教には戒律はなく、法もない。
 人間の内面における問題で外面的な行動に関するルールではない。
 イエスキリストは人間の内面のみ問題として外面的行動を問題としない。
 福音書はトーラー、コーランとちがって法源とはなりえない。
 ゆえに元来、戒律も法ももたなかった。」

つまり、福音書には戒律という外面的な規範はなく、人間の内面のみを問題としているので、法源とはなりえないとしています。
さらに、キリスト教においては
「法律を守る人間なんて一人もいない すべての人間は法律を守らない。
 新約聖書は何事も命令せず何事も禁止しない。
キリスト教は罪も不義も不正もない。」
キリスト教では、人間はすべて罪人であるということを前提としていますので、命令も禁止もしていません。それに対してユダヤ教では、戒律によりイスラエルの民に対して法律を守るよう命令しています。
「モーセの法律 人間の外面的行動の禁止。
 イエス 法律の場は人間の内面たる心の中に移し変えられた。
 行動規範から心情規範への大転換。

 『罪なき者にかぎって刑の執行ができる』イエスの新判決。
  罪は外面的行動によって論ずべからず。
  キリスト教にかぎり神と法律を切断。」

旧約聖書ではモーセが戒律によって、外面的行動の禁止を命令しましたが、新約聖書のイエスは、人間は皆が罪人なのだから、罪人が罪人に刑の執行はできないとしました。

「法律と無関係に神に正しいとされる方法 イエスキリストを信ずること。
 外面的行動における正しさと内面的行動における正しさとを決然と区別。
 カトリック、プロテスタントの法、戒律の発明は本質的にイエスと関係ない。」

キリスト教においては、本来戒律があってはおかしいのであって、カトリックの秘蹟同様、イエスを信ずることのみを教義とすることに反するものとしています。

啓典宗教である、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教においては“integrity”としての規範が明確に規定されています。
違いは、ユダヤ教のみ救済対象が、儒教と同じ集団であり、キリスト教とイスラム教は個人です。
つまり、ユダヤ教と儒教が政治的宗教であるとされる所以です。

ユダヤ教とキリスト教の違いとしては救済対象が集団と個人ですが、両方とも抽象的情報である本源的根拠をユダヤ教はトーラーにキリスト教はイエスの預言においています。
しかし、ユダヤ教はトーラーに示された外的規範により、キリスト教はイエスの預言による人間の内面のみを問題にしています。

また、両方とも奇蹟を宗教的中心においていますが、呪術である魔法を禁止し、カトリックの秘蹟も儀礼的であり、イエスの預言から遠ざかるとしています。

仏教においては、戒律としての「法」が「仏」よりも先行しますが、キリスト教においては、戒律をなくしてしまい、ユダヤ教の「モーセの十戒」が補填します。

そして、ユダヤ教は因果律(予言者のみ予定説)であり、キリスト教は予定説、仏教、儒教は因果律です。


こうして整理してみますと“integrity”の対象となるのは、個人でも集団でもよいわけですが、規範としての戒律、法をどうとらえ、因果律あるいは予定説との関係をどう見ていくかが、日本人にとってもintegrity”があるのであれば、とても重要に思われます。

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