次に、日本人の規範についてです。
小室直樹氏は、
「日本社会では、連帯によって成立した『共同体』(ゲマインデ)の外に立つ人は、『人間扱いしない』。これが今なお生きている鉄則なのである。日本では、共同体の中に入っている人は、人間として取り扱う。それ以外の人は、人間として取り扱わない」
たとえば、某会社の社員は企業(共同体)の規範の中で生きているのであって、この規範は明確な犯罪性が証明でもされないかぎり、日本国の法律や社会通念より重くなります。だから、この規範に反することは、その共同体から村八分の目に遭わされることを意味します。しかも、役人・官僚の世界となると、その掟はさらに厳しく、これが、機能集団が同時に共同体集団である日本の問題点なのであると指摘しています。
「山本七平氏は、日本は空気が支配する国であると分析した。空気は教義のごとくに日本人を支配しつくす。ひとたび空気が充満してくると、何人もこれに抗し得ない。是非善悪の客観的規範は、ここに機能を停止する。この空気の支配は、今も変わらない。
この空気こそが、日本を戦争へと駆り立てて行ったのである」
と小室氏は指摘しています。
山本氏は、
「ユダヤ人は神だけを絶対視する。その他の言葉は、すべて相対化される。いわばどのように絶対化しているように見える言葉でも相対化されうるし、相対化されねばならない。いわば、人間が口にする言葉には『絶対』といえる言葉は皆無なのであって、人が口にする命題はすべて、対立概念で把握できるし、把握しなければならないのである。そうしないと、人は、言葉を支配できず、逆に、言葉に支配されて自由を失い、そのためその言葉が把握できなくなってしまうからである」
われわれの社会では、常に正義の基準の如く絶対化されている命題も、すべて、一種の対立概念で把握されて、相対化されてしまうのです。
正否の明言できること、たとえば論証とか証明とかは、元来、多数決原理の対象ではなく、多数決は相対化された命題の決定にだけ使える方法だからであると指摘しています。
「ある一言が、『水を差す』と、一瞬にしてその場の『空気』が崩壊するわけだが、その場合の『水』は通常、最も具体的な目前の障害を意味し、それを口にすることによって、即座に人びとを現実に引きもどすことを意味している。
現代の通常性の基本の第一にあげられるのが、『日本的情況倫理とその奥にある論理』なのである」
とし、「情況への対応」だけが「正当化の基準」とされます。
これは自己の意志の否定であり、従って自己の行為への責任の否定であるわけです。
「情況に正しく対応した」のであろうが、同時に、政権をとっても情況の創出に対しては一切、責任を負わないということであり、これは軍部政権の「無責任体制」と同じことになってしまいます。
過去も現在も共に律する、共通の永続的「固定倫理」という共通の尺度がないからであるとしています。
「『地球という名の衛星』を尺度の基準としているメートル法という規範を『情況に対応して変化させる』ことはできない。
日本の『間(けん)』という尺度、いわば生活空間から逆に算出した『人間的尺度』だが、メートルという尺度を生活空間という情況に合わせて改訂することは不可能である。
宇宙に変化を生じない限り不変であって、その基準は、人間の情況に対応してくれないからである。人間にとっての自由は、この『地球尺』の何万分の一を、自己の生活の規範の基準と考えるかに限定されており、人間にはそれ以上のことはできないのである。
これが欧米人の考える『絶対』であり、この考え方は旧約聖書の『摂理』からマルクスの『必然』まで一貫していて、それらもまた、人間も情況もそれに作用し得ないがゆえに『絶対』であり、従って規範でありうるわけである」
とし、その具体的な例として、メートル法と五段階の通信簿を引き合いに出しています。
「われわれ日本の社会は通常すべてに『オール3』をつける。そして『オール3』を導き出すために、尺度に加えられる操作が『情況』なのである。
日本は元来、メートル法的規制、人間の規制は非人間的基礎に立脚せねば公平ではありえないという発想がなく、全く別の規範のもとに生きてきた。いわば元来の発想がきわめて情況倫理的なのである。
何かを決定し、行動に移すとき、空気から一見脱却したかの如き錯覚は抱きうる。だがそう錯覚したときその者は、別の対象を感情移入の対象としたというだけ、簡単にいえば『天皇から毛沢東へ転向した』というだけであり、従って何らかの対象が自己の感情移入の対象になりうる限り、言わば偶像すなわちシンボルと化することができうる限り、対象の変化はあり得ても、この状態からの脱却はあり得ない。
自己が変革したという錯覚をもちうるに過ぎないわけである」
操作された「情況」に感情移入してしまい、シンボル化してしまった対象が変化しても、自己が変革しえないことを指摘しています。
「『事実を相互に隠し合うことの中に真実がある』という原則を考えれば、言うまでもなく、それは『虚構の世界』『虚構の中に真実を求める社会』であり、それが体制となった『虚構の支配機構』だということである。
この秩序を維持しようとするならば、すべての集団は『劇場の如き閉鎖性』をもたねばならず、従って集団は閉鎖集団となり、必然的に鎖国とならざるを得ない。その最大の眼目は、情報統制である」
自由という概念はもちろん、自由主義よりも資本主義よりも古く、その原意は解放奴隷です。
われわれの時代は「自由」は「不能率」の同義語で笑殺してよかったし、その方が問題が少なかったのです。ただ、この方法が通用しない位置に達したとき、それから脱却しうる唯一の道は、あらゆる拘束を自らの意志で断ち切った「思考の自由」と、それに基づく模索だけであるとしています。
まず、「空気」から脱却し、通常性規範から脱し、「自由」になること。それしか方法はない。「水を差す自由」の意味であるとしています。
小室氏は
「日本において共同体を形成する紐帯は、協働である。
協力していっしょに仕事をすることによって、共同体が形成される」とし、
戦前、戦中の日本の基軸は、頂点における天皇共同体と、底辺における村落共同体とによって構成されていたと指摘しています。
頂点における天皇共同体は、実は、日清、日露を中心とする近代日本を構築するという日本人の協働によって形成されたわけです。
終戦の結果、頂点における天皇共同体は崩壊しました。
とくに、「天皇の人間宣言」は、日本人のあいだにおそろしいアノミー(無連帯)を生みました。
村落共同体は、経済の高度成長の進行とともに、徐々に確実に解体していき、その結果、日本社会を、いかなる戦争も革命も及ばないほどに、大変革しました。
この根本的な変動の最大のものは、企業のような機能集団が共同体になってしまったことであると指摘しています。
「巨大な急性アノミーは企業のような機能集団に収束されたのであった。
その結果、企業のような機能集団が、同時に、共同体にもなった。
これは、日本独特の現象ではある」
村落共同体が解体され、企業のような機能集団が共同体になってしまったことが、無連帯を生んでしまったと指摘しています。
山本氏の指摘する「虚構の支配機構」とは、小室氏の指摘する「共同体化した機能集団」と同義と思われます。
日本においての紐帯は協働によりますが、「虚構による支配機構」は、外的規範と内的規範のダブルスタンダードを生み、「共同体化した機能集団」の内的規範が外的規範と齟齬が生じても回復が困難になり、無連帯となります。
感情移入した偶像を絶対化してシンボル化したものに、あたかも「空気」のように支配されてしまうわけです。
その「空気」から脱却するためには、「水を差す自由」であると山本氏は指摘しています。
小室氏の指摘する日本人の紐帯である「協働」はヴェーバーの指摘する「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の労働による救済としての宗教性であると理解できます。
「水を差す自由」とは、“integrity”のことではと考えられます。
現代の日本は、“integrity”を喪失あるいは、忘却してしまった時代と言えるのではないでしょうか。
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