小室直樹氏はユダヤ教に関して、
「ユダヤ教は『律法』法律を守ることが『救いの恩恵』の条件
『掟を守る』ことが約束の地へ帰還できる<必要かつ十分条件>である
神と人との極端なまでの相性の悪さ
人間はいつ神にみなごろしにされるかわからない
神との契約=神の命令=法 これを守ること
ユダヤ教的発想は善悪としての判断基準は客観的には存在しない
神との契約の担当者=預言者
神はその栄光のために人間を必要とする
イスラエル人の集団のまとまりとしてのシンボル 契約の箱
ユダヤ教が存立し得るとすれば、人間の内部においてのみ」
とし、ユダヤ人が神との契約をなかなか守れないことに、何度となくイスラエルの民を滅ぼそうとした歴史がテーマになっていることを指摘しています。
イスラエルの民のシンボルであった「契約の箱」を喪失したことにより、ユダヤ教は本源的根拠を具象化された具体的なものにおかず、抽象的なものであるトーラーにおきました。
また、日本人とユダヤ人の比較として、
「日本人とユダヤ人は神によって土地を約束された
ユダヤ人は、圧倒的多数で強力な異民族の中に何千年も存在し続けて、しかもユダヤ民族としてのアイデンティティーを保持しえる
日本人は外国へ移住するやたちまち現地に同化し同一性を失う
ユダヤ人はどこに移住しても何千年、何百代たってもユダヤ人であり続け同一性を保ち続ける」
と指摘し、ユダヤ人は、ユダヤ教によりアイデンティティーを失うことはありませんが、日本人は外国へ移住すると日本人としてのアイデンティティーを失ってしまいます。
「神勅 主神天照は日本を天孫瓊瓊杵尊に与え皇統が永遠に続くことを宣言
日本という理想の土地が神によって与えられた
カナン「乳と蜜の流れる国」 日本「瑞穂の国」
神は無条件で日本を与えたもうた 神学的要諦
日本は無条件 ユダヤは条件付き 神が与えた法(神の命令・神との契約)を守ること」
これは、日本人とユダヤ人だけ神から望みの地をたまわったのであり、日本人は「神勅」によって ユダヤ人は「神と太祖アブラハムとの契約」によってであるとしています。
ユダヤ人は神との契約を守ることを条件にしているのに対して、日本人は無条件で理想の土地を与えられ、瑞穂の国に住み着いたきりで一度も去ることはないことにより、外国へ移住するとアイデンティティーを維持するための本源的根拠が希薄になるためと思います。
ユダヤ人は本来ならば滅ぼされるべきなのに不思議に生命をながらえ、流浪の民となりました。
そして、ユダヤ教の論理は因果律 神勅の論理は予定説であると指摘しています。
つまり、ユダヤ教は神との契約を守ることを条件とし、日本人の神勅の論理はキリスト教と同じで無条件であるとしています。
ここで、重要なのは、小室氏は、日本人の神とユダヤ人の神を同一視していることです。
山本七平氏は「あたりまえの研究」のなかで、ヒナ人形を例にして、日本人とユダヤ人の風習について比較しています。
「動物はやはり穀物ではない。したがってそこで感ずるさまざまな問題点が、ある種の思想へ昇華していっても不思議ではない。と同時にこの面がわれわれになく、その思想がたいへんに理解しにくいのも、また不思議ではない。
罪や瀆れを清める祭り、すなわち罪祭(キツプル)には、旧約聖書の時代には動物を捧げた。これはヒナ人形に罪を転嫁して流すのと似た発想で、捧げる動物は、身分によって牛、山羊、雄羊、羊ときまっていたが、一般庶民は羊なのでこれが最も多く、ここから『贖罪羊』という言葉が生まれた。だがこれは、羊にとっては、まことに割り切れない話であろう。元来は外部の狼から自分を守ってくれるはずの羊飼が、羊には無関係な自分の罪を羊に転嫁してこれを殺すのだから、こんな矛盾した話はない。もし羊に口がきけたら、『そんなバカげた話はない。自分の罪なら、羊飼が自分で責任を負えばよいであろう。そんなことで殺されるのはまっぴらだ』といったことであろう。人は穀物に対してはこういう感情移入はできないが、家畜にはこれができて不思議ではない。さらにこれが実際には行われなくなり、単に文書の中に残るだけになると、それがさまざまな思想に昇華したり、ある種の発想を誘発しても不思議ではない。」
ヒナ人形の「流し雛」は、穢れ払いの節句として、祓い人形と同様に身の穢れを水に流して清める意味の民俗行事として、現在も各地で行われている風習です。雛あられや菱餅など穀物を供えます。
ユダヤ教では、穀物ではなく動物を供えるのであって、おのずから供えるものに対する感情移入は違ってきます。
「ホロコスト―マは贖罪羊一頭を完全に焼きつくすという意味であり、『大量全員を焼き殺す』の意味ではない。
しかし、ユダヤ人がナチスの迫害と虐殺をホロコーストと規定しても少しも不思議ではなかった。彼らはその国の中にあって、それへの忠誠を示そうと涙ぐましい努力もした。
ヒトラーというとんでもない羊飼によって、さまざまな罪を転嫁され、絶対性を主張するナチズムの祭壇に燔祭の羊の如く捧げられたわけである。
その基本であるのは絶対主義である。個別主義の原則は、思想・信条の選択権は個人にあり、個人の選択の集約が政治権力を構成する。ところが絶対主義はそれがナチズムと呼ばれようと共産主義と呼ばれようと、以上の選択権を個人には認めない。
上からの改革という形で啓蒙主義を強行していくと、『人間はみな同じ人間である』が『人間はみな同じ人間であらねばならぬ』に転化する。この言葉が完全に相反する言葉だということを人は気づかないし、ユダヤ人も気づかなかった。というのは『同じ人間であらねばならぬ』のなら『同じ人間にしなければならぬ』になる」
小室氏は、因果律であるユダヤ教のユダヤ人は神との契約を守ることを条件として、集団が救済されるとしていることに対して、
日本人の神勅の論理はキリスト教と同じで無条件であり、予定説であると指摘しました。
キリストが人間の罪を贖うため、贖罪羊として十字架にかけられ、三日目にして復活したことを信ずることにより、個人は救済されるという教義を、日本人はどのようにとらえればよいのでしょうか。
山本氏は、ナチズムのような絶対主義が個人の思想・信条の自由を認めなくなると「人間はみな同じ人間である」が「同じ人間にしなければならぬ」になってしまい、ホロコーストの原意である供え物としの羊一頭を完全に焼き尽くすという意味が、全ての羊を焼き尽くすとなってしまいます。
ヒトラーという悪魔の羊飼いに、その国に対して涙ぐましい忠誠をつくす努力をしたにもかかわらず、ユダヤ人は迫害と虐殺をうけました。
日本人の穢れを清めるためのお祓いの風習は、どこからきたのでしょうか。
小室氏は、ユダヤ人には、カナン「乳と蜜の流れる国」、日本人には「瑞穂の国」という理想の土地を、神はお与えになったと指摘しています。
「カナン」は、遊牧民族であるユダヤ人にとっての理想の土地であり、「瑞穂の国」は稲作農耕民族である日本人にとっての理想の土地であると理解できます。
供え物の動物である「羊」は、ユダヤ人にとっての贖罪の「シンボル」であり、日本人にとっては、ひな祭りにおける供え物の雛あられや菱餅、つまり穀物である「コメ」が、穢れを清めるためのお祓いの風習における「象徴」であるわけです。
日本人にとっての贖罪の象徴としての「コメ」は、日本人にとっての“integrity”を考えるうえで、ひとつのヒントになるのではないかと思われます。
「神勅」の祭主である天皇の存在を考察していくことが、問題の核心にたどり着く方策であると思います。
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