2018年4月28日土曜日

日本人にとっての“integrity”とは⑲ものづくりの現場からの提言

30年前、偶像を絶対化することによって発生する「空気」の支配から日本人が脱却し、日本再生、復活するための処方箋として、山本七平氏は、原子力発電、小室直樹氏は、リニアモータカ―を推奨しました。

当時は、両方とも夢の機関として期待されたわけですが、安全神話の崩壊とその経済論的観点からも、現在は疎外されたものになり果てようしています。

リニアモータカーは、超電導によるもので、電力消費が少ないと勘違いされている方も多いようですが、超電導は車両を浮上させるためのもので、推進力に使うものではなく、新幹線よりもはるかに電力を消耗します。
小室氏が期待した時速1000km以上にはほど遠く、新幹線の速度と効率アップを目指した方が現実的です。

小室氏は、リニアによる超高速鉄道網であれば、地方と中央の往来の時間を短縮することによって、格差を是正することができ、この公共投資は疎外されることなく、ケインズ理論の乗数効果よって、有効需要を増大できると考えられたわけです。
リニアを走らせるためには、中部電力の原子力発電所の再稼働が必須でワンセットらしく、屋上屋を重ねることとなります。

今では、軍部の無責任体制の象徴であるインパール作戦、戦艦大和の悲劇と同じ道をたどろうとしています。

山本、小室、両賢人でさえも、将来を見通すことが如何に困難であることかと思うと、とても畏れ多いのですが、私もモノづくりの現場の端くれとして、自分なりの処方箋を考えてみたいと思います。

私が注目しているのは、「バイオマスカーボン」です。

現在は、石油、石炭の化石燃料系カーボンがほとんどで、植物系のカーボンは、ほとんど普及していません。

用途としては、低品位のものは、タイヤのゴム等の補強材、コピー機のトナー、鉛筆、絵の具から、高品位のものは、炭化ケイ素(SiCで、これは、次世代半導体の中心的素材となります。
太陽光、風力、小水力、波力、地熱等、再生可能な自然エネルギー発電に利用できます。

スパコンにおいては、ロスとなる発熱が1/10以下になるので、演算能力の飛躍的向上が望めます。

炭素繊維は、航空機(ボーイング787)、高級車のボディー、燃料電池用水素貯蔵タンク用として利用されます。               
リチウム電池では、全固体電池の電解質素材、負極材となります。
燃料電池では、水素貯蔵合金に替わる素材、白金に替わる触媒となります。

植物系のバイオマスカーボンは石油系のものと比較すると品質の指標となる導電性は1万倍以上、BET値(比表面積)は7.5倍、粒子径は1/20です。

石油系のカーボンでは、EV車載用蓄電デバイス材料等をはじめ、出力特性の開発は技術的に限界に達しています。

石油を高温で不完全燃焼させて生成するため、大量に電力を消費し、温度管理が困難なため、品質が不安定となります。

バイオマスカーボンは品質、コスト両面において、石油系カーボンの限界をブレークスルーして、今後ますます向上します。

石油系カーボンの原料は海外からの輸入に依存していますが、バイオマスカーボンは日本国内で調達でき、しかも地産地消が可能であり、輸送コストの大幅削減となります。

そして、バイオマスカーボンを生産することによって、農業、林業の活性化に貢献できます。
お米の「籾殻」、森林の「間伐材」等を原料として有効活用できます

「籾殻」はタダ同然で廃棄、「間伐材」は搬出されず、山林に放置されたままになっています。
1キロ20円の「籾殻」が1キロ2千円(石油系の低品位カーボンの現在の相場)以上(高品位カーボンは1キロ5千円から1万円)のカーボンとなり高付加価値商品となります。

「籾殻」においては、40%がバイオマスカーボン、40%が炭素繊維及びディーゼルエンジンの燃料となるバイオエタノールの原料となり、計80%有効利用でき、無駄が少なくなります。

また、「籾殻」は、トウモロコシ等他の一般穀物と比較してケイ素の含有率が段違いに多いのが特徴です。(「籾殻」のケイ素含有率は19.5%、トウモロコシは2.7%)

また、炭化させた「籾殻」が放射性物質のセシウムとストロンチウムの除染に有効であることがわかっています。
その高い吸着性により、ゼオライトと比較して7080%高い結果を出しています。
関連記事:https://newswitch.jp/p/8169

小室氏は、天皇を頂点とした村落共同体の崩壊が、日本人のあいだの無連帯を生んだと指摘しています。

「籾殻」、「間伐材」による農業、林業の活性化は、村落共同体の再生、復活へとつながり、地方と中央の格差是正に向かうと思います。

日本固有の太陽の恵みによる生態系循環の思想は、太陽光発電の半導体や、燃料電池による水素社会への道へも通じます。

農業、林業の活性化による日本再生、復活のためには、石油系から植物系への転換という「きちんとした方針」を打ち出さなければなりません。

イノベーションなくして、日本の再生はありえません。

日出ずる、瑞穂の国」による「森の思想」が世界を救います。

太陽とお米と森は日本の伝統、文化そのものです。
日本固有の文化が新しい文明を創造するのです。

日はまた昇る

モノづくりの精神こそ日本の誇りです。
山川草木悉皆成仏 鉄の塊りにさえ魂を込める職人気質
日本人よ、覚醒せよ

私が開発に携わっているSRモータ、発電機もバイオマスカーボンによるパワー半導体によって、飛躍的に性能の向上が期待できます。

パワー半導体の性能の指標となるオン抵抗とスイッチング速度は現状のシリコンでは限界にきています。
シリコンカーバイド(炭化ケイ素、SiC)では、理論的にオン抵抗をシリコン(Si)の1/1000にできることがわかっています。

大手半導体メーカーではすでに1/20のオン抵抗のパワー半導体を量産化しています。

これは、石油系のカーボンを使用しているので、植物系カーボンを使用すればさらなる性能の向上が望めます。

特に超高速域から低速域までトルク変動の大きいもの(電動車両、船舶、飛行機、ロボット、ドローン等)に有効なSRモータ、発電機では、パワー半導体の性能の向上がそのままモータ、発電機の性能の向上に直結しますので、大幅な出力アップと効率改善が望め、小型化とコスト低減が可能となり、自然エネルギーの普及に貢献できます。

半導体は産業のコメと言われてきました。
「コメ」ではあっても、麦でもトウモロコシではなく、はたして羊でもありえましょうか。

「籾殻」を原料とするパワー半導体は性能、品質、コストいずれの面でも飛躍的な向上が期待でき、まさに日本の象徴としての「コメ」になるものと思われます。

唯一絶対の神と日本人の仲介者である天皇は、「コメ」を神に捧げる贖罪の儀式の祭主です。

日本人にとっての“integrity”は、あるのです。


PAX JAPONICA”への道は開かれると思います。


2018年4月27日金曜日

日本人にとっての“integrity”とは⑱神の摂理として自明なこととは

山本七平氏は、儒教における、中庸にして、「礼楽興らざれば即ち刑罰中らず」とは、外面的秩序と内心的一体感、それがない限り秩序はできないとしています。

日本人は、孟子の性善説を、「すべて罪人であることを自覚することに対する恐れ」からきていると感じているのではないでしょうか。

つまり、キリスト教の「原罪論」を無意識の内に閉じ込め、その反動として、徳川幕府時代、主流が仏教から儒教へと移行していくなかで、山本氏が禅僧の鈴木正三、儒者の石田梅岩を例とする「本心教徒」としての日本人が形成されていったと思います。

これは、小室直樹氏が指摘する幕末の儒者(本来善政主義)である崎門学(山崎闇斎学派)が、天皇の「非倫理性」を徹底的に追及することによって、善政主義の因果律を否定し、キリスト教の予定説である「天皇イデオロギー」を復活させていったことと相関し、心理的な逆作用が働いているように考えられます。

そして、明治維新となり、天皇は「アラヒトガミ」化され、昭和の軍部の無責任体制を生み、戦争へと突き進んでゆきます。

旧約聖書では、モーセが戒律によって、外面的行動の禁止を命令しましたが、新約聖書のイエスは、人間は皆が罪人なのだから、罪人が罪人に刑の執行はできない『罪なき者にかぎって刑の執行ができる』としました。

「中庸でない者」=「罪人」と解せば、「礼楽興らざれば、即ち刑罰中らず」と「罪人が罪人に刑の執行はできない」は同義になると考えられます。

「中庸」とは、「喜怒哀楽未だ発せざる、これを中という」で、「意なく、必なく、固なく、我なし」という状態です。

小室氏は、「ユダヤ教は『律法』法律を守ることが『救いの恩恵』の条件
『掟を守る』ことが約束の地へ帰還できる<必要かつ十分条件>である」としました。

「語源的にデモクラシー(民主政治)の反対は何かというと、シオクラシ―。神聖政治である。
古代ユダヤにおいては、根本的にシオクラシ―であるのに、それをきちんと守らなくなったからうまくいかなくなったというのが、旧約聖書のテーマになっている。つまり、シオクラシ―とは、神様の言ったとおりにやるという政治」

これは、“integrity”そのものと思います。

民主政治は衆愚政治とうらはらで、全体主義に陥る危険をはらんでいることは、ナチスが全権委任法で、独裁政治に進んだことで歴史が証明しています。

現在の日本は、その瀬戸際にたたされていると思います。

聖書の精神である、「自分にして欲しいことを他の人にもしなさい」と、論語の原則である「自分のして欲しくないことは、他の人にしてはいけない」は、「逆も真なり」で同義の行動規範であり、「救いの恩恵」の必要条件と考えられます。
十分条件は、政治制度として同義の「罪人が罪人に刑の執行はできない」と「礼楽興らざれば、即ち刑罰中らず」がそれぞれ対応すると考えられます。

つまり、「救いの恩恵」の条件は、新約聖書では、「何事によらず自分にしてもらいたいと思うことを、あなた達もそのように人にしなさい。これが律法と預言者と聖書の精神である」は必要条件であり、「罪なき者キリストにかぎって刑の執行ができるのであって、キリストの言行を信ずること」が十分条件となります。

論語での「救いの恩恵」の条件は、「己の欲せざる所は、人に施すことなかれ」が必要条件であり、「礼楽興らざれば、即ち刑罰中らず」は十分条件となります。

ユダヤ教では、「律法」法律を守ることが「救いの恩恵」の条件、「掟(モーセの十戒、偶像崇拝禁止はその一つ)を守る」ことが約束の地へ帰還できる<必要かつ十分条件>であります。

ユダヤ教と儒教は、救済の対象が集団であり、外面的秩序としての現世利益であり、政治的といえます。
キリスト教、イスラム教、仏教の救済対象は個人であり、内心的一体感であり、天国か地獄かという最後の審判へ、となります。

マックス・ヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」によれば、
近代資本主義においての「救いの恩恵」の必要条件は、「宗教的に働くこと」であり、十分条件は「自由、民主主義によって人権が蹂躙されることのない政治制度」であると考えられます。
資本主義は利益を追求することが目的となりますので、キリスト教でありながら、救済の対象が集団であり、外面的秩序としての現世利益であり、政治的といえますが、最終的には個人の内心的救済へと導かれるとしています。

禅僧の鈴木正三、儒者の石田梅岩によって「労働=善」と絶対化した日本人にとっての「救いの恩恵」の必要条件もやはり、「宗教的に働くこと」であり、十分条件は「人権が蹂躙されることのないように『方針をキチンと示す』ことのできる為政者による政治制度」と考えられます。
やはり、救済の対象は、集団であり、外面的秩序としての現世利益ですが、最終的には個人の内心的救済へと導かれるとしています。

「方針をキチンと示す」とは、山本氏的に言えば、偶像を絶対化した「空気」から脱却するために、その「空気」に「水を差す自由」を行使する勇気を示すことです。

「宗教的に働く」とは、神に救済されることを目的とし、「カネ」はそのための手段であることを自覚して働くことと言えます。
経済論的に言えば、目的合理的に働くこと、つまり、収入をすべて消費してしまわず、労働者であれば貯蓄に回したり、経営者であれば設備投資に回したりして未来に備え、継続的な維持繁栄を目的として働くことです。
徳目としては、正直、質素、倹約が重要となります。

人権が蹂躙されることのないように『方針をキチンと示す』ことのできる為政者による政治制度」とは、ギリシャ、ローマ法を基盤とした欧米においては、『「ヴィルトゥー」を有し、運命さえも自分の意志に従わせる効率の高い為政者による政治制度』、儒教圏においては、『「徳」を有し、残賊を放伐できる為政者による政治制度』、と言えます。

「方針をキチンと示す」と言ったのは、田中角栄であると小室氏は指摘していますが、田中角栄は「数は力なり」ばかりが取りざたされてきましたが、その前提としての議会での議論が大事であることを熟知し、議員立法を数多く成立させることのできた希少な政治家のひとりでした。

「数は力なり」というのは、多数決原理を強引に進めるような政治手法ととらえられがちです。

山本氏は、「われわれの社会では、常に正義の基準の如く絶対化されている命題も、すべて、一種の対立概念で把握されて、相対化されてしまう」とし、
「正否の明言できること、たとえば論証とか証明とかは、元来、多数決原理の対象ではなく、多数決は相対化された命題の決定にだけ使える方法である」と指摘しています。

つまり、「方針をキチンと示す」とは、正否の明言できることは、多数決の原理の対象とはせずに、方針を示すことにあります。

正否の明言できることとは、自然法則に基づく論証や証明であり、自然法則とは「宇宙の秩序」であり、「神の摂理」です。
そして、この人間にとっての抽象的情報の本源的根拠は「聖書」であり「論語」であるわけです。

日本人として為政者となれるのは、穢れの無い者です。
穢れの無い者となるには、神前において禊ぎにより罪や穢れを祓い清めるわけです。

穢れとは、古来、混乱に陥りそうな状態と考えられてきました。
村落共同体においては、出産(昔は低生存率)、女子の初潮、男子の元服、死に至るまで、秩序が乱れそうになったときを、逆に結集力を呼び起こすための機会ととらえたのです。
これが、上からの支配のための制度となってしまうと、差別、いじめを生んでしまいます。
冠婚葬祭は自主的に村落共同体を存続させていくうえで、穢れを祓い清めるための祭りであり、まつりごと(政)であったわけです。

「穢れの無い者」とは、「中庸である者」であり、「罪なき者(モーセの十戒を守り、キリストによって贖罪された者)」です。

モーセの十戒
1.     主が唯一の神であること
2.     偶像を作ってはならないこと(偶像崇拝の禁止)
3.     神の名をみだりに唱えてはならないこと
4.     安息日を守ること
5.     を敬うこと
6.     殺人をしてはいけないこと(汝、殺す無かれ)
7.     姦淫をしてはいけないこと
8.     盗んではいけないこと
9.     隣人について偽証してはいけないこと
10. 隣人の財産をむさぼってはいけないこと

また、神道における穢れの無い者の「清き明き心」は、徳目としての正直、誠実、思いやり、忠実を重んじることです。
これは、儒教の「徳」とキリスト教の「倫理」とも同じで、ユダヤ教の信仰の基本です。

日本人としてのこれらの前提は、元々、記紀における神話の時代以前から、日本人は「聖書」の民であり、知らず識らずのうちに、その倫理規範を「論語」を援用することによって補完させていたことにあると考えられます。

天皇は「人」であり、神を祀る立場であって、神として祀られる立場ではありませんでした。

そして、「国民統合の象徴」であり、「民族の継続性の象徴」であり、唯一絶対の神と日本人の仲介者としての「アラヒト象徴」であったわけです。


2018年4月26日木曜日

日本人にとっての“integrity”とは⑰東周りの聖書の伝播について

「聖書と日本フォーラム」の牧師である畠田秀生会長と久保有政氏は、イスラエルと日本の関係を研究されています。

久保氏は、「アメノミナカヌシ」=「トヨウケ」=「ウカノミタマ」=「クニノトコタチ」として、みな同一の神で単に呼び名が違うだけであると指摘しています。

「アメノミナカヌシ」は、天の中心に座す主神で、「トヨウケ」は、大元の神であり、「ウカノミタマ」は、穀物の神であり、「クニノトコタチ」は、日本神話の根源神とされています。

つまり、唯一絶対の「God」をユダヤ教では、ヤハウェ、イスラム教では、アッラー、キリスト教では、主なる神あるいは父なる神と呼ぶことと同じであるとしています。

小室直樹氏は、カトリックでの七つにも及ぶ秘蹟による救済が、イエスの教えから遠ざかっていったことを指摘しています。

久保氏も同様の指摘を、カトリックはユダヤ人を排斥していったことと植民地主義に利用されたことを例として指摘しています。
そして、西洋経由の西周りの布教に対して、東周りの東方教会の布教のほうがよりイエスの教えに忠実であったと指摘しています。

十二使徒のひとりであるトマスは、1世紀にインド南西部を拠点に中国まで布教していたとされます。
5世紀には、景教(キリスト教ネストリウス派、ネストリウスはコンスタンチノーブル大司教)は中国において流行し、明末には、大秦景教流行中国碑が長安にて発掘され、考古学的にも証明されています。

空海が長安に留学中、景教に接していたであろうことは、想像に難くありません。
現に、真言密教の高野山には景教碑のレプリカが建てられています。

「南無阿弥陀仏」の称名念仏は、インドにおいて1世紀すでにトマスによって影響を受けていたと久保氏は指摘しています。

そして600年代、中国の善導が浄土思想を確立し、法然、親鸞に大きな影響を与えました。

小室氏は、親鸞の肉食妻帯は、夢に出てきた聖徳太子に許可されたからとの指摘があります。
久保氏は、聖徳太子は政治家であり、特別に仏教に肩入れしていたわけではなく、宗教、宗派にこだわらず、「和をもって貴しとすべし」を実践したのであって、仏教徒ではなかったはずであると指摘しています。

むしろ、シルクロードによってペルシャ人との交流を積極的に進めていたことが考古学的にわかってきたこともあり、当時のペルシャ人はキリスト教徒であったので、聖徳太子はキリスト教の影響を受けていたと指摘しています。

西周りの布教が政治的に植民地主義と結託していたのに対して、景教による東周りの布教は慈善、福祉、医療活動のもと行われたと久保氏は指摘しています。

東大寺を建立した聖武天皇の夫人、光明皇后は、貧しい人に施しをするための施設「悲田院」、医療施設である「施薬院」を設置して慈善を行いましたが、これは、景教の影響であると指摘しています。

天皇家において、「聖」という文字を持つのは、聖徳太子と聖武天皇の二人だけです。
厩戸の皇子と命名された、聖徳太子はキリストの伝説を受け継いでいて、馬小屋で生まれた偉人は、世界でこのふたりだけであるとも指摘しています。

聖書のなかでは「日出ずる国」という言葉がいたるところで出てきます。イザヤ書、マタイの福音書、ローマ人への手紙等、その表現は、「日の登る島々」、「地の果ての国」などさまざまです。
日本人で最初に「日出ずる国」という言葉を使ったのは聖徳太子といわれています。

イスラエルと日本に関係については、東大寺の修二会の「お水取り」が悔過・懺悔することにより救済される点はキリスト教の「悔い改め」と同じ点、諏訪大社の御頭祭がイサク伝承と酷似している点、元伊勢「籠神社」と「天橋立」、徳島県剣山の「クリスト神社」、聖櫃と神輿等、あげていけばきりがありませんが、イスラエルの政府要人、ラビたちも、失われた10部族のリーダー格であったエフライム族は天皇家であると公言してはばかりません。(詳細は「聖書と日本フォーラム」、http://biblejapan.info/

小室氏は、ユダヤ人には、カナン「乳と蜜の流れる国」、日本人には「瑞穂の国」という理想の土地を、神はお与えになったと指摘し、その神は日本人にとってもユダヤ人にとっても同一のであるという指摘になっています。

山本七平氏は、供え物の動物である「羊」は、ユダヤ人にとっての贖罪の「シンボル」であり、日本人にとっては、ひな祭りにおける供え物の雛あられや菱餅、つまり穀物である「コメ」が、穢れを清めるためのお祓いの風習における「象徴」であるとして、その風習の類似性を指摘しています。

法華経の「不惜身命」(人に尽くすためには、自らの体や命を惜しまない)は、キリストの自己犠牲に通ずるものがあり、これもキリスト教の影響と指摘されています。
法華経の自己犠牲とは、捨て身の覚悟であり、守成の勇とも通じます。

シルクロードには大きく分けて北方ルートと南方ルートの二つがあります。

記紀に出てくる弓月の国は、現在の中央アジアのキルギス、カザフスタンにありました。ここを経由して、西へはローマ(大秦国)へ、東へは中国の長安に至るのがシルクロード北方ルートです。
南方ルートは、インド、チベット、ミャンマーを経由します。
この周辺のチャン族、カレン族、シンルン族の伝説、風習はユダヤ人のものと酷似していて、遺伝子工学的には、父系、DE系統は、チベット、ミャンマー、沖縄、アイヌに共通しています。

空海が長安で、チベット曼荼羅の影響をうけたのは、当然と思われます。
秦氏は、弓月の国から朝鮮半島を経由して渡来しました。
秦河勝は聖徳太子のブレーンであり、伊勢神宮、平安京の遷都にも貢献した人物です。

空海は秦氏の協力のもと長安へ留学したものと思われます。

久保氏は、秦氏は明らかに景教徒であったと指摘しています。

秦氏ゆかりの広隆寺弥勒菩薩のミロクはインドのサンスクリット語でマイトレーヤを由来とし、ミトラ教あるいはユダヤ教のメシアに由来するとされていますが、いずれもキリスト教の影響をうけたものと思われます。

また、宇佐神宮を総本宮とする八幡神社(全国44,000社)と伏見稲荷大社を総本山とする稲荷神社(全国30,000社)は秦氏による創建と言われています。
全国には神社が10万社あると言われていますので、その大半が秦氏ゆかりのものと言えます。

遺伝子工学的にも、イスラエルと日本の関係は解明されつつあると研究されていますが、久保氏は、血よりも宗教的ルーツを重要視しています。

小室氏も山本氏も日本人は血縁主義ではないとしています。
抽象的思想としての宗教的ルーツである唯一絶対の神が、知らず識らずのうちに日本人に浸透していったと考えられます。

伊勢神宮の主祭神は、内宮が、「アマテラス」、外宮が、「トヨウケ」ですが、これらは、景教徒の秦氏により新約聖書の教義が反映され、記紀以前の物部、海部、出雲系は、旧約聖書の教義が反映されていると久保氏は指摘しています。

小室氏も山本氏も、ユダヤとイスラエルを微妙に使い分けていますが、畠田牧師の興味深い指摘があります。

イスラエル共和国は、1948年独立を宣言しますが、当時、ベングリオンはユダヤ共和国とするはずだったのが、政治的にイスラエル共和国としたとしています。
イスラエルは、北イスラエル王国の10部族をさし、ユダヤは南ユダ王国の2部族をさすのであって、建国時は、南ユダ王国の部族が主だったものでありましたが、将来、失われた10部族である北イスラエルの民も帰還してくることを前提として、イスラエル共和国としたとされます。

畠田氏と久保氏は、失われた10部族は東を目指し、その一部が日本にも来ていたと指摘しているわけです。
今後の研究の成果を期待したいと思います。


「聖書」の唯一絶対の神が、日本の記紀における「アメノミナカヌシ」と同一と仮定するならば、日本人にとっての“integrity”は明確になると思われます。

2018年4月25日水曜日

日本人にとっての“integrity”とは⑯天皇について

次に、天皇についてです。

山本七平氏は、「昭和天皇の研究」において、
天皇とマッカーサーの単独会見について、藤田侍従長の回想から引用して、天皇はマッカーサーに次のように伝えたとしています。

「敗戦に至った戦争の、いろいろの責任が追及されているが、責任はすべて私にある。文武百官は私の任命するところだから、私の一身は、どうなろうと構わない。私はあなたにお委せする。この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい。」

今上天皇の家庭教師であったヴァイニング夫人の記述も引用し、

「元帥 戦争責任をお取りになるか。
天皇 その質問に答える前に、私のほうから話をしたい。
元帥 どうぞお話しなさい。
天皇 あなたが私をどのようにしようともかまわない。私はそれを受け入れる。私を絞首刑にしてかまわない。(原文では、“You may hang me”と記載されているという。)」

反面教師としてのウィルヘルム二世と天皇を比べていくと、さまざまな点で、その行き方が全く逆で、敗戦のときウィルヘルム二世は、すべてを投げ出すようにして退位し、オランダに亡命したことと、その意志が全くなく、逆に、自らマッカーサーのもとへ出頭した天皇とでは「責任の取り方」が全く違ったといえます。

「戦争責任者を連合国に引き渡すは真に苦痛にして忍び難きところなるが、自分が一人引き受けて退位でもして…」であります。

「守成の勇気」は「創業の勇気」と同じではなく、マッカーサーの所に行き、”You may hang me”と言える種類の勇気であろうと山本氏は指摘しています。
天皇は、明治憲法とそれに基づく慣例によって、すべてが整然と運営される方向へと目指された。その方向に行こうというのがおそらく天皇の自己規定であるわけです。
「憲政の王道を歩む守成の明君」ではあっても、「覇王的な乱世の独裁君主」ではありません。

山本氏は、津田左右吉博士の「歴史的事件」と「歴史的事実」の使い分けを引用して、

「記紀において、何らかの思想を表現せられているところに説話の意味があるのであり、この思想が実に歴史的事実なのであり、昔の人がこういう思想を持っておったということ、その思想が一つの事実である。
記紀の記述であれ、聖書の記述であれ、いわば『神代』においては『歴史的事件』の記述の断片はあるにしろ、そのゆえにすべてを『歴史的事件』の記述というわけにはいかない」

津田博士の関心は、圧倒的に中国の影響を受け、その思想を導入しつつ国家を形成しながら、なぜ「万世一系という思想」(歴史的事件ではない)が形成されたのかでありました。
天皇はまず「アラヒト」であり、「アラヒトガミ」と記されていても、上代の日本人の普通の神の観念とは違う存在であると指摘しています。

「天皇は『アキツカミ』であらせられます。その『アキツカミ』としてのお働きは、国家を統治あらせられる点にあるのであります。天皇はやはり神をお祀りになるのであります。
天皇ご自身が神をお祀りになるのでありまして、その点では神に対する人の位置にあらせられるのであります。」

津田博士の結論をひとことで言えば「アラヒトガミ」とは「アラヒト象徴」だということです。天皇は人間である、と同時に象徴であるというのが、津田博士の一貫した考え方です。

津田博士は天皇を象徴と規定した最初の人であり、中国の皇帝は決して、「アラヒト象徴」ではなく、天命により地の民を支配する支配者なのです。

「天皇は国民統合の象徴」であるだけでなく、「民族の継続性の象徴」であるということになります。

「『勝ちたい』という野心、いわば『占領政策を成功させ、あわよくば大統領に』といった野心は、『捨て身』にはかなわない」

天皇とマッカーサーは会談を重ねていくうちに両国の関係は微妙に変わっていきます。第三回の会談で天皇はご巡幸についてのマッカーサーの意見を求めます。マッカーサーはこれに賛成し、次のように言いました。

「『…米国も英国も、陛下が民衆の中に入られるのを歓迎いたしております。司令部にかんするかぎり、陛下は何事をもなしうる自由を持っておられるのであります。何事であれ、私にご用命願います。』…この最後の、誇り高きマッカーサーが言ったという言葉
Please Command Me”が、まことに印象的に響くではないか」

天皇は、国民統合の「象徴」であるだけでなく、民族の継続性の「象徴」であるということは、あくまでも「アラヒト象徴」であるとしています。

つまり、天皇は「人」であり、神を祀る立場であって、神として祀られる立場ではなかったということです。
「アキツカミ」とは、国民を統治(統合)する働き(機能)をさすものであり、「機関説」であると理解できます。

「万世一系」という思想は、「歴史的事件」ではなく、上代の人びとが、この思想(神話)
を持っていたということが、「歴史的事実」なのであって、これが、民族の継続性の象徴であると理解できます。

天皇がマッカーサーとの会見において、最初の天皇の言葉である“You may hang me”からマッカーサーの“Please command me”にいたる経緯は、天皇の「捨て身」の勇気に対して、
野心家であるマッカーサーでさえ、敬意を表明せずにはいられなかったわけです。

「捨て身」の勇気とは、「創業の勇気」ではなく、「守成の勇気」であって、「憲政の王道を歩む守成の明君」ではあっても、「覇王的な乱世の独裁君主」ではなかったわけです。

 山本氏は、空気の研究において

「二・二六事件を起こした将校たちにとって、天皇とは偶像的『現人神』ともいうべき存在であった。従ってこの偶像天皇が自分の意志をもっていると知ったとき、彼らは、仏像が立ちあがって口を利いたかの如くに驚いたわけであった。これでは、自分たちの帰依に基づく『現人神・天皇制』ではなくなって、天皇という、自分の意志をもつ一個の人間の政治的統治になってしまうからである。それは一人間の意志による普通の統治であって、現人神天皇制ではなくなる。では以上のような、『天皇制』とは何か短く定義すれば、『偶像的対象への臨在感的把握に基づく感情移入によって生ずる空気的支配体制』となろう。天皇制とは空気の支配なのである」

二・二六事件の将校たちが、偶像的「現人神」を絶対化したことは、逆に言えば、自分たちの都合の良いような「機関」に対して感情移入して「シンボル化」していたわけで、そのシンボル化した偶像による「空気」に自分たちも支配されていることに気付かなかったわけです。

偶像のシンボル化による「空気」の支配は“integrity”とは相反するものです。
「アラヒト象徴」としての天皇は、絶対的な神と国民の仲介者であったわけで、それにより、国民を統合していると考えられます。

その前提としては、“integrity”がなくてはなりません。

「空気」からの脱却は、「水を差す自由」としての勇気が必要となります。

東洋思想の「知・仁・勇」が西洋思想の「知・情・意」に相当するという指摘はたいへんな示唆を含んでいると思います。

古事記の最初に出てくる「造化三神」のアメノミナカヌシ(天御中主神、天の中心に座す主神)、タカノムスビ(高御産巣日神、主神との仲介者)、カムムスビ(神産巣日神、地上に息づく神)、これらはキリスト教の三位一体である「父なる神」、「御子イエス」、「精霊」にそれぞれ対応すると考えられます。

山本氏が指摘している鈴木正三の考え方の、

「宇宙の基本は一仏
一神教ではないが一仏教。 一仏論はキリスト教を連想させる
一仏には徳目が三つ
 キリスト教の三位一体=「一つの本質」「三つのペルソナ」と相似
一つが月、一つか仏性仏心、一つが医(いやし)
仏の機能が三つの面に出ている」

この「一仏論」も、キリスト教と対応します。

推古天皇の時代に聖徳太子が制定した十七条憲法(一条、「和をもって貴しとなす」)は、
日本書記では、二条の「三宝」が「仏、法、僧」になっていますが、徳川幕府時代に偽書と認定された「先代旧事本記」においては、「三法」であり、「儒、仏、神」となっています。
十七条のうち、二条だけ、異なります。

小室氏は、徳川幕府は、儒教的易姓革命を肯定し、天皇の権力を最低まで押し下げたと指摘し、山本氏も「禁中並びに公家御法度」を例として、幕府が天皇を管理下に置いたことを指摘しています。

十七条憲法の制定にあたっては、神道系の物部氏が仏教系の蘇我氏に抗争で敗れました。
歴史上、聖徳太子は仏教を広めた功労者とされていますが、なぜか聖徳太子の一族は、仏教派の蘇我氏に滅ぼされます。
聖徳太子は、神仏儒の三宗習合を唱えたことを考え合わせると、十七条憲法の二条は、「先代旧事本記」における「三法」の「儒、仏、神」が正しいのではと考えられます。

山本氏は、天皇の「大政翼賛会はまるで幕府のようだ」との言葉を引用し、その中で天皇は議会、幕府との関係を物部氏と蘇我氏の対立になぞらえています。

古事記における、「造化三神」と鈴木正三の「一仏論」がキリスト教の三位一体と同じであると仮定すれば、日本書記においては、蘇我氏が二条を改竄し、徳川幕府が天皇の地位を押し下げたことも納得がゆきます。

つまり、「造化三神」と「一仏論」は、唯一絶対の神を想起し、当時の権力者にとっては、その権威を危うくする“integrity”となってしまうと考えられるわけです。

「アラヒト象徴」としての天皇は、唯一絶対の神と日本人の仲介者であったと考えるべきと思います。

2018年4月24日火曜日

日本人にとっての“integrity”とは⑮日本における権力の行使について

次に、日本における権力の行使についてです。

山本七平氏は、ガルブレイスの権力行使三つの基盤を引用しています。
「第一系列 1.個人的資質 2.財力 財を動かす力 3.組織 
第二系列 
1.威嚇権力 古い時代から 黒人奴隷 最低生活を保証
2.報償権力 黒人奴隷よりもみじめだった プアーホワイト 働いた成果にだけ報     償を与えれば何の管理もしなくてよく、より残酷 権力行使の絶対化
3.条件付け権力 
  基本的人権その他が重んじられるようになり同時に社会保障が充実
  威嚇、報償が使えなくなる
  宗教家 イエスキリスト マハトマガンジー マルチンルーサーキング
  何かに影響されて各人が自発的に動いたつもりが実は権力によって動かわれてい     る」

条件付け権力の例としては、中国の舜が偉大な皇帝でありえたのは、徳があるゆえにその徳で天下を治めえたとしています。
何もしなくて天下が治まったからこれが一番であり、
三国志演義の劉備玄徳や、西遊記の三蔵法師等が中国人の理想像であったと指摘しています。
ガルブレイスのソーシャルコンディショニングの整備としては、

「組織内に完全に権力を行使してはじめて外にも力を及ぼし得る
 内部が組織的に乱れていると、到底外部には力を及ぼし得ない 権力の原則
商品を買わせるのも権力の行使が必要」

とし、単純な押し売りとテレビコマーシャルによるものを比較して、組織内の権力を固めておいて、外部にまで権力を及ぼし得る状態になって、それが可能になると指摘しています。
組織内を完全につかみ、同時に組織を構成している各人の価値観をつかみ、
さらに組織内秩序をつかむ。この三条件が下位制度をつかむこととなります。
日本の企業は欧米式の制度を上にもってきていますが、でも内部は決して欧米式ではありません。

昔の日本は、天皇と律令の下に幕府と式目がありました。
表向きは中国から輸入の律令制で、下位制度は幕府式目制であったわけです。
下位制度が本当は機能して、下位が動けば上位は自動的に動くわけです。
アメリカ人にとって組織とは契約に基づきます。
雇用契約は日本にはありません。
マニュアル不在が、日本社会です。

日本の会社員の不平不満は三つです。
1.会社はオレの能力を認めない 能力順位でなければならない
 能力主義が社会正義であり、社会の秩序となります。
 血筋家柄は、タテマエ 能力によって上までいくと血筋家柄がよいことになるの   であり、血筋家柄がよいから上にいくのではありません。
2.ウチの社長あるいは課長は細かすぎる
 3.上司の言い方が気に入らない

近代社会では、軍隊を動かすには予算が必要だが、これの決定権を軍は持っていないから
チャーチルは、「戦争責任は戦費を支出した者にある」と山本氏は指摘しています。

天皇自身が機関説の信奉者であったのです。

「議会は天皇に対して完全なる独立の地位を有し、天皇の命令に服するものではない」を天皇自身当然のこととし、この原則を破ったことはもちろん、触れたこともありません。
機関説否定は、天皇絶対とすることによって一切合財の責任を天皇に負わせることが出来るが、その責任に対する権限は「機関としての天皇」に一切与えていなかったわけです。
アメリカの大統領が持つ「拒否権」は天皇にはなく、また天皇は国会の制定した法律を拒否した例はないし、あるはずもありません。また国会の議決した予算に停止を命じたこともなく、何らかの増額・減額を命じたこともないわけです。大体国会は「天皇の命令に服するものではない」のであり、逆に「天皇は議会の制限を受ける」のです。

諸外国の天皇への誤解は、主として天皇の異常なまでの「頑固さ」と「継続性の保持」にあると山本氏は指摘しています。世界史において、制限君主制の下で、この制限を破ろうとするのが君主で、破らせまいとするのが議会であるのが普通であったわけです。すなわち「国王と議会との闘争」です。ところが日本では「憲法停止・御親政」、すなわち天皇独裁を主張する強力な勢力があるのに、君主自身が頑としてこれを拒否し、一心に「制限の枠」をその自己規定で守っていたのです。
「これは世界史に類例がない不思議な現象だから、例外的な一部の知日家を除けば、この点を誤解するのは当然であろう」と述べています。

小室直樹氏は、マキャヴェッリは、倫理学及び神学から政治学を解放して、一個の独立した科学として確立したとし、あたかも、心理学におけるパヴロフのごとくに、経済学における英国古典派のごとくに、と述べています。
ゆえに、倫理をもってマキャヴェッリを攻撃することは、利己心の是認(効用の最大化、利潤の最大化)をもって、経済学を攻撃するようなものであり、条件反射をもって心理学を攻撃するようなものであるとしています。
マキャヴェッリの主張は、没倫理というべきであって、反倫理ではありません。
倫理(道徳)を否定しているわけではなく、倫理から政治学を解放したのです。
政治家にとって重要であるのは力です。力の要請は倫理道徳よりも優先するわけです。

「為政者の要件『ヴィルトウ』とは、『活力』、すすんでは『生命力の発揮』という意味である。効力でもある。能力でもある。
『徳』と訳すのであれば、古代中国における為政者の徳か。
儒教イデオロギーによれば、為政者であるための条件は『聖人』であることである。
この場合の聖人とは、『博く民に施して、衆を救う能力のある者』(論語)
聖人とは『徳』のある人のことをいうが、聖人の『徳』とは、『良い政治』をする能力である」
と述べています。

小室氏は「資本主義原論」において、
「資本主義の精神は『エートス』である。
『エートス』とは『いわば、社会の倫理的雰囲気とでもいうべきもの』
内面的行動と外面的行動との統合である。一人の人にとっては、主観的であると同時に客観的である。
エートスの本質は、伝統主義からの解放である」

伝統主義とは、過去にやった、あるいは過去に行われたという、ただそのことだけで、将来における自分たちの行動の基準にしようとする倫理です。
日本は伝統主義に縛られている。
国の官僚制だけでなく、企業の組織も腐朽しました。
それは「過去の慣行へのしがみつき」このことから発生する、どうしようもない「無責任体制」これであったわけです。
役人を束縛している掟・仕来りが腐朽して機能しなくなったのだからたまったものではありません。それらに束縛されている官僚制は腐朽官僚制となりはてて機能を喪失したわけです。
日本企業も伝統主義に縛られています。
「シキタリを破る」こと以外の失敗ならどんな失敗でも、易々と許されてしまうのです。いや、許されるどころではない。不問に付されてしまうのです。
企業人の責任とは、リスクに対する責任です。
企業の目的は利潤の最大化にあります。
企業人は、つねに破産のリスクに直面しているわけで、このリスクを小さくするように努力するべきであり、この危険に対して責任を負います。

「企業は退出とくに破産こそ実に市場における自浄作用である。
資本主義市場の本領は、ミスから学ぶことにある。市場均衡(価格、所得の決定)は、試行錯誤のはてに成立すると考えられた。
資本主義では、試行錯誤こそ、その神髄である。『エラー』は『ミス』といってもよい。試行錯誤によって資本主義は最適点(例。資源の最適配分)に達する。いってみれば、『ミスから学ぶ』ことによって資本主義は成立するのである」

小室氏は「田中角栄の遺言」において、
役人は、与えられた状況の下において、与えられた法の下においてしか行動ができないことであって。換言すれば、与えられた運命に完全服従するという、どうしようもない性質を持っています。
政治家としていちばん大切なものは、運命をいかに駆使するのかということです。予想することのできない激変に、いかに対処するかです。
孔子、孟子をはじめ、日本人が大好きな儒教の思想においても、政治家にとっていちばん大切なことは、国民生活を安定させて、国民に秩序を与えることにあるといえます。

「デモクラシー裁判の最大の目的は、国家という巨大な絶対権力から国民の権利を守ることにあり、刑事裁判とは検事に対する裁判である」と指摘しています。

「役人のメンタリティーは、
1.既存の法律の上で動く。新たな意思決定はできない。
2.減点主義だから、責任は取りたくない。
3.入省年次が序列。人事に口出し無用。
4.薄給で、天下らなければ割に合わない。
5.権限拡大のためなら一所懸命。
これらの特性を熟知した田中角栄は、余人の及ばぬ発想で新たな決断をし、『責任は自分が負う』と宣言した。そして役所の人事には手を触れず、盆暮れに実利を与え、法律を作成する場を提供した。その結果、角栄は一言で官僚を動かし、官僚は角栄を自らの司令塔として仰いだ」

日本でいちばん腐敗が少なかったのは軍人宰相や近衛文麿のような貴族政治家の時代なのでした。
ドイツでは、ナチス政権の時代がいちばん清潔だった。“清潔でありさえすればいい”というのは、考えものなのです。その発想は、デモクラシーとは両立しない。その向かうところは全体主義でしかないわけです。
デモクラシー諸国では、政治にかかる莫大なおカネは、自由のためのコストであると考えているのです。

マックス・ヴェーバーは、政治の要は、「変化する状況における決断である」と言いました。
政治家は役人とは根本的に異なる。役人は、与えられた(主体的には変化しない)状況下における権限の行使である。そこに、運命の入り込む余地はあり得ないとしています。
「最良の官僚は最悪の政治家である」
現代の日本がいかに危険な状態にあるか、真の政治家はなく、政治家はすべて役人の操り人形にすぎません。

小室氏は、ナポレオン、アレクサンダー、シーザーを例として、
「マキャヴェッリは、人間世界は運命=フォーチュナーに支配されていると言う。
マキャヴェッリの運命観を要約して、結論づける、『人間は自分の運命をどうすることもできない、人間社会はフォーチュナーによって支配されている』と、
運命に対抗するのには、いかにすべきか。フォーチュナーを破るものが、ヴィルトウである」

では、生命の力がどのように発揮された状態のことをいうのか。第一義的には、生命の力が政治において発揮されたときの効率のことをいうと指摘しています。これを譬えていうならば、古代中国における天子(為政者)の徳のようなものだと。
普通の個人は、運命に支配され、自分の運命をどうすることもできません。
天子の徳は、自然現象としての運命をも制御できる。
儒学は超自然現象を否定したと、多くの日本人は信じていますが、しかし、そうではない。「『怪力乱神』(論語)を語らなかった孔子ではあったが、超自然現象を全面否定したわけではない。超自然現象も存在する。しかし、超自然現象も自然現象も君主の徳によって制御できると考えた」。

儒教の正統的思考法は、君主の徳によって、経済現象その他社会現象はいうまでもなく、自然現象、超自然現象もまた支配される。この意味において運命は、君主の徳によって制御される。これが、儒教の正統的論理であるとしています。

マキャヴェッリ「君主論」
「人間社会についてフォーチュナーを制御するヴィルトウは君主の力であり」、そして「変化する状況への適応能力である」
この君主の徳を、田中角栄は、「方針をキチンと示す」ことであると表現しています。
韓非子は、政治(統治)の要は法術にありと喝破した。よい法を作って民を制御する。他方、術によって官僚を駆使して統治するとしています。
官僚に問われるのは、所与の状況への適応能力です。固定した状況への適応能力です。
政治家(君主)こそ、変化する状況への適応能力を発揮しなければならない。運命を制御しなければならないのです。これぞ政治家の本領、ここにこそ政治家の存在価値があるわけです。

日本の企業は欧米式の制度を上にもってきていますが、でも内部は決して欧米式ではありません。
また、昔の日本は、天皇と律令の下に幕府と式目がありました。
表向きは中国から輸入の律令制で、下位制度は幕府式目制であったわけです。

つまり、日本人は権力を行使するにあたり、その表向きの制度は外国から輸入されたものであり、実際は、儒教的な「礼楽」、あるいは、一揆的なものによります。

近代社会では、軍隊を動かすには予算が必要だが、これの決定権を軍は持っていないから
戦争責任は戦費を支出した者、つまり議会にあるわけです。

二・二六事件の北一輝自身は明確な、天皇機関説の信奉者でした。

しかし、北一輝の真意とうらはらの機関説否定は、天皇絶対とすることによって一切合財の責任を天皇に負わせることが出来ますが、その責任に対する権限は「機関としての天皇」に一切与えていなかったわけです。

これも、表向きは、天皇を「現人神」と絶対化して「憲法停止・御親政」と唱えながら、内実は、天皇に「拒否権」はなく、天皇は議会の制限を受けていたわけです。

為政者の要件とは、「方針をきっちり示す」効力、能力であり、古代中国においては為政者の徳となります。

政治家は役人とは根本的に異なり、役人は、与えられた状況下における権限の行使であって、最良の官僚は最悪の政治家となってしまいます。
今の日本には、真の政治家はなく、政治家はすべて役人の操り人形になってしまっています。

これも、表向きは政治家が権力を行使しているかのように見せかけて、内実は官僚が牛耳っているわけで、官僚が議会と司法を簒奪してしまっています。

つまり、欧米の自由と民主主義は機能していないのです。


integrity”の喪失に他なりません。

2018年4月23日月曜日

日本人にとっての“integrity”とは⑭日本における所有権について

次に、日本における所有権についてです。

小室直樹氏は、
儒教の考え方は、政治万能主義であるとしています。
北条泰時の思想は、「日本は天皇の私有財産」であるとし、それに対して
啓典宗教の思想は、人間はじめ被造物はすべて神の私有財産であるとしています。

「『私所有権』客体に対する全包括的、絶対的支配権
 あらゆる支配を含むところの全包括的権利 どのようなこともなしうる」

民法の使用、収益、処分は、キリスト教思想(予定説)からきていると指摘しています。

泰時のいう日本と天皇の関係は「国はみな王土にあらずという事なし」であり、
承久の乱の直前まで官軍に抵抗するなんてとんでもないとしていました。
無条件降伏することが天皇イデオロギーである予定説と考えていたわけです。
しかし、因果律としての善政主義(易姓革命)が出てくるのは、父である義時の泰時に対する反論で、天皇神格主義が否定されるとともに逆賊必敗論も否定されました。

山本七平氏は、「日本型リーダーの条件」のなかで、日本は完全に儒教化したことは一度もなく、
「儒教圏の異端の国」ではあっても「正統の国」ではないが「異教の国」ではないと指摘しています。
「律令体制」=古代儒教に基づく「王土思想」による土地の国有制
日本は土地の私有というより、国有地の不法占拠を暗黙のうちに認めざるを得ない状態であったわけで「土地を占拠した独立自営農民=武士 サムライ」と指摘しています。

小室氏は、山本七平氏が「天皇に刃向うことは当時強烈なタブーであり、武士団の中に強い恐怖」があった 「非倫理的悪行という考え方」心理的抵抗が強烈であったことを重視しています。

「天皇は自由に臣下のものを取ってよろしい 臣下はいかなる理由があっても天皇の略奪を拒否することはできない」

儒教は集団救済の宗教であり、国全体に因果律が貫かれます。
天下の王は有徳の人でなければならなく、有徳とはよい経済政策を行うことです。
これは、欧米の自由放任レッセフェールとは正反対となります。

明恵上人は、「天皇がたとえ無理に命を奪おうとおおせられても日本に生まれ道義の心得ある者はどうしてこれを断ることができましょうか」と泰時に述べました。
これは天皇は暴君であってもよいと言っているわけで、仏教、儒教の論理では考えられなく、近代絶対主義の論理であるわけです。

ホッブス的絶対国家の定義としては「主権者の決断によってはじめて是非善悪がさだまるのであって主権者が前もって存在している真理ないし正義を実現するのではない」(丸山真男)
近代絶対主義の論理は、キリスト教の論理であり、ユダヤ教の論理でもあります。
「是非善悪は神が決める 神が正しいと決めたから正しい」

承久の乱によって古代天皇イデオロギーは死に、天皇予定説は消えたと小室氏は指摘しています。
天皇イデオロギー教義の一つである予定説は、キリスト教の神としての神格をもつことです。
近代絶対君主としての人格をもつことになるわけで、
「神が宇宙において正しいがごとく絶対君主は彼が主権をもつ国家において正しい」(丸山真男)
 天皇はかかる神格を有するがゆえに「前もって存在している」社会の倫理道徳の立場から天皇に従わないことは、日本人としては義(正しきこと)からはずれるとしています。
 天皇神格主義が承久の乱によって否定され、善政主義(儒教にいう湯武放伐論、易姓革命論)に代替えされたわけです。
 儒教においては、天下を天子の私有財産であるとは絶対考えません。

日本などの資本主義未熟国においては、「所有」という考え方はないか、あっても確立されてはいないのであり、曖昧模糊としているのです。

近代における資本主義は私的所有権からはじまります。その特徴は「絶対性」と「抽象性」です。
「所有の絶対性」とは、所有物に対してはどのような行為をもなしうることです。
キリスト教では、神(創造者)の被造物に対する所有権は絶対である。
この、タテの絶対的所有権が、ヨコの絶対的所有権(人間社会においても、所有者の所有物に対する権利は絶対である)に転化したのが資本主義的所有権です。このように、資本主義的所有権は、特徴的にキリスト教的概念であるわけです。

「所有の抽象性」とは、現にその物を支配しているかどうか(占有しているかどうか)と関係なく、所有権が成立することです。
山本氏は、日本には所有の概念はないことを発見しました。
「悔い返し権」は所有権は絶対であることの、まさに正反対です。
親は息子に所領を譲っても、経営能力がなく、親を扶養ぜず、幕府への奉公を無視すればこれを取り消すことができ、幕府も自動的に取り消します。
所有は絶対的でもなければ、由緒(例:権利証)よりも知行(占有)が優先し、抽象的でもないのです。

山本氏によれば、貞永式目は、武士の法律であり、土地への私的所有権を認めその権利を保証しています。
東アジアの大陸では別の道をたどり、韓国は極端な中央集権制でした。

「二十箇年・年紀制」 「理非を論ぜず改替あたわず」
武士は、あらゆる方法で自らを守らねばならなかったのです。
農民が逃げないように立派に経営し同時に租税を完全に納付した者のみを、武士の政府である幕府が保証しました。
相続法は、「能力なきものは相続権なし」「自由相続制」
血縁順位に関係なく、相続人を指名しえる権利を保証しています。
中国、韓国は、原則として男子への均分相続制であり、通常は長子が「家長権」を有します。

日本の文化の特徴は「下剋上文化」であると山本氏は指摘しています。
「権力代行制」、「隠居制」
貞永式目は生活百科でもあったわけで、日本人の常識は式目と論語でつくりあげられ明治五年まで続き、今でも式目的であります。

近代における資本主義の所有権の考え方は、一度所有したものは永久にその人間の所有であるという所有権が確立するとしていますが、
式目七条では、
二十箇年・年紀制 で「悔い返し」ができます。
八条では、所有権放棄 時効の概念がこのときすでに規定されました。
たてまえでは公地公民制で、私有しているものの、最終的には国に帰属します。
式目で初めて土地の所有権が法的に認められるのは、由緒と知行によるわけですが、
あくまでも当知行者すなわち現占有者を優先し、
名目的にどうであれ現に占有し、経営して納税している人間の所有となり、
由緒はとりあげない、これが、幕府のほぼ一貫した所有権の規定です。
 
日本では今でも当知行という考え方が強く、現にそれを持って経営している人間の所有であるかのごとき意識を当事者も第三者も持っています。
経営せざる者は所有していると言ってはならないわけです。

相続における血縁順位は一切ありません。
「相続期待権」一定範囲で相続しえると期待しうる権利と指摘し、
 父親が「譲り状」を交付すると、幕府は自動的に「安堵状」を交付します。
 未亡人が相続して養子をもらって相続させることができるようにもなりました。
 相続人は誰でもいい「今立つるところの嫡子」となるわけです。
「未処分の跡の事」とは、所領の経営とは幕府に対する奉公、過去の実績、年功の有無、能力の有無によってのケースバイケースで、血縁順位は出てきません。
相続順位は原則的に能力主義と実績主義によるわけです。

農民が逃散しても幕府は救済しません。
「悔い還し」二十箇年・年紀制とは、現に経営していないものは所有権がなく、経営していなければ所有権を失い、下剋上となります。
能力なければ「悔い還し」して別の人間へ所有権は移ります。
あくまで能力主義 実力が虚位を排除するのが当然なわけです。
下剋上は武士にとって悪いとは思わなく、合法的下剋上であり、
能力を正当に評価されないと不満を持つわけです。
儒教的血縁順位「長幼序なり」では、法そのものが下剋上を認めません。  
天皇家だけは万世一系という、安全弁ないしは象徴であったわけです。
血筋による世襲を認める場合は、そのものを象徴として実権をもたせません。
男女同権の相続権は、平等に期待権があり、「入り婿制」は、世界的に例外です。
能力を正しく評価することが、法的正義であり、法に違反した場合、幕府は補償しません。
所有して機能させている能力が現にあるということを示さない限り権利を認めないわけです。
日本人のおカネに対する感覚は昔から相当に敏感であったと山本氏は指摘しています。
「利息をとることは日本人にとって少しも『罪』ではなかった
    イスラム法、教会法 『利息禁止法』
  武士 公地公民制を崩壊させて土地の私的な所有権を認めさせた階級
  『一所懸命』で命懸けで手に入れかつ、その所有権を守り抜いた土地をおカネによっていとも簡単に召し上げられたりする。いかに多くの御家人が借金のために所領を失ったか」

日本の「所有権」は、近代資本主義の特徴である「絶対性」と「抽象性」とは相反していることを「悔い返し権」を例に小室、山本両氏は説明しています。

山本氏は、日本は「下剋上文化」であり、何事にも能力主義を優先すると指摘しています。
これは、承久の乱以降、泰時が貞永式目を制定することによって、より明確にされます。

承久の乱以前は、天皇イデオロギーが支配していたと小室氏は指摘しています。
天皇イデオロギーとは、ホッブス的絶対国家の定義としての「主権者の決断によってはじめて是非善悪がさだまるのであって主権者が前もって存在している真理ないし正義を実現するのではない」(丸山真男)であり、
近代絶対主義の論理は、キリスト教の論理であり、ユダヤ教の論理でもあり、
「是非善悪は天皇が決める 天皇が正しいと決めたから正しい」となるわけです。

天皇神格主義が承久の乱によって否定されることにより、善政主義(儒教にいう湯武放伐論、易姓革命論)に代替えされ、天下を天皇の私有財産であるとは考えられなくなります。

欧米のキリスト教諸国においての所有権は、タテの絶対的所有権が、ヨコの絶対的所有権に水平展開したのが資本主義的所有権で、これは、“integrity”によるものです。

日本での所有権の概念は、欧米の制度を継受しているわけですが、実際の判例は、近代資本主義の「絶対性」と「抽象性」に相反して、当知行という考え方が強く、現にそれを持って経営している人間の所有であるかのごとき意識を当事者も第三者も持っています。

これは、日本は「下剋上文化」であり、何事にも能力主義を優先することからきているとしています。

能力主義は、働くことを絶対化すことからきているとも考えられます。
労働を絶対化するということは、宗教的に働くということであり、それは、正直、質素、倹約という徳目を心掛けて働くということであって、この徳目は、キリスト教も儒教も同じです。

能力主義の目的は、宗教的に働くことによって救済されることであり、個人的に利益を得ることは二の次でなくてはならないわけです。

能力主義が行き過ぎると拝金主義に陥り、おカネを稼ぐことだけが目的となります。
おカネは宗教的に救済されるための手段でなくてはならず、目的と手段の転倒となってしまいます。

また、能力主義は、自分の評価が何を基準としているのかが問題となります。
企業において、トップの成績のセールスマンが、「人徳」がなければリーダーになれないのが良い例で、売上高だけが評価の基準にはなり得ないわけです。
マックス・ヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」における宗教的徳目は、儒教の徳目と同じで、儒教の徳目が日本人の能力主義の評価基準になっていると考えられます。


資本主義的所有権と相反した感覚の日本人にとって、儒教の徳目が“integrity”を補完しているようにも考えられます。