2012年10月30日火曜日

ものづくりの現場から⑮


この「ものづくりの現場から」を書き始めた当初、日本のメーカーが中国、韓国のメーカーと比較して圧倒的にスピード感で後れをとっている話をしました。
韓国ではプロジェクトのリーダーに全責任を負わせて失敗したらクビにすることを述べましたが、この手法はまず日本人にはなじまないと思っています。

日本人は会議が大好きであたかも誰も責任を負わないように話し合っているようだとのべましたが、実は昔から日本人は責任をあいまいにするのが流儀です。
しかし高度経済成長の時代は活力にあふれ今の韓国中国のようにスピード感をもってやってきたのです。

日本の終身雇用制度は過去のものとなってしまいましたが、会社は欧米のように株主のものではなく、社員のものという考え方が今でも一般的だと思います。
つまり、会社というものは家族あるいは仲間なのだという考え方です。
よって会社もムラを形成します。

会社における会議においても進行役のリーダーはプロジェクトの上に立つものではなく、他の人たちと同じ目線になり、車座になって「ご同輩いかがなものか」といって進めていくのは、今も昔もかわりません。
そして秘密なり悩みなりを共有するのと同じように責任も皆で共有するのです。

それではなぜスピード感を失ってしまったのでしょう。
これもやはり、目的なり共有できる価値観なりを見失っているのだと思います。

ムラのオキテの論理が優先すると既得権益の保護へと向かいます。
これが新しいものへのチャレンジ精神を失わせ、現状維持できればよいという思考停止状態に陥ります。

右肩上がりの成長の時代はもう終わったのだと平然とのたまう人がいますが、欧米に追い付け追い越せという目標なり目的があったからこそ成長があったのです。

今目的とすべきは発展途上国がマーケットへと成長することに貢献することです。
これがひいては自分たちの利益につながるばかりではなく、発展途上国の貧困を克服し世界平和への道を開き、信頼と尊敬に値する日本人の誇りを取り戻せるのだと思います。

日本人はある時期を境として、まるで別人になってしまったのかと思えるほど変貌をとげる歴史を繰り返してきました。

下剋上を経て戦国時代を勝ち抜き日本を統一した、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三豪傑しかり、明治維新の後バルチック艦隊を撃破した東郷平八郎、旅順陥落の乃木希助典しかり、先の大戦後、高度経済成長を支えた多くの企業戦士たちしかりです。

これらの時代の人たちは、その直前までの閉塞状態を打破し、夢と希望にあふれ活力をみなぎらせていたのです。それは新たに皆で共有できるようになった価値観により、目的を見失うことなく邁進できたからです。

私は過渡期という言葉を使って、この英傑たちを輩出する直前の出口を見失った閉塞状態を、この国が病んでいる時期と表現しました。
今まさに過渡期なのだと思います。

既得権益を守ることばかりに固執し、内側にしか視線がいっていません。
その視線を外側に向け、そして視野を世界へ、とりわけ貧困や病魔に苦しむ発展途上国の人たちへ広げていくべきときだと思います。

私たちは固定観念、既成概念にとらわれず、忘れていたのではないかと思われる共有できる価値観を取り戻すべきだと思います。
そのキーワードは「自然」だと思います。

ものづくりの現場のはしくれである私の夢のひとつは、自然エネルギーの技術を発展途上国の人たちにもつかってもらえればと思っています。

日本人皆が誇りを取り戻し、子供たちが夢と希望を持つことのできる環境を整える責任を皆で一緒に持ててこそ、子供たちを幸せにする義務をはたせるのだと思います。

これはそのまま、今の私たち身近のコミュニティーにも、同様に言えることなのではないのでしょうか。

今の日本国憲法第4条で天皇の国事行為というものが規定されています。
天皇は、この憲法に定める国事に関する行為のみを行い、国政に関する権能を有しない。
とあります。

国事行為とは、内閣総理大臣、最高裁判所長官の任命や国会の召集、衆議院解散等のことです。
これらを内閣の「助言」と「承認」により、天皇の認証式の手続きを踏むとされています。
これはいったいどういう意味をもつのでしょうか。

日本の歴史においては、天皇の権威を利用した輔弼の権限をもった将軍、関白や先の大戦では軍部が事実上の権利を行使し、民衆を統治してきたことは以前述べました。
輔弼の権限とは天皇に対し「助言」をし、天皇の「承認」に対し責任をもつこととされています。

今の憲法の天皇による国事行為もこの輔弼の権限を踏襲しているようです。
議院内閣制により手続き上国民に選ばれたはずの総理大臣を天皇の認証式の手続きをもう一度踏まなければならないとされています。

この認証式には学説上いろいろ異論があります。
天皇に不測の事態が発生した場合は委任できると規定されてはいますが、天皇ご本人の意思により「承認」を「拒否」された場合の規定は明記されていません。

つまり、内閣が「助言」したことは天皇が「承認」することは当たり前ということが前提となっています。
これは輔弼の権限を利用した装置であり、これにより先の大戦では軍部が暴走した要因であることは歴史が証明するところです。

学説上、認証式は形式的、儀礼的なものであり、民主主義の観点からは無意味なのものと説明されてもいます。
本当に無意味なものなのでしょうか。

今の憲法では天皇は日本国民統合の象徴とされ、戦後のアメリカGHQの草案をもとに、このようなあいまいな表現を盛り込まざるを得なかったことは以前述べました。
天皇による国事行為はこのあいまいな象徴天皇制の具体的事例なのだと思います。

日本の歴史において繰り返されてきたことで、輔弼の権限を有する者が事実上天皇をさしおいて民衆を支配してきたわけですが、この輔弼の権限を有するものに不安定要素が大きくなると日本という国は病気を発症するように思えます。

現在においては、輔弼の権限は内閣にあるようにみえますが本当にそうなのでしょうか。

内閣総理大臣の認証式は、たまにテレビでも放映されるので、ご存じの方も多いと思いますが、認証を受ける際、天皇陛下におしりを向けてはいけないので蟹歩きのような一見滑稽な場面を目にされたことがあると思います。

これは言ってみればりっぱな作法であり、この作法を官僚が一国の内閣総理大臣に指導するわけです。
官僚がときの政府に対してさえ優位性を誇示する機会なのでしょうか。
私はこの作法の指導により、官僚の官僚たる「お上」としての存在意義の根源がここにあると思っています。

日本という国が民主主義を標榜している以上、内閣に輔弼の権限が存在すること自体矛盾することなり、国の根幹である憲法そのものがダブルスタンダードであることになってしまいます。
仮に輔弼の権限がまだ存在するとすれば、それはどうも内閣ではなく、天皇と内閣の間にいる官僚にあるようです。

日本の統治機構も欧米の民主主義に倣って、司法、行政、立法の三権分立を取り入れています。
どうもこの三権分立の上に官僚が居座っているようです。

先日、前福島県知事の佐藤栄佐久氏の収賄容疑に対して最高裁判所は上告棄却の判決をくだしました。
その内容は収賄の事実は認定できないものの有罪にするという奇妙奇天烈なものとなっています。

佐藤栄佐久前福島県知事は反原発で、霞が関の官僚と東京電力を敵にまわしたためスケープゴートにされたのであろうと取りざたされています。
スケープゴート云々はさておき、司法の場における「疑わしきは罰せず」という大原則を逸脱しているのは確かなようです。

佐藤栄佐久前福島県知事が逮捕されたのは2006年です。
去年の原発事故以前です。
福島原発の隠蔽体質を告発して訴え続けた挙句、身の覚えのない容疑で逮捕されたのだそうです。

原発事故の危険性を予知し、警鐘を発していた人が、原発事故後の今になっても冤罪の可能性があるのです。
担当の裁判官は皆官僚出身者で当時の原発推進派の自民党の首相から任命されている人ばかりのようです。

うがった見方をしてはいけませんが、素朴に疑問に思わざるをえません。

天皇皇后両陛下が被災地を訪れ、被災された人たちを慰めてお歩きになる姿を霞が関の官僚たちはどういう気持ちでみているのでしょうか。

福島原発事故が人災であったことは、もはや論を俟たないと思います。
事故以前よりその危険性に対して警鐘を鳴らしていた佐藤栄佐久前福島県知事の名誉を回復するどころか、追い打ちをかけるかのごとき判決をくだすその神経たるや異常に思えてきます。

消極的核の傘による抑止力論で、原発を推進することにより、いつでも核兵器を持つことができるということを歴代首相の申し送り事項にしているであろう(キッシンジャーの指摘)ことは以前述べましたが、今日本政府はこの原発技術の輸出を国策化しようとしています。

ヴェトナムに原発を輸出するのだそうです。
今度はヴェトナムにいつでも核兵器を持てるのだぞと言わせて、中国を牽制できるとでも思っているのでしょうか。

脱原発どころか、世界へ核の拡散を画策しようとしていると言っても過言ではないと思います。
原子力エネルギーから自然エネルギーへの転換は日本国民の総意となりつつあるはずです。

それと全く逆行するかの如く原発輸出を国策化しようとする官僚の行動様式は悪魔のささやきのようなもので、政権が自民党から民主党、民主党からどこそこへ移ろうと官僚の悪魔のささやきに抵抗できそうな政党はどうも見当たりません。

日本の国策として輸出すべきは原発ではなくて、自然エネルギーの技術であるべきです。

尖閣や竹島等で領土問題がクローズアップされています。
日本の核武装論に弾みをつけさせかねないことで、日本人の付和雷同しやすい気質として、ある時期を境に180度価値観を転換させかねない大問題に発展する可能性をはらんでいます。

悪魔のささやきにより内閣が核武装を「助言」したら、天皇は「承認」されるのでしょうか「拒否」なさるのでしょうか。

今の日本国憲法において民主主義を貫くのであれば、天皇の国事行為は学者さんたちが言うとおり無意味なのでしょうから整合性を確保するためには、この条文は削除されるべきなのでしょう。

しかしもしそうするのだとしても、日本という国の伝統、文化の象徴でもある天皇の権威は何らかのかたちで担保されなければならないと思います。

そのためには、天皇陛下の名において被災地である東北へ遷都されるのが一番だと思います。

日本という国は世界平和と核廃絶を国是とすべしとおっしゃっていたのは、今は亡き後藤田正晴元官房長官です。

後藤田元官房長官は警察官僚のトップから内閣の要として、政府の中枢に長年いらっしゃったかたです。この人の言葉はたいへん重いと私は思っています。
霞が関において魑魅魍魎が跋扈しはじめ、この国の将来をそのころから危ぶまれていたのだろうと思います。

世界平和と核廃絶を国是とし、日本国憲法を見直すべき時期なのではないでしょうか。
天皇が世界平和と核廃絶を祈念する日本国民総意の象徴として、被災地である東北に遷都なされば、この一大事業そのものが世界中で未来永劫語り継がれ、天皇の権威は不滅のものになると思います。

遷都されるにあたっては、被災地で亡くなられた方たちはもちろんのこと、先の大戦で枢軸国だけではなく、敵方であった連合国の戦死者の方たちの慰霊鎮魂をも司れるのは天皇陛下をおいてほかにはいらっしゃらないと思います。

変革期というものは、数多の血が流されてきた時期でもあります。
ハードランディングよりもソフトランディングを希望するのは誰でも同じです。

日本の歴史上、勝海舟と西郷隆盛による江戸城無血開城は奇跡の一つのように言われていますが、実際は戊辰戦争という内戦の一コマであり、多くの流血がありました。
この後も旧武士階級の不満は収まるどころか膨れ上がってゆき、西南の役において西郷隆盛自らが旧武士階級の不平不満を一身に浴びて壮絶なる死をもって納めたことが歴史の教えるところです。

戊辰戦争において、明治新政府から朝敵とされた会津藩は今のフクシマと全く同じ立場に見えてきます。
明治維新という革命期において会津藩は犠牲となり、見捨てられたのです。
白虎隊の悲劇的最期が今でもそれを物語っています。

靖国神社では、これらの内戦で朝敵とされた戦死者は、西郷隆盛をはじめ白虎隊の英霊も祀られていません。
天皇陛下にはこれらの人たちも慰霊鎮魂していただきたく思います。

フクシマで原発事故が発生したのは、歴史のいたずらとしたらあまりにもできすぎているように思います。

いまの官僚たちも大久保利通が作り上げた官僚制のままです。
今回の大震災は、会津藩を筆頭とする東北諸藩の怨霊により引き起こされたのではないかと思えるほどです。
まるで、この次は東京都心直撃だぞと言わんばかりのように思えてきます。

霞が関の官僚と東京電力を真っ向敵に回し、反原発を訴え今は犯罪者のレッテルを貼られている佐藤栄佐久前福島県知事の血には、白虎隊の歴史的DNAが流れていらっしゃるのではないかと思います。

マスコミの人たちが国家権力に屈しないペンという力をもっているならば、佐藤栄佐久前フクシマ県知事の冤罪の可能性を徹底的に糾明すべきと思います。

今日本は過渡期という病気を発症している時期だと思います。
これは国民が現政権に対して、本当に自分たちを守ってくれるつもりがあるのかどうか不信感をつのらせている症状です。

過渡期を脱するためには、それなりの変革が必要です。
この変革のためには、それ相応の犠牲を出さねばならないのかもしれません。
明治維新、先の大戦を経ての変革いずれにしても多大なる犠牲のもとに変革はとげられました。

平和ボケしている今日どのような犠牲を出せば変革はできるのでしょうか。
犠牲はもうすでに出ているではないですか。
東北大震災による原発事故は単なる想定外の天災によるものではなく、人災によるものです。
放射線による内部被爆は想定外などと言っていられる状況ではなくなっているはずです。

この教訓を糧にせずして変革できないようでは、この国は本当に核武装し警察国家から軍事国家への道をまっしぐらとなってしまいます。
自由などという言葉は本当に無意味になってしまいます。












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