品川区の小中一貫高が画期的な試みであることは言うまでもありません。
しかし、箱もの行政とはよく言われることですが、ハード面に対してまだソフト面が追い付いていないようです。
新しい試みゆえ多分に実験的な面があるのは当然で、適宜修正してゆくことが肝心だと思います。
現場の先生がたも戸惑いながらご苦労なさっていることはよく耳にします。
この品川区の試みが全国に向けて誇れるものになれば、自然とコミュニティーは充実してゆくことでしょう。
伊藤学園での今年二人目の自殺者はマスコミにも取り上げられているのでご存じな方が多いと思います。
直後の緊急保護者会において気になった点が一つあります。
スクールカウンセラーという制度がどうもあるようです。
カウンセリングという手法は欧米のものをお手本にしているのだと思いますが、あまりなじまないのではと思います。
欧米のコミュニティーはキリスト教の教会がハブ(中核)となっています。
欧米の人たちは自分が過ちを犯し、自責の念にかられると教会へゆき懺悔します。
つまり、自我、自己の確立を怠ったことを告白し、神に赦しを乞い、神の罰をうけることから解放されるのです。
これを一般化したものがカウンセリングだと思います。
カウンセラーは悩みを持った人の話を聞きながら、神は赦してくれると説くわけです。
日本のカウンセラーは往々にして単なる相談員にすぎません。
悩みを相談するひとにとっては、自分が赦されるかあるいはその悩みから解放される根拠を相談員から見出すことはまれだと思います。
欧米は神に赦しを乞えば罰を受けることがありません。なにせキリストは何でも赦してくれるのですから。
日本人にとっての罰は村八分です。
この罰は死よりも恐ろしい罰だったのです。
先の大戦の最前線での兵士たちは、生きて帰って「天皇のために死ねなかった。」という生き恥をさらし村八分になるよりも、死を選んだのです。
村(ムラ)の長(オサ)はムラの掟(オキテ)により、罰をくだしたわけですが、このオサとは欧米のリーダーとはだいぶ異質です。
日本人の気質としてよくいわれることですが、日本人のリーダーは仲間の上に立つのではなく、仲間と同等の立場が前提です。
ムラの会議は車座になって、オサにより「ご同輩いかがのものか」と言って進められます。
ムラとは同等、同質の集団です。
一人の悩みはみんなの悩みとして共有されるのです。
「悩み」とは「秘密」と置き換えてもよいと思います。
オキテとはそのムラにのみ通用する決め事、つまりムラの既得権益保護がその目的になるため、えてして一般的な常識(法律といってよいと思います。)とかけ離れたものになる恐れがあります。
これが日本人がダブルスタンダードになりやすい所以と言われています。
個人の相談員が悩みをもった人を救うことはなかなか難しいことのようです。
では悩みを持った人はどこに救いを求めればよいのでしょうか。
やはり、日常身近に接するひとが話を聞いてあげられる環境が整っているかどうかにつきると思います。
それこそ仲間が車座になって語り合う場が必要です。
決して上から目線ではなく、一緒になって悩みを共有してあげることが大事だと思います。
そして一番難しいケースが自分はなにも間違ってはいないのに周りが認めてくれないと悩んでいる場合です。
今はこのケースのほうが多いのではないでしょうか。
このケースは本人の価値観が周りに受け入れてもらえないと悩んでいるわけです。
本人が生まれ育ってきた環境の掟なり規範と周りがそぐわないと思ってしまっているのでしょうか。
前にも述べましたが、日本人の宗教観というものは案外いい加減なものではあるけれど、他者との違いを尊重できる寛大さがあります。
悩みを抱えている子でも親でも何かしらサインを発信しているはずです。
周りの子共たちも親たちもそれを察知してあげたら、気軽に声をかけてあげなければいけません。そのためにはコミュニティとしての親どうし、子どうし、親子どうしの連携が大事になってきます。
そして、本人の本音を聞いてあげ、自分の考え方と違っていたとしても「そういう考え方もあっていいんじゃないの」と受け入れてあげることが大事だと思います。
伊藤学園で二人目の自殺者がでたわけですが、一人目と二人目の間に大津のいじめによる自殺がマスコミに取り上げられています。
学校と教育委員会も一つのムラを形成しているようです。
大津では最初いじめを否定していたわけですが、次々と事実が明るみに出ていじめを認めざるをえなくなりました。
教育委員会の委員長はさしずめムラのオサというところでしょうか。
隠蔽体質というのはムラのオキテ、つまり自分たちの既得権益保護が優先されているということでしょう。
伊藤学園の二人目の自殺者は大津の教訓からでしょうか、いち早く自殺の原因がいじめであることを認めています。
一人目の自殺者はご遺族の意向もあり事故として処理されたので、いじめはなかったことになっていましたが、やはりいじめがあったのではないかという声が上がりだしているようです。
学校内にあるスクールカウンセラーの相談員が学校というムラのオキテを優先してしまっていたとしたら何をかいわんやということになってしまいます。
前にも述べましたが、大人たちは子供たちを幸せにする義務があり、そのためには子供たちが夢と希望を持てる環境を整えることに責任をもたなければいけないわけです。
子供たちの危険はどうも身近に潜んでいるようです。
子供たちが危険を察知する能力を養わなければならない所以です。
そのためにはもっと外に目を向かせ視野を広げてあげなければなりません。
大人は子供の「素朴な疑問」に耳を傾ける努力を怠ってはいけません。
子は親の鏡とはよくいったもので、大人は固定観念、既成概念にとらわれず、いっしょに子供と考えなければいけません。
上から目線ではなく、同じ視線にたって話をするのです。
私は子供たちを守る対策の一つとして「目安箱」を設置するのはよいと思っています。
しかし、それは学校に帰属するものではあまり意味がありません。
インターネットのソーシャルネットワーキングサービス(SNS)は最近とても充実してきて私もFacebook、Twitter等を利用しています。
このようなものを目安箱として、学校ではなくコミュニティーとして立ち上げたらよいと思います。
それも複数の学校の生徒と親たちが連携できるものでなければいけませんし、皆が自由に閲覧できることが肝心です。
あまりよい例ではありませんが、政治家、官僚の汚職や大企業の不正は後をたちませんが、これらはムラのオキテにより、既得権益を保護するために法律違反を厭わず行われています。
たいてい個人の内部告発により発覚します。
告発者は一般的には正しいことをしたのに村八分にあい追放されるのです。
Facebookは実名で投稿するのが基本ですが、コミュニティーとしてのSNSは匿名での投稿や無記名アンケートの方式を取り入れたほうがよいでしょう。
内部告発というものは大変な勇気が必要です。オキテに背けば村八分にあってしまうわけですから。
しかしコミュニティーが一丸となってやれば心強く、不正をただせるはずです。
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