2012年10月2日火曜日

ものづくりの現場から⑥

日本人がアイデンティティーを喪失してしまって久しいとよくいわれていますが本当にそうなのでしょうか?

私は子供たちに週末バスケットボールを指導しています。指導というとエラそうですが、ボランティアというより自分の趣味でやっています。ようするに一緒に遊んでいます。

遊びの延長でやっているようなものなので、強制はありません。来たい時に来きて帰りたくなったらいつでも帰します。そのかわり悪ふざけの度が過ぎたり、誰かに迷惑をかけるようなことをしたらこっぴどく叱りつけます。

子供は大人に叱ってほしいのです。子供は大人が自分を本気でしかってくれているかどうか本能的に悟ります。
大人は子供を叱る根拠を見失ってしまっているようです。これがアイデンティティーの喪失なのかもしれません。
私たちが子供のころ叱られるパターンは主に二つありました。
一つ目は「悪いことしたらおまわりさんにつかまるよ。」です。
今では警察官の不祥事が後を絶たず「おまわりさんだって悪いことしてるじゃん」と言われてしまう始末です。
これは警察官に限らず官僚機構の権威の失墜を意味します。
主権在民というのもどうやら疑わしく、明治以来官僚統制国家から抜け出せずにいます。
官僚にぶらさがった既得権益集団は手を変え品を変え肥大化してしまいました。
二つ目は「悪いことしたらバチがあたるよ。」です。
昔は近所の氏神様なりお稲荷さんなりご先祖様なりにバチがあたらないようにしていたものですが、どうやら今はバチをあててくれる神様を見失っているようです。
戦前は天皇が神様だったわけですが、それが間違いであったことは論を俟たないと思います。
私は自分の宗教はなにか聞かれたときに戸惑います。
お墓はお寺にありますし、家では仏壇もあり仏教徒なのかと言われればそうなのかもしれないし、
正月には神社仏閣を参拝し、近所のお祭りではチビたちが悪さしてないかのぞきにゆき、12月24日だけはクリスチャンになってしまうごくごく一般的な日本人だと思っています。
欧米にかぎらずキリスト教のひとはキリストがイスラム教の人はアラーがとみな心のよりどころ、もっと言えばその神によって導かれた規範があります。
日本人は規範とすべき心のよりどころの神様のようなもの(倫理観をささえるものといったらよいでしょうか?)を見失っているようです。
自信をもって子供を叱れないのです。それを子供たちに身透かされてしまっているのです。
日本人はこの神様のようなものを失くしてしまったのではなく、ただ忘れてしまっているだけと思っています。
司馬遼太郎のことばで、「人類といえども自然の一部である。」これは小学校の教科書にも載っているようです。
「自然」という言葉と英語の"NATURE"という言葉とはまったく別だと私は常々思っています。
"NATURE"とはキリスト教では唯一絶対の神が創造し、人類が神の代理として支配するという思想だったわけです。(今ではダーウィンの進化論等でだいぶ修正がくわえられているようですが。
この思想のもとに自然科学は欧米において発達してきました。
人類が"NATURE"をコントロールできると思って、いきついた先が核のボタンです。
だれかが核のボタンを押してしまえばこの地球は何百回でも破滅します。
核の管理の徹底化で防げるという人は、この世に裁判所も刑務所もいらないと言っているのと同じです。
核兵器がテロリストのもとにいつ渡るやもしれない今、人類が"NATURE"を支配しえないことは自明の理です。
それに対して日本人の宗教観は根底に自然崇拝がありました。
自然(NATURE)は支配するものと考えるのに対して、自然を神と考えるのでは180度違います。
 
「山川草木悉皆成仏」という思想は、いってみれば自然のなかのもの個々すべてに魂が宿っているという意味です。

われわれものづくりの現場でもこの思想は生きていて、職人というものは鉄の塊といえどもそのなかに魂をこめて作り、技を磨いていきます。「匠の技」とはこういうものだと思います。
1μとは1/1000mmですが、まさにその単位で鉄を削り、磨きます。本当に神がかり的でいつも感心させられます。
今では腕の良い職人が本当に少なくなっています。これはそのまま開発力の衰退を意味します。
開発時の試作においては現場の職人と技術者の信頼関係による連携の良さが成否を決めるといっても過言ではありません。

人間は必ずミスをします。ひとりがミスをしてもそれを回りの人たちがフォローしていくことにより開発は進みます。ひとりではなにもできません。チームワークが肝心です。
 
司馬遼太郎のことばの「人類といえども自然の一部である。」はこういったことにもつながると思うのですが、もう一つ大事な一面は「他者との違いを認め尊重する」ということです。
世界各地で戦争が後を絶ちません。その要因の一つに宗教の違いがあります。
キリスト教もイスラム教もユダヤ教も自分たちの神が唯一絶対であり他者を認めようとしないことに最大の問題があります。
私をはじめ日本人の宗教観はいい加減といえばいい加減なのですが、逆にいうと他者を受け入れることに寛大であることを意味します。自分たちと違う価値観を認め尊重できるということです。
私は世界各地の宗教戦争の仲裁を日本人はもっと積極的にかってでるべきだと思っています。
経済のグローバル化が進み、自分たちは儲かっていればいいんだという時代はもう終わりです。
日本は経済は一流、政治は二流と言われてきましたが、今や経済も二流三流に落ちようとしています。
経済力を維持したいのであれば、なおのこと世界の紛争解決に向けて政治力を発揮すべきです。
経済力は世界平和という目的のための手段でなければいけません。

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