2012年10月17日水曜日

ものづくりの現場から⑫

差別、いじめの問題は、互いに本音で語り合う場、話を聞いてもらえる場を見失っていることにあると思います。
特に都会においてはコミュニティーの崩壊はよく言われていることです。

私が住んでいる品川区西大井は、ちょっと路地に入れば下町の風情を残すところですが、都市開発も進み、新住民と旧住民との間でさえも壁が見られます。

マンション住まいのひとは表札も出さず、プライバシーを尊重するあまり隣の人が何をしているのかさえわからなかったりします。

コミュニティーとは、同じ地域に住む人たちで形成された共同社会とでもいう意味でしょうか。
コミュニティーでは、公共の施設がハブ(中核)となります。具体的には小中学校、児童センター、公民館等です。

私の息子(中学2年)が通う伊藤学園で今年二度目となる生徒の自殺がありました。二人とも中学1年生です。
私はここで犯人捜しをする気はありません。ただ同じ学校の同じ学年でこの短期間に二人が自殺したことに素朴な疑問を持っているのです。

品川区は他県に先がけて小中一貫高という制度を取り入れています。伊藤学園はそのモデル高です。

これは小学校と中学校を一緒にして、6,3制ではなく、小学年団、中学年団、高学年団と呼ぶのだそうですが4,3,2制にしています。
なぜ9制ではないのでしょう。

全国の公立小中学校は築30年以上のものが多く、耐震基準に合わせるため建て替え、改修ラッシュになっています。

品川区の小中学校は土地が狭いので、延床面積を増やすために縦に長くしています。
つまり、小学校と中学校を一緒にして地上4階建てであった校舎を地下3階地上6階にして、延床面積を確保しているわけです。

品川区はいち早くこの方式を取り入れ、土地を有効利用した校舎を建てています。
伊藤学園はそのモデル高としてりっぱな校舎なわけです。

私は毎年息子の運動会を見に行きますが、いつも不可解に思えることがあります。
延床面積は確保できているとはいえ、グラウンドが狭いからなのでしょうか、
昼食を子供たちと親が一緒にとらせてもらえません。

伊藤学園から歩いて10分ほどのところに大井第一小学校と山中小学校があります。
この両校は中学は伊藤学園に進学する子が多いのですが、今でも運動会は親子で昼食をとっています。

やはり小中一貫高のモデル校である八潮学園は中学生は別ですが小学生は親子一緒にお弁当を広げられるそうです。

私たちが子供のころの思い出といえば、運動会でゴザでも敷きながら親子一緒にお弁当を食べることでした。
誰それの家の弁当のおかずはなんだったとか、あいつんちのかぁちゃんは化粧が濃かったなどとワイワイやって、思い出を記憶に刻んできたわけです。

なぜこんなに大事な時間が無くなっているのでしょう。

私は週末子供たちとバスケットボールをしているので、息子に学校に行ったら一つ上の先輩や下の後輩に伝言を頼むことがあるのですが、あまり伝わったためしがありません。
息子になんで伝えてくれないんだと文句を言うと、伝えるタイミングがないのだそうです。

他校の父兄に聞いてみたところ、伊藤学園は授業と授業の間の休み時間が他校と比べて5分長いのだそうです。
その分お昼の休み時間は短くなり、40分遊べるところ20分しか遊べないのです。
したがってわざわざ外のグラウンドに出て遊ぶ時間が少ないのです。

授業間の休み時間は休憩と次の授業の準備のため階段を上り下りしている暇はなく、お昼休みは外のグラウンドに出て遊ぶ子が比較的少ないのですから、学年の違う者どうしが顔を合わせる機会が少ないのも当然だったようです。

運動会のお弁当の件にしろ、昼休みの時間が短くそとのグラウンドで遊ぶことが少なくなっていることにしろ、なにやら大事なコミュニケーションの場を失っているように見えてきます。

毎年のキャンプや部活動等で、違う学年どうしの縦の関係の充実を図ってくださっているようですが、どうも一面的で全面的ではないように見えてきます。

普段日常的にまた特定の関係だけではなく、広くコミュニケーションできる場が分断されてはいないでしょうか。

コミュニティーにおいて、公共施設である小中学校はハブとなっているわけですが、そのハブであるはずのものが、コミュニケーションを分断しているとしたらことは重大です。

私たちが子供のころは、友達の顔を見たらその子の親の顔がすぐ目に浮かんだものです。
あいつの母ちゃんは優しいけど父ちゃんはすぐ怒鳴り込んでくるからやばいぜってなもんだったわけです。

私は子供たちとバスケットをやっていることもあって、伊藤学園に限らず周辺のいろいろな小中学校の生徒とその親御さんたちと接する機会が比較的多くあります。

バスケットをやっている仲間は学校、学年に関わらず、その子を見れば親の顔が目に浮かぶようになったのですが、運動会を見に伊藤学園に行っても、その子を見て親の顔が目に浮かぶ子は少ないように思えます。

どうも親どうしのコミュニケーションも希薄になっているようです。

コミュニティーの本質は大人たちが子供たちを協同して守ることにあります。
そのためには普段日常的に親どうしが意思の疎通を図れる環境を整えなくてはいけません。

コミュニティーのハブとなるのは、公共施設に限ったことではありません。
子供たちは神社のお祭りが大好きです。

神社のお祭りでは学校では教えてくれないことを子供たちは学んでゆきます。
お祭りは子供たちにとっては非日常的な空間になります。
それも一種猥雑な空間です。

テキヤのおじさんとの軽妙なやりとりや、こわそうなお兄ちゃんとも友達になれないことはないし、じいちゃんばあちゃんの昔話を聞かされて社会性を育んでいきます。

年寄は悪いことをしたらバチがあたることをよく教えてくれるはずです。
その混沌とした猥雑な空間で子供たちは高揚し、えてして喧嘩をし、殴られれば痛いことを覚えてゆくのです。

日本の神社仏閣は木々におおわれた自然のなかに佇んでいます。
品川という都会にしても同じです。緑を求めて散歩すれば、神社仏閣にたどり着くものです。
子供たちは生きとし生けるものとのふれあいのなかで危険を察知する能力を養っていくのです。

コンクリートでできたりっぱな校舎は、どうも無味乾燥なものに見えてきます。
私たちが子供のころの学校は緑が豊富で池やおほらみたいなものもあり、謎めいた部分も合わせ持っていたものです。

子供というものは未知なるものに対して好奇心に満ち溢れ、冒険心を奮いおこし、危険を察知できるようになっていくのだと思います。

この神社のお祭りでも運動会と同じに不思議な光景を目にします。
PTAのお母さんたちが、パトロール中というタスキをかけて本当にパトロールしているのです。
これは運動会でも行われています。

パトロールとは警察行為そのものなわけですが、いつからお母さんたちはおまわりさんになってしまったのでしょうか。
警察の権力をかさに上から目線で子供たちを取り締まっている気になっているように見えます。

パトロールするということは、お祭りを危険な場所ととらえ、立ち入りを規制しているということなのでしょうか。

確かにお祭りは子供たちのとってある意味危険な空間なのかもしれません。
お祭りは家族の安全や秋の実りが豊かであることを祈念する神聖な場である反面、老若男女が入り乱れ独特な昂揚感に浸りながら、その混沌とした猥雑さのなかで危険を察知する能力を育む場でもあります。

お母さんたちが子供たちを見守りたいのであれば、なにもあんなピカピカ光るパトロールのタスキではなくPTAとだけ書いておけばよいではないですか。
どうも違和感を覚えてなりません。

子供たちが大好きな神社のお祭りに行くこと自体を規制しているのだとしたら、これも大事なコミュニケーションの場を分断していることになってしまいます。

伊藤学園の運動会の話にもどりますが、ここでもパトロールのお母さんたちが活躍されています。
プログラムの内容でいつも感心させられるのですが、小学生中学生一緒にやることもあって、人数に対してグラウンドが狭いため、お子さんが出場するタイミングがよくわかるようにプログラムが作られています。

つまり、自分の子供が出場するときだけ見に来てくださいということのようです。
父兄全員が一同に集まってしまうと、交通整理がたいへんなのでしょう。
パトロールのお母さんたちの活躍の見せ所です。

見に来た親たちは自分の子の出番が終わったら一旦帰らなければならない雰囲気にのまれて素直に帰り、次の出番まで自宅や近所で待機し、また見にいきます。
パトロールのタスキの威力たるや恐るべしです。

これは見方を変えれば他の学年の子の出番は見ることができず、ましてやせっかくの違う学年どうしの親たちとのコミュニケーションを阻害してしまっています。
ここでもコミュニケーションの場の分断が見受けられます。

私は子供たちがお祭りに行くことを規制するのではなく、喜んでゆける環境(お母さんはおまわりさんではなく、お母さんであるべきです。)を整え、運動会で交通整理するよりも親どうしが気軽に声をかけあえる環境(小学生だけでも親とお弁当を食べさせてあげたらよいではないですか。)を整えるほうが先だと思っています。

品川区の住民がコミュニケーション能力を欠如しているわけがありません。
コミュニケーションをとる場が分断され、希薄になっているだけだと思います。

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