日本の政治家は世襲制になったのでは錯覚するほど2世3世議員が跋扈しています。
ちょうど、幕末の幕閣がアメリカから開国を迫られたとき右往左往していた面々とダブってみえてきます。
事業仕分けで一躍名を馳せた蓮舫議員は政治家の資質は瞬発力にあると言っていました。
これはある意味、的を得ていて、TVに写っているときに質問者に対して当意即妙に受け答えできることが政治家の資質だと言っているのだと思います。
これは政治家が選挙によって選ばれる以上、上手に受け答えできることは有利に働くことは当然です。
しかし、これだけではお笑いタレントがみな政治家になったほうが良いことになってしまいます。
「2番ではなぜいけないのですか?」と有名になったお言葉を発せられたとき、ノーベル賞を取った先生たちに猛攻撃を受け、ますますその知名度をお上げになったことと思います。
槇原 敬之が作った曲でSMAPがヒットさせた「世界に一つだけの花」のなかで「No.1ではなくてオンリー1」というフレーズがありますが、蓮舫さんはあの有名なお言葉を発せられる直前このフレーズが頭をよぎられたのではないのでしょうか。
No.1とオンリー1の意味を取り違えられていたとしたら、それこそ政治家としての資質に問題があります。
私は子供たちが大人に本気で叱ってもらいたいのだが、大人たちが本気で叱ってくれているかどうか本能的に悟り、見透かしているという話をしましたが、これは言い方を変えれば大人たちは本当に自分たちを守ってくれるのだろうかと疑っているということです。
これはそのまま国民が今の政治家に向けている視線と同じです。
今の政府が本気で国民を守る気があるのかどうか疑っているのです。
過渡期という言葉を使って、歴史上価値観が大きく変わる直前の状態を説明しましたが、これはこの国が病んでいる時期です。
つまり民衆が時の権力者に対して信頼を失い、先行き不透明になり閉塞状態に陥っている時期をさします。
「想定外」という言葉を連発し、責任回避をする有様は一種異様にも映ってきます。
「想定外」とは「自然は人智を超えていた」と認識できたのであれば、まだ良いのですが。
私たちが子供のときは「悪いことをしたらおまわりさんにつかまるかバチがあたるよ」といわれればそれなりに効いたのですが、今の子供には通用しません。
「悪いことをしたら想定外のことが起こるよ」とでも言って叱ったらよいのでしょうか。
何とか維新の会という政党が何を復活させたいのかよくわからないという話をしましたが、そもそも、日本の政党名として使われてきた、自由だ、民主だ、自由民主だといわれたところで何がなにやらさっぱりわかりません。
民主主義はDEMOCRACYです。これは主権在民、つまり主権が民衆のもとにあるという人類が獲得した崇高なる思想です。
DEMOCRACYは、やはり人類が苦難の末獲得したLIBERALという原理を経て成り立っています。
LIBERALには日本語では自由という字があてられました。
私はLIBERALと自由は本質的に意味が違うと考えています。
LIBERALとは西洋哲学では「自発的意思の行使」です。
自由は「勝手気まま」です。
LIBERALであるためには責任と義務を伴わなくてはいけません。
自由は責任と義務を伴わなくてよいようです。
LIBERALは血で血を洗う殺戮の歴史のなかで生まれた「奴隷解放」の思想です。
日本では歴史上、西洋でいうところの奴隷は存在しなかったようです。
この西洋の奴隷というものは、ご主人様の所有物であり、所有者が生殺与奪をそれこそ自由にできたのです。
日本では農奴的なものはいましたが割と楽に逃がしてもらえ、主人を選ぶことができたようです。
LIBERALの原義は「束縛からの解放」です。
自由という言葉はもともと仏教用語だったようですが、本来の意味からすれば「解脱」をあてるべきだったようです。
自由は自ずから由ると書きます。
一体これはどういう意味なのでしょうか。
俺は自由だぁ!と思ったとき、俺は解脱したぁ!と思う人はあまりいないと思います。
多くの人は、俺は勝手気ままだぁ!という感じだと思いますが、同じ解放感でも内容はまったく違います。
自ずから由るとは、「なるようにしかならない」ということだと思います。
レッセフェールというよりケセラセラでしょうか。
自由の自は私は自我、自己の自だはなく、自然の自だと思っています。
自然とは自ずから然りです。
自という字は、自らを基点に主観的に回りを見ることと、第三者を基点に客観的に回りを見ることでは、それこそ自ずと見方が変わってきます。
主観的と客観的を絶対的と相対的に置き換えてもよいと思います。
LIBERALは自我、自己の確立を出発点とし、義務には責任を伴うという規範を生みました。
日本人の規範はなにかというと「ひとのふり見て我がふり直せ」です。
これは一見消極的に思えますが、「自分がしてほしくないと思うことはひとにはせず、自分がしてほしいと思うことをひとにしてあげましょう」という積極的な思想に昇華しています。
日本文学の根底を流れるテーマは無私、無我、無常です。
吉田兼好の徒然草から、平家物語、本居宣長のもののあはれ、夏目漱石の則天去私、小林秀雄の無常といふこと、みなこれらがテーマとなっています。
一種あきらめの境地のようなもので、仏教でいえば他力本願による諦観というところでしょうか。
自由の自は主観的、絶対的な自ではなく、客観的、相対的な自、つまり自然の自なのだと思う所以です。
「なるようにしかならない」は「自然に任せてしまおう」ということだと思います。
この時自然は神となります。
つまり、「自由」とは「神の思召すままに」といったところではないでしょうか。
LIBERALとは「自発的意思の行使により束縛から解放される」という意味に対し、自由とは「運を天に任せて後はなるようになれ」という意味のようでだいぶ違うようです。
LIBERALからDEMOCRACYに至る思想は、血塗られた歴史の上に人類が勝ち取った至高なる英知です。
ヨーロッパの絶対王朝時代は王権神授説により、王と取り巻きの貴族以外は皆奴隷でした。マリーアントワネットをギロチンにかけこの英知を手にしたのです。
アメリカでは南北戦争で数多の血が流され奴隷は解放されました。
日本人の血にはこれらの歴史的DNAは流れていないようです。
日本の政党名を日本人が直観的に理解できる人がどれだけいるでしょうか。
私はLIBERALと自由の原義がこれだけ違うとなると、理解しろというほうがどだい無理だと思っています。
私は「自然党」とでも名付けた政党があってもよいのではと思っています。
ドイツ発祥の「緑の党」よりよっぽどわかりやすいと思います。
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