運動会の話にまたもどりますが、今中学2年の息子が小学4年(このころ原小と伊藤中が一緒になって伊藤学園ができました。)のときから見に行っています。
最初驚かわれたことは、お弁当が一緒に食べられないこともそうですが、子供たちがいるところと親たちがいるところをロープを張り巡らせて区分けして互いの行き来を禁止しているのです。
最近では見慣れてしまっている自分自身、子供たちと一緒にすっかり親も学校に飼いならされてしまっているように思えてきます。
秩序を重んじることはよくわかりますが、ここでもコミュニケーションの分断が見てとれます。
秩序を維持するための装置が張り巡らせたロープということなのでしょうか。
パトロールのタスキをつけたお母さんたちがまたおまわりさんに見えてきます。
コミュニティーにおいてそのハブとなるものが学校のほかにお祭りがあるということを述べましたが、学校とお祭りではその内容がだいぶ違います。
学校は規則、規律によって秩序を維持管理し子供たちに遵法精神を学ばせます。
反面、お祭りは混沌とした猥雑さのなかで、子供たちは自然に危険を察知する能力を養います。
両者はコミュニティーのハブとして互いに補完関係にあるべきだと思います。
大津におけるいじめによる自殺では、教育の現場に警察が家宅捜査に入るという前代未聞の事件に発展しました。
学校の自治というものはたいへん重んじられていて、このようなケースで司直の手が入ったことはありませんでした。
学校法人の理事長が学校の金を私的に横領したようなケースとはわけが違います。
いじめにおいては往々に、いじめられた子が被害者で、いじめた子が加害者であるととらえられがちです。
本当にそうなのでしょうか。
子供は子供です。子供はいじめている、あるいはいじめられているということを認識できる能力を十分に養われていない場合が大多数なのではないでしょうか。
子供にとっての危険を察知する能力には二通りあると思います。
一つ目は悪ふざけの度が過ぎて、相手の子が精神的にも、物理的にも危険な状態になっているということを察知する能力です。
二つ目は相手からの悪ふざけの度合いが遊びではなくなってしまい、自分自身が物理的にも、精神的にも危険な状態になっていることを察知する能力です。
いじめているとされる側の子供を加害者と断定することは、将来その子が犯罪者になりえると断定することに等しいと思います。
危険を察知する能力が十分でない子供を犯罪者扱いすることは、問題の本質に目をそむけ責任を回避する大人の言い訳にしか聞こえてきません。
加害者は、危険を察知する能力が十分ではない、いじめられている子供でも、いじめているこどもでもなく、危険を察知する能力を十分に養い得ていない周りの環境そのものなのではないでしょうか。
あえて言えば、いじめている側の子供も、いじめられている側の子供も双方が被害者なのではないでしょうか。
品川区教育委員会が今年の7月作成した「いじめ防止に関する手引書」に目を通して私は愕然とさせられました。
このなかではっきりと悪ふざけの度が過ぎたいじめは「人権侵害行為」であると書かれています。
つまり、いじめをした子は犯罪者であると決めつけ、警察との連携も明記されているのです。
品川区の教育委員会はあたかも少年法(未成年は成人同様の刑事処分を下すのではなく、原則として保護更生のための処置を下す。)の概念を放棄したかのようです。
人権問題というものは一般的には権力者からの弱者救済擁護を言います。
国際連合と協議資格を持つ人権擁護団体のアムネスティー・インターナショナルは死刑廃止、難民救済、戦争捕虜の虐待からの救済を支援する機関です。
権力者である教育委員会がいじめているとされる側の子を「人権侵害行為」を犯していると決めつけるとはどういうことなのでしょうか。
子供は弱者の最たるものです。子供を守るべき側のものが「人権」という言葉を持ち出して、子供を犯罪者扱いしようとしているとしたら、それこそ人権蹂躙ではないでしょうか。
学校が警察国家化しているとしたら、親にしてみれば子供を人質にとられているようなものです。
学校というムラのオキテにより、子供の成績なり評価に恣意的なものが加えられるているのではないかと思うだけでそら恐ろしいものがあります。
「人権」とは人が生まれながらにして持つ基本的な権利であり「民主主義」という思想の根幹をなす原理であることは言うまでもありません。
日本の「民主主義は」残念ながら欧米のように自ら命がけで手にしたものではありませんでした。
結果的に先の大戦後アメリカの原文をもとに今の憲法に明記されていいるわけですが、「民主主義」を勝ち取るために数多の血が流されたわけではなく、皆天皇のために死んでいったのです。
学校というものは「民主主義」を子供たちに教えてくれる場所だとばかり思っていましたが、どうもそうではないようです。
教育委員会は文科省傘下の官僚機構そのものです。
つまり国家権力そのものです。
権力者が弱者の最たるものである子供を犯罪者扱いしたら子供はどこに逃げたらよいのでしょうか。
親はどうやって子供を守ったらよいのでしょうか。
官僚機構はまだ一般大衆にとっては「お上(カミ)」そのもののままのようです。
「お上は」は「由らしむべし、知らしむべからず」で民衆を支配してきました。
つまり、情報を独占し民衆に対しそれを開示することなく、上から目線で我々をコントロールしようとしているわけです。
役人が「お上」意識をもったままでいることは、いじめている側の子供を「人権」という言葉を使って犯罪者の烙印を押そうとしていることに如実に顕われていると思います。
「人権」という言葉を軽々しく自分たちの責任逃れのために使っているとしたら、「民主主義」を語る資格はないと思います。
日本という国がまだ官僚統制国家を抜け出せていない所以です。
伊藤学園の運動会で子供のいる場と大人のいる場をロープで区分けしている話をしましたが、このロープが秩序を維持管理するための装置であるのなら良いですが、子供たち(親も含めてでしょうか。)を飼いならす道具にしているとしたら、本末転倒です。
親は動物園のパンダやキリンを観に行っているわけではありません。
なぜ子供たちのそばに近寄るのを禁ずるのでしょうか。
こどもからも見えるところまで近づいて「ガンバレー」と声援を送ってはなぜいけないのでしょうか。
子供は親の声援を目と耳に焼き付けて、記憶に刻み一生の思い出とするのです。
本来、運動会や親の参観日(伊藤学園では学校公開とよんでいるようです。)等は、学校内における教育はもちろんのこと、学校の自治が健全に行われているかどうか、親たちが検証する場でもあるはずです。
運動会のロープやPTAのお母さんたちのパトロールのタスキが、学校に対する親たちの検証を阻むものであったとしたら、親たちはどう対処すればよいのでしょう。
私は駅のそばの居酒屋に食事がてら子供たちを連れてよく飲みにいくのですが、あるとき先生たちの飲み会と遭遇しました。
子供たちも先生たちも居合わせているのを気が付いているのに、言葉をかけあうことがありません。私があいさつすると何かシラケた雰囲気になってしまい、その後その先生たちをその店でみかけることはなくなってしまいました。
私は小学生たちとバスケットをやっているので、その子たちが中学生になると伊藤学園のバスケット部に入る子が多いのです。
顧問の先生とコミュニケーションをとったほうが良いと思ったことがあったので、ある知り合いの区議会議員の先生に、酒でも飲みながら顧問の先生と話をしてみたいのだけどと相談したところ、そんなこと学校が許すわけがないでしょうと簡単に言われてしまいました。
特定の先生と親が癒着することを禁じているのでしょうか。
いまだにどうしてなのかよくわかりません。
居酒屋での子供たちと先生方の気まずい雰囲気にしろ、なぜ親と先生が酒を酌み交わしてはいけないのでしょうか。
どうも学校と保護者の間にも何か距離感を感じてしまいます。
学校での保護者会はよく開かれているようですが、二人目の自殺者が出た直後の緊急保護者会の内容を議事録にとっていた父兄がいたので見せてもらったのですが、違和感を感じてなりません。
その一つがスクールカウンセリング制度であったことは前に述べた通りです。
大津での事件の隠蔽体質がムラのオキテにより既得権益の保護に向かっているというお話をしました。
学校によっては、いじめが発覚すると担当の先生は減給あるいは、退職金に影響するという職務規定を設けているところもあるのだそうです。
給料が減らされるのがいやがために、いじめに目をそむけているようなことがあるとしたら、それこそ恐ろしいことです。
伊藤学園が、ムラのオキテのようなもので、親には知られたくはない秘密を共有していると勘ぐりたくはありませんが、少なくとも大津のような司直の手がはいるようなことがあってはなりません。
つまり、いじめているとされる子を加害者と断定するような事態になってはならないと思います。
子供たちの危険はどうやら身近に潜んでいるようだとお話しましたが、それは子供たちが危険を察知する能力を養える環境になっていないその場、その雰囲気そのものが危険を醸成しているようです。
これはとにもかくにも親どうし、子どうし、親子どうし、なおかつ学校の先生と親たちとのコミュニケーションが希薄になっていることにつきると思います。
つまり子共たちを協同して守る責任のあるコミュニティーそのものが、コミュニケーションが分断されているため機能不全に陥っていて、コミュニティーそれ自体が子供たちを危険な状態にさらしてしまっていることを意味するのではないでしょうか。
コミュニケーションは形式的なうわべだけのものでは意味がありません。
同じ目線になって、それこそ車座になって話し合うことです。
パトロールのタスキは権威、権力をかさにきた上から目線で見下しているように見えてなりません。
見下されて本音を話す人はまずいないと思います。
かといってへりくだって下から目線になることもどうかと思います。
同じ立ち位置で同じ目線で語り合うことが大事です。それの良い例が井戸端会議というものでした。
今井戸端会議ができる場といったら、マクドナルド、ファミレスか居酒屋といったところでしょうか。前にも話しましたが、インターネットのSNSを駆使するのはよいと思います。
FacebookもTwitterもアメリカから持ち込まれたものですが、日本人のコミュニティーにあったもうひとひねりがほしいところです。
実名が基本でも、匿名で投稿できること、無記名でアンケートをとれること、そしてそれらを皆が自由に閲覧できることこれらは必須だと思います。
特定の学校、学年に限定せず、なるべく広い年齢相とくに高齢者の意見を取り入れる工夫が必要だと思います。
コミュニティーの崩壊のひとつして高齢者の孤独死の問題を忘れてはいけません。
核家族化が進み、身寄りのないお年寄りの話を聞くことは、お年寄り個人にとってもコミュニティーにとっても必ず役に立つと思います。
遠隔医療システムがだいぶ進歩してきているようです。
遠隔診療もインターネットを使ったシステムです。
お年寄りは携帯端末、ましてやスマホなどとは縁遠いものですが、TVとインターネットの融合が進み、お年寄りも両方向通信に参加できる環境が整ってきました。
遠隔診療システムや「元気にしてますか」(安否確認)システムなど、身寄りのないお年寄りのセーフティーネットとして今後普及が進むはずです。
これらもコミュニティーのSNSに組み入れるべきです。
おじいちゃん、おばあちゃんの声を反映させることは、お年寄りご本人の生きがいにもなっていきますし、おじいちゃんは「地震、雷、火事、おやじ」だったのですし、おばあちゃんの知恵は若いお母さんのお手本になることでしょう。
子供もお年寄りと接する機会が増えればそれだけ危険を察知する能力を養えることになると思います。
なぜならば年寄は子供に体罰を与えるにしても手加減の仕方を知りすぎているからです。
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