2012年10月14日日曜日

ものづくりの現場から⑪

今日本は超高齢化社会へと突き進んでいます。
最近出生率という言葉をよく耳にしますが、これは夫婦二人に対して二人子供をつくれば、全体の人口は維持できるという勘定からきます。
現在の出生率は1.3台です。これは絶望的な数字です。

年金制度破綻はもちろんのこと、放射線による被爆という負の遺産を孫子の代まで負わせてしまった私たち大人はこれからどうすればよいのでしょうか。

私はそろそろ移民、難民の受け入れの窓口を段階的にでも広げていくべきだと思っています。
そもそも日本人が純血であるというのは幻想です。

古来、カラフトを通って北方系民族が、朝鮮半島を通って騎馬民族等が、黒潮に乗りながら南方系民族がこの日本列島にきて混血を繰り返して今の我々があるのです。

わたしの友人でロスさん(日本名、楠木さん)という元カンボジア難民で日本人に帰化した人がいます。

ロスさんのお父さんはカンボジア政府の官僚だったのですが、ポルポトの粛清にあい殺され、ロスさんも命からがら脱出してきた人です。ロスさんはプノンペン大学(日本でいえば東大)出のエリートです。

ロスさんの兄弟はアメリカ、フランスを選んだのですが、ロスさんは一番受け入れられるのが難しい日本をあえて選びました。
カンボジアはもともと親日で、ロスさんも日本が好きだったのが理由なのだそうです。

先日ロスさんと一緒にフクシマを視察に行ってきました。ロスさんは日本とカンボジアの架け橋となるべくがんばっています。

フクシマでこれから始まる自然エネルギーの普及にためのプロジェクトに参加を希望しています。
フクシマで培われた技術を母国にも普及させだいと考えています。

カンボジアは送電線網のインフラはまだ整備されておらず、ソーラーや小水力による発電システムに希望をもっています。
送電線網等のインフラ整備に莫大なコストをかけず、小規模ながら徐々にでも電力供給を増やしていくことに期待しています。

カンボジアには、一説には世界の90%にものぼる対人地雷がいまだに埋めらたままなのだそうです。
対人地雷のなかには爆薬代わりに劣化ウランを使ったものもあり、地雷の除去はもちろんのこと、その放射線による被爆の問題も抱えています。

フクシマへはロスさんの車でいきました。車中ずっと運転席の前のモニターにはカンボジアの歌謡ショーのDVDが流されていました。どこかで聞き覚えのあるメロディーばかりと思っていたら、日本の40,50年前の歌謡曲をカンボジア語にカバーしたものが多いのです。

カンボジアでの外国人の数は10年前までは日本人が一番多かったそうですが、今はベトナム人が一番で二番が中国人、三番目が韓国人、日本人は四番目になってしまったそうです。

日本の製造業は空洞化が進み、生産拠点を人件費の安いところ安いところへとシフトしています。中国からタイ、タイからヴェトナム、ヴェトナムの次はカンボジアになるのかもしれません。
しかしすでに中国、韓国はいち早く拠点を築いています。ここでもすでに出遅れているのに安い人件費だよりでコスト競争に勝てるでしょうか?

カンボジア人は中国、韓国よりも日本にもっと進出してほしがっているそうです。
ロスさんの車中で流れていた曲は「柳が瀬ブルース」「ナガサキは今日も雨だった」等々、

対人地雷の劣化ウランによる放射線の内部被爆の問題を抱えているカンボジアにとって、フクシマひいてはニッポンそのものが、決して他人事ではないのです。

日本は自分たちだけが、唯一の被爆国であるという被害者意識による感傷に浸っている場合ではありません。
対人地雷はもとより、劣化ウラン弾(戦車の砲弾等)による内部被爆は東南アジア、中東、アフリカにおいて現実の問題として発展途上国の人たちを苦しめています。

カンボジアをはじめこれら発展途上国の人たちは、戦争による大きな負の遺産を負っているとはいえ、活力をみなぎらせ、夢と希望に燃えています。

日本は高度成長時代、欧米に追い付き追い越せで、それこそ夢と希望に燃えていました。
少子高齢化の根本的な問題は、若い夫婦が生まれてくる子供たちに夢と希望を与えることに自信が持てないということにあるのだと思います。

大人たちは子供たちを幸福にする義務があります。子供の幸せを願わない親はいないでしょう。
この義務を果たすために親はどのように責任を持てばよいのでしょうか。

西洋のLIBERALからDEMOCRACYに至る思想は、自我、自己の確立から出発することは前に述べました。

それに対し日本はまったく逆ともとれる、無我、無私、無常という思想の流れがあったことも述べました。この思想は自己、自我にとらわれず己を克服すること、つまり「克己」の思想につながります。

日本の高度成長時代は欧米にだけ目が向けられていました。
今は発展途上国にも同じように目を向けるべきだと思っています。

日本の高度成長時代は欧米が目標であったばかりではなく、マーケットでもあったわけです。
今は中国が世界最大のマーケットとなりつつあります。次は東南アジアであり、インド、中南米、アフリカへとつながってゆきます。

そのためには、日本はこれら発展途上国がマーケットとして成長してゆくことに貢献すべきと思います。
それがひいては自分たちの利益につながることは言うまでもありません。

産業の空洞化により、雇用の減少を危ぶむひとが多いですが、古い技術はどんどん海外へ移転したらいい。雇用の拡大は新しい技術革新無くしてはあり得ません。

日本の「匠の技」がそう簡単にまねされるものではないことに自信と誇りを持つべきです。
知的所有権の概念は韓国ではすでに定着し、中国でも当たり前になってゆくことでしょう。
アメリカは建国の精神のなかで「発明」というものをその柱の一つにしています。

日本では、埋もれてしまっている発明がたくさんあります。
それを掘り起こす勇気も持たなければいけません。

大企業はこの手間を怠っていると言わざるを得ません。
ましてや中小企業の技術に対しては上から目線で、同等に受け入れる度量が見当たりません。
日本の労働人口の80%は中小零細企業が支えています。

海外からの移住者の雇用も中小零細企業しか受け皿になっていません。
私は中小零細企業と発展途上国の交流を活発にするべきだと思っています。
日本からは技術を移転し、発展途上国からは労働者をもっと積極的に受け入れるのです。

母国へ日本の技術を移転するための技術者や専門職の看護師等から窓口を広げていくべきです。
この人たちが日本での自分たちのコミュニティーのリーダーとして育っていけば、次世代においては日本人としての新しい土壌を築いていくことでしょう。

日本の若年労働層の減少はそのまま国力の衰退を意味します。
古い技術を分け与えることを惜しまず、新しい技術の開発に、たゆまぬ努力を続けていかなくてはいけません。

私利私欲だけでは発展途上国の人たちの信頼をえることはできません。
日本人は滅私奉公することを一つの修行ととらえてきました。

田畑を耕すその行為ひとつとっても修行であり、修行により成仏できると説かれ、仏教は普及していった歴史があります。
修行を手段として己に打ち克つことを目的としたのです。

カンボジアをはじめ仏教を自分の宗教とする人は思いのほか多いのです。
ヴェトナムも南部はカンボジア領だったので仏教徒が多く、タイ、インドも多いのです。
親日の人が多い所以のようです。

今の若者は海外にでることが少なくなっています。
これはインターネットのバーチャルの世界でどこへでも行けるようになったからなどと説明する人がいますが、おめでたいひとです。大人である自分がそこに行った気分になって自己満足しているのを子供も同じだと思っているのでしょうか。

それだけ世界中の情報をたやすく入手できるようになったならば、実際に自分の目で確認したくならなければおかしい。それにより、固定観念にとらわれず視野が広がっていきます。
「見ると聞くでは大違い」とはこのことです。

私は親が子供を幸せにする義務をはたすためには、子供たちが夢と希望をもつことのできる環境を整えることに責任を持つべきだと考えています。
それは過保護にすることではありません。

昔から、かわいい子には旅をさせろといいます。
発展途上国もよいでしょうし、欧米でもよい、もっと海外へ修行に出すのがその一つだと思います。

海外へ修行に出すまでもなく、身近なところで外国人のコミュニティーはたくさんあります。
チャイナタウン、コリアンタウンは観光地化さえしています。
韓流ブームもあり以前のようなわだかまりはだいぶ減ってきいるのに、昨今の領土問題は水をさす状況となってしまいました。

この海外からの移住者たち、とりわけ発展途上国のひとたちとコミュニケーションをとることはたいへんよい修行になると思います。
これはもちろん子供に限ったことではありません。

私は子供たちが夢と希望をもつことのできる環境を整えることに大人たちは責任を持つべきだと言いましたが、これは難しく考えることもなく、子供たちが視野を広げることのできる場を作ってあげればよいという意味です。

子供たちは好奇心旺盛です。
ややもすると遊びのなかで度が過ぎて危険を伴うこともあります。
でも遊びというのは、危険が伴えば伴うほど面白いものなのです。

規則によって、あれはしてはダメ、これはしてはダメとすることが、えてして子供の好奇心をそいでいる場合があります。
子供も多少の危険を経験することによって成長していきます。

大人たちが物理的な危険から子供たちを守ることは当たり前のことです。
しかし、精神的な危険を察知する能力は、大人の既成概念でしばってしまうことが逆に危険になる場合があります。

「好奇心」とは「素朴な疑問」と置き換えてみたらよいと思います。
大人どうしで今まで常識と思われていたことが、素朴に疑問に思えることは山ほどあります。

子供たちの素朴な疑問に耳を傾ける努力を大人たちは怠ってはいけません。
それが子供たちの視野を広げ、ひいては大人たちも固定観念にとらわれずコミュニティーを形成できてゆくのだと思います。

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