何とか維新の会というところが、徴兵制の導入を政策の一つとして検討しているそうですが、これは親にとっては子を子にとっては自分が戦地に赴く覚悟を持てるかどうか問いかけているのだと思います。
「維新」という言葉は「復活」という意味だと思うのですが、何を復活させたいのでしょう?
明治維新は徳川幕府体制から天皇中心の体制への復活を意味したのだと思いますが、
これが先の大戦の悲劇へとつながったことは歴史が証明するところです。
それとも坂本竜馬や維新の志士にあやかりたいだけということなのでしょうか?
私は自分の子を戦地へ行けと強制するのであれば、ものづくりの現場のハシクレとして言わせていただければ、もっとロボットを作る予算を増やせと言いたい。
福島は今まさに戦場です。
当初原発事故直後、原子力発電所内に入っていったロボットはアメリカ製のものでした。
私はあれを見て、なぜ日本製ではないのだと思い、恥ずかしくて気が遠くなりそうになったものです。
iRobotというメーカーのもので、もともと軍需産業のようですが、日本でもよく売れている掃除機ロボット「ルンバ」のメーカーです。軍事技術を民生に転用できた良い例で、利益をまた開発費にフィードバックでき好循環を生んでいます。
アメリカは戦場の最前線をロボットによる無人化にすることに真剣に取り組んでいます。
世界のいたるところで銃声の鳴り止まぬ日はありません。
とくに発展途上国においてはインフラの整備(送電線網等)もままならず、日本の技術力を切望しています。
私は決して日本の技術力を単なる戦争の道具にすべきと思っているのではありません。
むしろその逆で戦争の抑止力にしなければいけません。
前にも述べた通り東北の震災特区構想は自然エネルギー普及のための一大実験場になり得ます。これを構想どまりにしてはいけません。
ここで培われた技術は必ず貧困に苦しむ世界の戦地の子供たちの役にたつはずです。
私は今の日本が先の大戦の開戦前、昭和10年代の状況に似てきているのではと思っています。
日本という国はあるときを境として、ガラッとその価値観を変えてきた歴史があります。
平安貴族から武士による戦国時代になったとき、幕末から明治維新のとき、先の大戦の戦前と戦後です。
戦国時代は小が大をのむ下剋上という社会現象をおこし、明治維新では幕藩体制から天皇中心の中央集権国家へ、直近の戦前と戦後では、天皇崇拝から主権在民へというところでしょうか。
今の日本はやはり同じような過渡期を迎えようとしているのだと思います。
福島の原発事故は起こるべくして起こった人災ということが大方の一致した見方になってきたと思います。
いわゆる原子力ムラというものが、幕末の幕府がペリーに開国を迫られたときの無策無能ぶり、開戦前の軍部がアメリカに勝てるわけがないことを分かっていながら突き進んでいった狂気の沙汰、これらとダブって見えてしまいます。
想定外という責任回避の言葉を繰り返し、被害のつけは国民に押し付け、放射能汚染というリスクを何世代も先送りしてしまったこの事実は犯罪以外のなにものでもありません。
なぜ誰も逮捕されていないのでしょう。
私は過渡期という言葉を使いましたが、これは日本人の価値観がガラッと変わる直前の状態という意味です。
歴史上の過渡期はこの国が病んでいる状態です。今の日本も病気なのでしょう。
病気の原因は大きく二つあると考えています。
一つ目は目的と手段の転倒です。手段が目的化してしまうことです。
二つ目は皆が共鳴できる価値観を見失ってしまっていることです。いわゆるアイデンティティーの喪失です。
お金は幸せになるための手段でなければなりません。お金そのものが目的となってしまうことを拝金主義といいますが、ようするにお金が神様になってしまうわけです。
原子力ムラのムラは既得権益者と置き換えてみればよいでしょうか。このムラは国民を幸福にすることを目的にその手段として作られたはずのものですが、いつしか自分たちの権益温存が目的化してしまったわけです。
これは原子力ムラに限らず、各省庁にぶら下がっている権益集団はみな同じようなもののようです。
面白い例としては、博打というものはもともとご法度なはずですが、各省庁はみな博打場を抱えています。
競輪、競馬、競艇、宝くじ、これらはそれぞれ監督官庁が違い、文科省がサッカーくじ、警察庁がパチンコのカードで権益化してしまうにいたってはあきれてしまいます。国民の教育、公安を司るお役所が、他の省庁の右に倣えで、国民の射幸心をあおっているようでは世も末です。
KYとはよく言ったもので、日本人は回りの空気に支配されがちな特質であることはよく指摘されるところです。
周りが何かを始めると自分も同じようにしていないと不安になるのでしょうか。
これはよく日本人はダブルスタンダードであるということで説明されています。
内向きの規範と外向きの規範を併せ持っているという意味です。
内向きの規範とは、既得権益を保護する方向に向かいます。外向きの規範とは本来一般的には正しいとされる規範です。
賭博は一般的にはいけないことであることはわかっていながら、教育と公安のお役所が胴元をやっているようなものなのですから何をかいわんやです。
ほかの役所がやっているのだから自分たちもやって何が悪いんだといったところでしょうか。
周りの雰囲気にのまれてしまうと、本来正しいとされることさえ言葉に出す勇気を押しつぶされしまい、主義、主張がなく安易に付和雷同してしまうのです。
0 件のコメント:
コメントを投稿