2014年10月30日木曜日

岩上氏による板垣先生のインタビューから⑧日本の知識人4

板垣先生があげられた5人のうちの最後は、大川周明についてです。
大川の思想は、近代日本の西洋化に対決し、精神面では日本主義、内政面では社会主義もしくは統制経済、外交面ではアジア主義を唱えました。

東京裁判においては、民間人として唯一A級戦犯の容疑で起訴されましたが、精神障害として不起訴になっています。
コーラン全文を翻訳し、日本のイスラム研究の礎を築いたひとでもあります。

北一輝、満川亀太郎らと親交があり、三月事件・十月事件・血盟団事件などほとんどの昭和維新に関与し515事件では有罪判決をうけ、服役しています。

満州国の建国を支持し、「日中連携」を不可欠とし、日中間の戦争を望まず、太平洋戦争についても時期尚早として、日米戦回避のために開戦前夜まで奔走しました。

頭山満、犬養毅、内田良平らアジア独立主義者が支援したラース・ビハリー・ホースとも大川は親交を結んでいます。


右翼の頭山、内田が、「日ユ同祖論」者の出口王仁三郎と深い繋がりがあったのは、前述の通りです。

ボースには二人いて、もうひとりがチャンドラ・ボースで、ラース・ビハリー・ボースは中村屋のアトリエに匿われたことから、中村屋のボースと呼ばれました。

二人ともインドの独立運動家ですが、体調をくずしたラースはインド独立運動の全権をチャンドラ・ボースに委譲し、ラースは名誉総裁にとなった経緯があります。

大川は太平洋戦争回避に奔走したのですが、開戦直後、一転してNHKラジオで連続講演をおこないます。
これは米英となぜ開戦に至ったのかを国民に納得させるためのものでした。

大川は、ペリー以来のアメリカ外交について、日露戦争以後のアメリカの変化は、中国進出という目的をもったアメリカ帝国主義が、露骨に日本とぶつかってきたものであると分析しています。

大川は東京裁判については、連合国の日本に対する復讐であり、日本人が二度と米英に歯向かわないようにする「教育」の場であると認識していたようです。

大川がA級戦犯となったのは、ニュルンベルグ裁判でナチズムの理論家ローゼンベルグ博士が起訴され絞首刑になったのを踏まえ、日本でも誰かいないかと引っ張りだされたのだという指摘があります。

大川はこの裁判の本質を見抜き、反論する能力が十分にあった故に、キーナンらが忌避したのではないかとの指摘があります。

大川もシオニズムに関心を寄せていました。
大川の出世作「復興亜細亜の諸問題」では、1922年の初版ではあった「猶太民族の故国復興運動」の章を1939年の再販以降、何の説明もなく、すべて削除してしまっています。

大川は、1920年代以降の日本のシオニズム運動の展開は、パレスチナのアラブの犠牲の上に成り立つという事態が明らかになってゆき、「復興亜細亜」という観点からは、シオニズムをそのような事例に入れるのは難しくなっていったということが背景にあったようです。

また、同時期の矢内原忠雄のシオニズム論は大川とは対置するものであり、第一次世界大戦直後の日本の知識人のシオニズム理解が1920年代から1930年代にかけて急激に変化したことがうかがえます。

当時、大川は満鉄調査部に籍を置く身であり、矢内原は新渡戸稲造の後任として、国際連盟に籍を置く身でした。


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