2014年10月29日水曜日

岩上氏による板垣先生のインタビューから⑥日本の知識人2

柳田國男が国際連盟委任統治の委員として、ジュネーブに赴任した時は、農商務省の役人を退任した後、朝日新聞の客員でした。

柳田と同じ農商務省から、新渡戸の肝いりで、国際連盟の事務局員としてジュネーブに赴任していたのが、藤沢親雄です。彼は、帰国後、東大講師、九州帝国大学法学部教授となっています。

藤沢は「日ユ同祖論」を唱えていました。これは、日本人とユダヤ人の先祖が同一であるという考え方です。

柳田と藤沢はジュネーブ時代、親密な交流があり、柳田は藤沢の「日ユ同祖論」にかなり興味をもっていたようで、パレスチナへの出張を希望しましたが、外務省に差し止めされています。

藤沢はその後、ナチス讃美者になっています。
シオニズム運動は、ナチスとシオニストの協力関係のもとになされたという、板垣先生のご指摘がありましたが、見事に一致していると思います。

藤沢の「日ユ同祖論」のユダヤ人は、東欧の白人系ユダヤ人を想定したものと思われます。
一方、柳田はどうかというと、彼は農商務省の役人時代、「天狗の話」を著しています。
この中で「山人」がキーワードとなっています。「山人」のなかに天狗が見うけられると書いています。柳田は「山人」を日本列島の先住民の末裔の「異人種」だと指摘し、琉球民族とアイヌ民族にも言及しています。

これらは皆、縄文人と一括りにできると思いますが、彫が深く、濃い顔立ちで、なかでも鼻の高い人を天狗とみなしたようです。
柳田はアラブ人のような有色人種系のユダヤ人を想定したのではないでしょうか。

板垣先生は「俘囚」という言葉をヒントとして指摘しています。
ユダヤ人のバビロン捕囚を俘囚と表記する場合があります。

日本おいての俘囚は、縄文人の末裔であり、柳田も俘囚として、大和朝廷に翻弄されたサンガについて触れています。

サンガとは、古代インドの一部でみられた政治形態で、「集団」、「組合」を意味し、仏教修行者の集団も意味するようになります。

日本においてのサンガは、かつて存在した非定住民の集団とされ、狩猟、騎馬にすぐれていました。

サンガはスサノオの神話から派生していて、柳田は旧約聖書の「イスラエルの失われた10支族」に思いをはせたのではないかと想像されます。

柳田は民間伝承をもとに、「民俗学」(フォークロア)を確立した巨人ではありますが、多くの謎を指摘されています。

「遠野物語」の河童伝説ばかりが有名ですが、多くの文献を発表しています。
しかし、性の表現や差別の問題などを意識的に避けています。

私は柳田の研究目的の一つは、西方から日本列島に移民してきた民族の探求、言い換えれば、縄文人と有色人種系ユダヤ人の比較研究だったのでは思っています。

柳田は、戦前、戦中、戦後と長期間、文献を発表し続けますが、それぞれの期間において、タブーとされる内容について封印せざるをえない原因があったのだと思います。

戦前の「日ユ同祖論」は、「河豚計画」の中で捏造されたものと言われています。
「河豚(ふぐ)計画」というのは、ドイツで迫害された白人系ユダヤ人を満州に招き、日本の支配下にイスラエルを建国させて開拓させようとした計画です。

同時に、日本の満州支配に否定的なアメリカを懐柔する意味もあり、ユダヤ資本の日本への投下も目論んでいました。

日産コンツェルンの鮎川義介、陸軍大佐安江仙弘、海軍大佐犬塚惟重らが中心となって計画しています。

「河豚計画」の名は、1938年7月の犬塚の演説に由来します。ユダヤ人の経済力、政治力を評価した犬塚は、「ユダヤ人の受け入れは日本にとって非常に有益だが、一歩間違えば破滅の引き金ともなりうる」と考えました。犬塚はこの二面性を、美味だが猛毒を持つ河豚に擬えて、「これは河豚を料理するようなものだ」と語ったのです。
この計画を推進するうえでも、「日ユ同祖論」が非常に有効だったのです。

エストニアの杉原千畝大使が、ユダヤ人に大量の旅券を発行できたのにも、こうした背景があったのです。

このころの「日ユ同祖論」の対象は白人系ユダヤ人であり、柳田の研究の対象は有色人種系ユダヤ人だったのだと思われますが、柳田はいらぬ誤解を招き、政治的混乱に巻き込まれるのを避けたのだと思います。

昨今の遺伝子学、DNA鑑定の進歩で、縄文人は海のシルクロード及び陸のシルクロードから渡来してきているという学説があります。

海のシルクロードにより、台湾を経由して沖縄から列島に行ったルートと、陸のシルクロードにより、大陸内で分岐し、朝鮮半島を経由して列島に入ったルートと大陸を北上し、満蒙、樺太を経由して北海道そして列島に入ったルートがあるようです。

板垣先生は長野の諏訪にお住まいなのだそうですが、諏訪は縄文時代文化の中心地で、ご自分の研究の一環でもあるそうです。

諏訪大社は世界中のユダヤ教徒が参拝にくることでも有名です。
この辺のことも後々触れたいと思います。

日本人とユダヤ人の関係は、NAVERまとめ
こちらが解りやすくまとめられていますので、ご参照ください。


話がまた大分脱線しましたが、本題に戻ります。

日本のキリスト教シオニストの系譜が徳富蘆花まで遡ることは、前に述べました。
徳富蘆花は兄の徳富蘇峰(思想家、ジャーナリスト、東京新聞の前身である「國民新聞」主宰)の影響を受けましたが、兄の蘇峰が国家主義的傾向を強めるにつれ、絶縁状態となります。
大逆事件(明治天皇暗殺計画の企て)の際、幸徳秋水らの死刑を阻止するため、蘆花は兄の蘇峰を通じて桂太郎首相に嘆願しますが、間に合わず幸徳秋水は処刑されていまいます。

内村鑑三は無教会派を通じて、日本独自のシオニズム運動を展開したことは前に述べました。
内村は非戦論者として有名でしたが、「不敬事件」(明治天皇の親筆の署名に対して最敬礼しなかった。敬礼の仕方が不充分だっただけ。)で、全国に喧伝され、キリスト教と国体の問題に進展してしまいます。

柳田國男は農商務省の役人時代、農政学を専門としていましたが、これは植民地政策そのものです。
新渡戸稲造はアメリカ流植民学を導入しようとしました。これは「未開人」を「近代人」に同化させよういう考え方です。
矢内原忠雄は植民政策学の学者として東大で教鞭をとりました。
柳田、新渡戸、矢内原は三人とも、植民地政策の専門家だったわけです。


徳富をはじめとして彼らの思想は、本人たちの好むと好まざるに関わらず、アジア主義の下地を形成していったわけです。

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