大川はユダヤ利用論者ではなかったのだろうかという指摘があります。
鮎川義介が「河豚計画」に関わって、ユダヤを利用しようとしたことは、前に述べましたが、大川もその側面を持ち合わせていたのではという指摘です。
大川は上海において、サッスーン財閥と繋がっていたという指摘があります。
サッスーン家とは、もともと18世紀にメソポタミアに台頭したユダヤ人の富豪家族で、トルコ治政下にあって、財務大臣を務めるほどの政商でした。
バグダッド(現在のイラク)で活動していましたが、シルクロードの交易によって富を蓄え、インドへ進出します。
インドのボンベイで、「サッスーン商会」を設立し、「東インド会社」からアヘンの専売権をとって、中国に売り、莫大な利益を上げたのです。
アヘン戦争以降、ユダヤ財閥は競って上海へ上陸していきました。
上海における当時のユダヤ人の人口は、中東出身のアラブ系ユダヤ人が700人、欧米系の白人ユダヤ人が4000人ほどで、白人系が圧倒的に多かったのですが、アラブ系のユダヤ人で英・米・仏国籍の有色人種系ユダヤ人が、あらゆる点で支配的勢力を占めていました。
サッスーン財閥は有色人種系ユダヤ人でしたが、上海屈指の豪商だったのです。
サッスーン家はロスチャイルド家とも血縁関係を結んでいます。
ロスチャイルド家はドイツのフランクフルトが出身地ですので、白人系ユダヤ人です。
ナチスの迫害を逃れ、イギリスを本拠地としました。
「サッスーン財閥」は、イギリスでもロスチャイルドと並び称されるユダヤ人大財閥でしたが、いろいろな点でロスチャイルドとは対照的でした。
何よりも、ロスチャイルドがヨーロッパのユダヤ人であったのに対し、サッスーン家はアジアのユダヤ人、「海のシルクロード」で活躍するユダヤ人であった点です。
「陸のシルクロード」も「海のシルクロード」も古くからユダヤ人の生活の舞台であり、8世紀から12世紀にかけて、これらの地域がイスラム世界に包摂されるようになっても、引き続きユダヤ人は、活動の場を広げていきました。
もともとイスラム世界には「ユダヤ人」という考え方はなく、イスラム教もユダヤ教も原典とする旧約聖書の「啓典の民」ユダヤ教徒として自治が認められ、各都市で一定の役割を与えられるようになっていました。
サッスーン家の祖先も、代々、イスラム帝国の都であったバグダッドの名族で、オスマン帝国の支配下では、ユダヤの「族長」とみなされていました。
ところが18世紀後半になると、ユダヤ教徒に対する圧迫が強まり、19世紀前半バグダッドを脱出し、インドに活路を見出します。
1832年ボンベイにて「サッスーン商会」を設立し、本格j的に開始したのが、「サッスーン財閥」の始まりです。
サッスーン家が、バグダッドを脱出してボンベイで成功を収めることができたのは、インド洋交易圏に広がるユダヤ人ネットワークを通じたからであって、イギリスがアジア市場に進出してきたのも、ヴァスコ・ダ・ガマの大航海以前、既にアジアに存在していた、中国からインドを経てアラビア世界にいたる交易圏を前提にしていたのです。
大川は、インドの独立運動家ラース・ビハリー・ボースを支援したことは、前に述べましたが、ボースを一時、自宅に匿うほど熱心だったのです。
ボースを支援するにあたり、大川はインドについての情報をサッスーン財閥から得ていたのだろうと思います。
大川は、やはりバクダッド出身で、英国籍の有色人種系ユダヤ人であるハードン財閥とも接触していたようです。
ハードンとサッスーンも対照的でした。
ハードンはサッスーンと同じくバグダッド(現イラク)に生まれたユダヤ人ですが、サッスーンのようなユダヤ名族ではなく、5歳でボンベイに移住し、1873年サッスーンで働いていた父の友人を頼って、香港から上海に来たときは無一文でした。ハードンは上海の「サッスーン商会」に雇われた後、1901年独立し、不動産業に乗り出しました。
サッスーンが、イギリスの爵位を得てイギリス上流階級入りを果たし、ロスチャイルドとも縁戚関係を結んだのに対し、ハードンは租界の範囲において、1887年にフランス租界公董局董事となり、1998年には共同租界工部局董事になるほか、さらに中国そのものに同化していきました。
この点では、彼の中国人妻・羅迦陵の影響が大きかったようです。
彼女の影響でハードンは篤く仏教に帰依し、1904年には、「ハードン花園」を建造して中国の人士と交際するサロンとしました。
その中には清朝の皇族から革命家の人物まで含まれていました。
しかし、サッスーンは武器売却先の軍閥など取引先相手を除いて、租界の外の中国人とは交わらず、盛んに行った慈善事業の対象も、中国ではなく、世界のユダヤ人同胞が中心でした。
大川は、ハードンとの接触によって、清朝の皇族から革命家まで交際範囲を広めつつ、ユダヤの情報を収集していったのだと思われます。
注目すべき点は、大川が接触したユダヤ人であるサッスーンもハードンもバグダッド出身の有色人種系ユダヤ人であったことです。
ユダヤ人利用論者と指摘のある、大川と鮎川義介も対照的です。
鮎川が「河豚計画」で対象としたユダヤ人は、白人系ユダヤ人でした。
ナチスの迫害から難を逃れた白人系ユダヤ人を満州に迎え入れる計画だったわけです。
当時の日本のシオニズム運動家であった、新渡戸稲造、矢内原忠雄も白人系ユダヤ人を対象にしていました。
それに対し、大川は有色人種系のユダヤ人と関係を深めています。
大川は、シオニズム運動が、パレスチナのアラブの犠牲の上に成り立つという事態をいちはやく知るにつれ、白人系ユダヤ人を対象としたシオニズム運動は虚構のものであるということを見抜いていたのではと思われるのです。
大川もやはり、もともとキリスト教徒でしたが、イスラム研究をライフワークとしました。
晩年、コーランの全文和訳という大業を果たしています。
満鉄調査部に在籍し、有色人種系ユダヤ人との交流とイスラム研究の過程において、当時の「日ユ同祖論」が、白人系ユダヤ人を対象としていたことに対しても、虚構であることを見抜いていたのではと思います。
東京裁判において、大川は不起訴となりましたが、連合国側としては、大川がユダヤ財閥とのつながりによって知り得た秘密を暴露されることを恐れたのだろうと指摘されています。
また、大川が「君民共治」を全面に出して論陣をはることにも危惧を抱いたのであろうと指摘されています。
インドのパール判事が、各被告は各起訴全て無罪とし、多数判決に同意し得ず、反対意見を述べたのは、注目すべき点です。
「君民共治」とは、ユダヤ人が理想とした政治形態だったようです。
サッスーン財閥の顧問をしていた人でモルデカイ・モーゼというユダヤ人がいます。
彼は、ソ連からドイツに亡命し、国際連盟労働局で極東問題を担当していました。
独ソ不可侵条約が結ばれるやいなや、その本質がユダヤ勢力の抑圧にあることを看破し、ハルビンを経て上海に亡命しています。
1941年には米国へ亡命し、対日戦後処理の立案にも関わりました。
戦後は10数回来日し、日本研究に余生を送りました。
そんな彼が著したのが「日本人に謝りたい」(1979年出版)という一冊です。
詳しくはこちら
を参照してください。
このなかで彼は、「君民共治」について、ユダヤ人でもある啓蒙主義の大思想家、ジャン・ジャック・ルソーが著した「社会契約論」の中の次の一節から説明しています。
「人もし随意に祖国を選べというなら、君主と人民の間に利害関係の対立のない国を選ぶ。自分は君民共治を理想とするが、そのようなものが地上に存在するはずもないだろう。したがって自分はやむを得ず民主主義を選ぶのである。」
ここでいう「君民共治」とは、君主が決して国民大衆に対して搾取者の位置にあることなく、したがって国民大衆も君主から搾取されることのない政治体制のことです。
モルデカイ・モーゼは世界で唯一この理想を日本の天皇制において実現されていることに驚き、戦後、日本を尊敬し、こよなく愛するようになったのだそうです。
大川が、上海にて「サッスーン財閥」と関係を深めている間に、モルデカイ・モーゼとも交流があったであろうことは想像に難くありません。
以上、ジャーナリストの岩上安見氏とのインタビューの中で、板垣先生があげた5人について、私なりに考察をしてみました。
この5人は、皆シオニズム運動に関わり、多かれ少なかれ、好むと好まざるにかかわらず、「日ユ同祖論」に関与していました。
板垣先生は、インタビューの最後に、ご自身が子供のころ洗礼をうけたクリスチャンであることを打ち明けられたのは、とても印象的でした。
ちなみに私は、毎朝、仏壇に手を合わせる仏教徒であり、正月には神社を参拝し、クリスマスイブにはケーキを食べる、ごく普通の日本人です。
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