2014年10月28日火曜日

岩上氏による板垣先生のインタビューから⑤日本の知識人1

板垣先生は、大正時代の日本の知識人で、日本人の思想形成を担った人物として、内村鑑三、徳富蘆花、大川周明、柳田國男、出口王仁三郎の五人をあげています。
彼らはいずれもバルフォア宣言に関心を持っていたのだそうです。

ここでもう一度、岩上氏による板垣先生のインタビューの一節を引用します。
「徳富蘆花は夫婦でエルサレムに行くんです。」。
「柳田國男もパレスチナと関わりがありました。彼は国際連盟委任統治の委員としてジュネーブに行って仕事をしました。国連に頼まれて植民地統治をする、という仕組みが第一次大戦後作られたわけですが、日本はそれをミクロネシアに適用していくわけです。」

国際連盟委任統治の仕組みが、台湾、朝鮮半島、満州の植民地政策に反映させられ、アジア主義の下地となったのだと思います。

サイクス・ピコ協定、バルフォア宣言の後1920年、当時の主要連合国(イギリス、フランス、日本、ギリシャ、ベルギー)によるサンレモ会議が開かれました。

サンレモ会議の結論を国際連盟が承認し、パレスチナのイギリス委任統治が国際的に確定されたのです。

日本も歴史上、当時の主要国の一員であったこともあり、シオニズム運動に加担してしまっていたわけです。

板垣先生があげた5人について、私なりに考察してみたいと思います。

日本のキリスト教シオニストの系譜は徳富蘆花にまでさかのぼります。徳富蘆花は、キリスト教の影響を受け、トルストイに傾倒します。
1906年にエルサレムに巡礼の旅に出て、トルストイとも会うことができ、帰国後「順礼紀行」を著しました。
(トルストイが著した「戦争と平和」はクリミア戦争が舞台となっており、今のウクライナ危機も、ここを基点に考えるべきなようです。ロシア帝政時代のユダヤ人への集団的迫害行為「ポグロム」がキーワードです。)

徳富は1920年には世界一周旅行をして、途中やはり、エルサレムに立ち寄っています。
帰国後、著したのが「日本から日本へ」です。

この題名は一般には、日本を出発して、世界を一周し、日本に帰ってきたからという解釈がされています。
たしかに、欧米を回ってきていますが、目的はやはりエルサレムだったのだと思います。

話は飛躍しますが、日本の平安京はユダヤ人の言語であるヘブライ語に訳すと「エル・シャラーム」となります。
つまりエルサレムなのです。

これも余談になりますが、アインシュタインがユダヤ人で親日家であったことはよく知られています。彼が伊勢神宮を参拝した時に、感激のあまり泣き崩れてしまったという逸話があります。
あまりの美しさによるものと、解釈されていますが、私は彼の直感力が伊勢神宮を観たとき、心の故郷であるエルサレムを想起させたためではないかと思っています。

平安京、伊勢神宮とユダヤの関係は後々触れたいと思います。

話が脱線しましたが、徳富蘆花が著した「日本から日本へ」は、つまり「平安京からエルサレムへ」だったのではないかと思っています。

徳富蘆花が二度目にエルサレムを訪問した1920年は国際連盟が設立された年です。
新渡戸稲造が事務局次長になりました。
後任が矢内原忠雄です。
柳田國男は国際連盟委任統治の委員として、ジュネーブに赴任しています。

新渡戸稲造と内村鑑三は札幌農学校(後の北海道大学、「少年よ大志をいだけ」のクラーク博士の影響を受ける。)時代の級友です。
この時期、二人とも、洗礼を受けキリスト教徒になっています。
新渡戸が英文で著した「武士道」は、欧米でベストセラーとなりました。

1909年、新渡戸の提唱で「郷土会」が発足します。
これは自主的な制約のない立場から各地の郷土の制度、慣習、民間伝承などの事象を研究し調査することを主眼としました。

この中の主要メンバーに柳田國男がいたのです。

徳富蘆花の講演を高校生時代に聞いた矢内原忠雄(経済学者、植民政策学者で東京大学総長)は強い感銘を受けるとともに、同じ年に内村鑑三によって始められた無教会派の聖書研究会に参加するようになったのです。

内村鑑三の無教会派は日本独自のキリスト教運動で、教会制度を否定し、日本の精神的伝統(新渡戸の武士道や柳田の民間伝承)とキリスト教精神との調和をめざしたのです。

矢内原は1922年パレスチナに行きましたが、イスラエルの復活は聖書の預言の成就であるとしてシオニストの活動に注目しました。

このように日本におけるキリスト教シオニズムの運動はヨーロッパから伝播した伝統的な教会制度から距離を置いた独自のものとして発展したのです。

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