2018年4月16日月曜日

日本人にとっての“integrity”とは⑦日本における秩序について

次に、日本人の秩序についてです。

山本氏は、「礼楽」が日本の上下関係を支配していると指摘しています。
中国では秩序の基本的原則が「礼楽」です。
日本の組織は、「礼楽」でだけ成り立っているのであって、契約で成り立っているのではありません。
「礼」が言葉のなかに組み込まれ敬語という形になっているのです。
言葉のなかに秩序が組み込まれているということです。
上から下の関係が「礼」で、下から上の関係が「義」です。
日本の組織で上下関係を律する秩序原則はこれだけだと述べています。
そして、日本の組織は、
「1.能力主義
2.一揆的集団組織 会社員の不満 上司が細かい
3.礼楽的上下関係 会社員の不満 上司の言い方が気に入らない」

上司が自分に対する正当な評価ができない、細かいことまで口を出したり、敬語の使い方が良くないと秩序が保たれないと指摘しています。

会社においても、セールス能力と、人を管理していく能力は別で,,後者は「器量」と言えます。
「器量」を手に入れるのは「徳」であり、
人徳がなければ人望がない 人望がないと部下がついてこない、これが当たり前となっていると指摘しています。

単に能力が高くても、「器量」が伴わなければリーダーになれず、そのためには「人徳」がなければならないということです。

「『中庸』徳の至れるもの『智はこれに過ぎ、愚はこれに及ばず』
  『喜怒哀楽未だ発せざる、これを中という』感情を発する前の状態
   この状態に人間は居なければならない
  『意なく、必なく、固なく、我なし』意地を全部通すと逆に窮屈になる」

「徳」に至るには「中庸」でなくてはならないとしています。

「社会的条件付け 徳と中庸 十思九徳 六正六邪
最大の要件は個人的資質=人徳 
一揆的な組織、能力主義、上下関係を律する『礼楽』
これらの特質を把握して、自己の定めた目標に向かって動かすことが条件付け権力によって組織を動かすリーダーの条件」

リーダーの条件としては、儒教の教えが社会的条件付けとなっているとしています。

儒教は思想であり同時にその思想を制度化する政治学でもあることを指摘したうえで、
日本はその歴史を通じて一度も儒教的体制をとったことがないと述べています。
これはどうみても正統ではなく、
中国、韓国は中央集権の国で科挙という国家試験によって、士大夫という統治階級が選ばれます。
日本は地方分権の封建制国家であり、個人倫理、また統治原則としての影響を強く受けました。
「論語」は、平和な時代にいかに革命を起こすかという発想はまったくなく、
 乱世になって混乱した社会にどうやって秩序を立てるか 「いわば秩序の学」としています。

応仁の乱以後の日本の秩序は、応仁の乱の混乱が出発点となってその混乱をどう秩序立てていくという形で秩序を作っていきました。
日本の転換期は13世紀ごろ、「論語」「貞観政要」「貞永式目」で始まっていると指摘しています。
「論語『有教無類』教え有りて類なし
孔子 教育万能主義 世の中を治めるのは政治ではなくてむしろ教育である
法治ではなく教治」

日本人は世の中がうまくいかないのは法律が悪いのだとは誰も言わないで、すべて教育が悪いとなり、自己制御としての「徳育」が、孔子の教育のすべてであるとしています。

中国では儒教通りにやらなくてはならないのは士大夫という統治階級であって
それ以外の庶民は道教であろうと仏教であろうとキリスト教であろうとイスラム教であろうと一向に構わないというのが中国の考え方であり、そのかわり庶民は法律で統治すると指摘しています。

皇帝が本当に聖人で官僚が全部君子であれば人民は救済されるとし、
中国人は政治的救済主義であるとしています。
日本で君子といった場合そういう意味はなく、
中国人のように君子と小人を統治者階級と被統治者階級というふうには日本人は全然考えていなかったと指摘しています。

「『女子と小人は養いがたし』女、子供は話せないやつだとなってしまう
中国では女子と小人というのは君子と淑女に対応する言葉」

「由らしむべし、知らしむべからず」も、「べし」「べからず」を“can”と解すか“should”と解すかで意味が違ってきます。

孔子は“can”としていたわけで、「庶民には、なんとなくわからせることはできても、細かいことをわからせるのは難しい」と言っていたわけですが、日本人では、「庶民には、なんとなくわからせておけばよいのであって、細かいことは、知らせる必要はない」となってしまいます。
これは、情報統制そのもので、「女、子供は黙ってろ」となってしまい、情報は隠蔽、捏造へと向かいます。

山本氏は、日本人の「論語」の解釈は、中国人とは違ってきていることについて、

「『論語』をもとにする新しい文化の創造
  一つの古典が別な国に行った場合しばしば起こる現象
  『聖書』ユダヤ人に言わせれば、キリスト教徒は『聖書』を全部誤読しているということになるが、それが別の文化をつくり上げた
  同じように『論語』が日本文化の形成に重要な役割を演じた
  孔子 リアリスト 『性相近し、習相遠し』」

人の天性は大体同じもので、ただ習うことによって善悪、賢愚の差が大きくなると指摘し、
孔子の教育方針の基本はあくまで社会人養成であるとしています。
それも社会の模範としての指導的地位を目指す者の教育であり、
 中国では統治者階級 官僚の養成ということになります。
孔子が教育に専念した目的は、
 現実に社会秩序をつくること、そして、その秩序を担っていく人間を養成することであり、
 現実主義とは孔子の場合、乱世すなわち非常に社会秩序が乱れている社会にどうやって秩序を立てるか 孔子にとって一生の課題であったわけです。
教育はそれに沿って行われました。

「聖書」もユダヤ人にとっては、キリスト教徒の解釈は誤っていることになるのと同じように、「論語」も中国人にとっては、日本人の解釈はおかしいということになりますが、山本氏は、これは新しい文化の創造であると指摘しています。

「孟子『義を損なう者これを賊といい、仁を損なう者これを残という』
殷の湯王、周の武王も『残賊の一夫』を誅殺 『臣にして君を弑する』ではない
徳を失った天子も残賊の一夫にすぎないのであって、これを殺しても反逆ではない
明恵上人 人間が無欲で静かな状態にいる状態を聖という これが政治の一番基本
    『性の静におることを聖という』
 北条泰時に、おまえが完全に無欲にならない限り天下を治めることはできないといった
いわば何事であれ秩序通りでなければならない。秩序の維持を最も大切とする」

北条泰時の承久の乱後、明恵上人は孟子の易姓革命を引き合いにして、秩序の維持の大切さを説明しています。

孔子がいっている「礼楽」は、礼儀と音楽のことです。
「礼」外面的規範を意味します。
アメリカ人において法は外的規範であるということと非常に似ていて、
中国においても「礼」というのは外的規範です。
 内心とは関係なく秩序を守るためにその通りにしなくてはならないため。
 そこで虚礼があり得るわけです。
「楽」とは元来の意味は音楽を意味します。
音楽とは外面的秩序を超えて全員の情感に訴えるものです。
皇帝と乞食がいるとして、いい音楽にはどちらも同じように内心の反応が起こる
「礼」という外的な秩序と「楽」という内心にともに共感する何か
  この二つがないと秩序は成り立たないわけです。
「楽」というのは上から下まで一本通っている一体感ないしは情感のようなものであり、
同時に「礼」というのはそれでいながら上下のけじめをはっきりと形でつけ、
秩序立てていく外的な規範になります。
この二つが完備しないと秩序ができなく、「礼楽興らざればすなわち刑罰中(あた)らず」で、
 外面的秩序と内心的一体感 それがない限り秩序はできないとしています。

日本は礼楽的社会で、ヨーロッパは契約的社会と、いえばいえますが、どの社会にも礼楽的要素はあります。
礼楽的秩序をつくりあげるための教育が「論語」であり、礼楽的秩序という強い伝統により、日本の社会は、犯罪も少なく、治安も良く、警察官も少なく、法律書を誰も読まないわけで、弁護士の数はアメリカの何十分の一です。

「『事業の一番基本は道徳』であって、資本ではない」
日本の場合、上下秩序が何によってできているかというと、今に至るまで儒教的原則であって、決してヨーロッパの組織的原則ではなかったのです。

小室氏は、儒教はもともと、すぐれて政治的な宗教であり、政治を離れて儒教の存在はありえなく、日本人はその政治的な部分をまったく無視し、単なる一種の人間学にしてしまったと述べています。
なぜ日本人が、すぐれて政治的な宗教たる儒教を誤解するか。それは市民道徳と政治家の道徳の違いを理解していないからであって、もっと言えば、政治家の道徳という独自の概念が存在することにすら、気付いていないからであるとしています。
政治家として真っ先にやるべきことは、非常によいところの市民道徳が通用するような秩序を作ることであると指摘しています。

「礼」という外的な秩序と「楽」という内心にともに共感する何か
この二つがないと秩序は成り立たず、「楽」というのは上から下まで一本通っている一体感ないしは情感のようなものであり、同時に「礼」というのはそれでいながら上下のけじめをはっきりと形でつけ、秩序立てていく垂直的な規範になります。
外面的秩序と内心的一体感 それがない限り秩序はできないとしています。


内心的一体感とは、儒者である石田梅岩のいう「天理即本然の性」=「本心」=「宇宙の秩序」であって、これが、唯一絶対的な神ととらえられるならば、「礼楽」は、日本人にとっての“integrity”であると考えられるように思えます。

2018年4月15日日曜日

日本人にとっての“integrity”とは⑥日本における東洋と西洋の思想の習合

次に、日本における東洋思想と西洋思想の習合についてです。

山本氏は、
「自分がそれによって生きている最も重要な生活の資を神々に捧げることは、いずれの民族でも行われてきた。また個人や集団や一国民の中の罪や瀆れを何らかの形で除くという祭儀や習俗もまた、いずれの国でも行われてきた。正月のおそなえ、月見のだんご、おみきなどは前者であり、おはらいは後者の一つであろう。さらに、罪や瀆れを洗い清めたり、何かに転嫁して除くという発想も、いずれの国にもあった。ヒナ人形を川に流したり、海に入って禊ぎを行ったりするのもその一例であろう。日本人は「無羊民族」だから、このような場合の供犠は穀物か魚か、せいぜいキジくらいに限られていたが、遊牧民ではこれが専ら家畜になって不思議ではない。そして理屈からいえば、この場合、その対象が羊であれ魚であれ米であれ、同じはずである。また屠殺なしでは生活できない人びとが、家畜の初子を神前で屠殺することもまた、初穂を捧げるのと原則的には違わないはずである。」

として、ユダヤ人と日本人の罪や穢れを洗い清めたり、何かに転嫁して除くという思想を、羊と穀物を例として比較しています。
ユダヤ人の家畜の初子を神前で屠殺することも、日本人の初穂を捧げるのと原則的に違わないと指摘しています。

小室氏は、
「仏教は、僧俗の峻別を重視する。  
イスラム教は僧の存在を認めない。
僧は世俗特に政治権力の干渉を受けず、極力これを排する。
イスラム教 宗教的差別を認めない。
仏教 宗教的行動の中心は出家して修行
日本仏教は仏教でなくなった 日本教の一宗派となった」

仏教は本来、出家して家族とも絶縁し、世俗特に政治権力の干渉を受けないものでありましたが、日本では、政治権力である朝廷の貴族たちに保護されたことにより、僧俗の峻別がなくなり、本来の仏教ではなく、「日本教」になってしまったと指摘しています。
また、
「救済は如来の方から一方的にくる 末法思想 罪深くなり過ぎ 努力しても無駄
親鸞 愛欲や名利にまどわされて修行に専念するどころではない。
パウロ クリスチャン 救済は神の方から一方的にくる
浄土宗 人間を救うことこそ神の本願
    人間が行為によって神に働きかけるのではない
法然、親鸞 『行い』なく、ただ『信仰』あるのみ
    ただ念仏を唱えなさい、そうすれば不思議なことに往生できる
日本人の心状態『全我を打ち任せての無我の心状態』
   キリスト教では無我で信じても救済されない
    『イエスキリストは必ず救ってくださる』と信じただけでは救済されない
    『神はイエスを死からよみがえらせたもうた』という事を信じなければならない
浄土宗は<法蔵比丘が念仏という本願を成就して阿弥陀仏になったゆえに念仏だけが本願力を有する>
罪人は罪人ながら『念仏を唱えて成仏す』という本願の不思議が生ずる」

救済に関しては、仏教もキリスト教も同じで、仏教は如来、キリスト教は神から一方的にくるものだとしています。
法然、親鸞は末法思想により、もはや罪深くなりすぎて修行に専念するどころではなく「信仰」あるのみとしました。

しかし、日本人は「無我の心状態」で念仏を唱えさえすれば救済されますが、キリスト教では、無我で信じても救済されることはなく、イエスが復活したことを信じなければ救済されないと、違いを指摘しています。

「キリスト教においては労働は救済の手段
 仏教では労働なんかしている時間はない
 出家者の集団たるサンガの戒律は労働を厳禁した
僧は、仏教において最も尊重される存在 すべて喜捨によって生活 労働してはならない」

本来の仏教の出家者は、修行のため労働をしてはならず、すべて喜捨によって生活したわけですが、日本では末法思想により、罪深くなりすぎて修行どころではなくなり、キリスト教と同じで労働による救済の考え方が芽生えてきます。

「宗教から戒律を抜くことこそ日本人の人心を得る秘訣 日本から法を消し去った 戒律不在が法不在を生んだ」

戒律不在が法不在を生み、日本人が人心を得る秘訣とはなんでしょうか。
仏教が、法不在となり、それに代わる日本人の規範は、儒教の「人徳」となっていきます。
「人徳」がなければ、人はついてこなくなってしまうわけです。

山本氏は、「昭和天皇の研究」において、
「立憲君主制とは、言葉を換えれば制限君主制である。そしてこの制限は、天皇にとっては明治大帝が定めたことであり、この制限の枠を絶対に一歩も踏み出すまいとされた。
『二・二六の時と、終戦の時と、この二回だけ、自分は立憲君主としての道を踏みまちがえた…』
美濃部達吉博士『絶対神とか、全知全能の神とかいう如き意味』ではなく、『限りなく尊く畏き御方』つまり『人』という意味にすぎないことは明確に記している。」

立憲君主制の天皇は、美濃部博士の天皇機関説から、絶対神としての「現人神」ではなく、「人」であるとしています。

また、本居宣長の
「『カミ』という概念は、欧米の『God』とは全く別のものである。
この『カミ』という言葉にさえ、天皇は明らかに不快感を示している。理由は、明治憲法は『天皇ハ国ノ元首』と規定していても、『現人神』などとは規定していないからである。
『人間宣言』における天皇の真の意図は、『カミ』と『God』が混淆すると、天皇は神権的絶対君主となってしまい、天皇の立憲君主という自己規定と、甚だ違ったイメージになる。
天皇は『憲法の命ずるところにより…』という言葉を使っている。いわば天皇がトップではなく、その上に憲法があり、この憲法の命ずるとおりにしているという意味である」

とし、天皇は立憲君主という自己規定を踏み間違え無いように終始徹底していました。

「杉浦重剛(倫理担当教師)は『仁=最大多数の最大幸福(ベンサム)』が持論であり、いわば中国思想とイギリス思想を習合させている。
白鳥庫吉(日本における歴史学の租)『神話が歴史に非ず』津田左右吉が継承。
杉浦重剛『三種の神器』を非神話化して『知仁勇=知情意』の象徴」

天皇の倫理担当教師であった、杉浦氏は、中国思想の「知仁勇」とイギリス思想の「知情意」を習合させて、「仁は最大多数の最大幸福」と規定しています。

「五箇条の御誓文『広ク会議ヲ興シ』であって、『門閥専横の政を斥け』ではなく、天皇にとっては、五箇条の御誓文とそれに基づく明治憲法を否定されることは、自分が否定されることであった。」

天皇は立憲君主制を自己規定とし、それを否定されることは、自分を否定されることであったと指摘しています。

「大嘗祭は豊作を感謝し来年の豊作を願う祭りで、天皇は祭主であり、祀る側であっても、祀られる側ではない」

天皇は祭主であり、祀られる神ではないと杉浦氏は指摘しています。
また、山本氏は

「天皇は第一次世界大戦の敗戦国の歴史でロシア皇帝の『ロシア正教の保護者』、オスマン・トルコ皇帝の『イスラム教主(カリフにしてスルタン)』といった宗教的神権的権威などは、何の力も持っていないことも知っておられた。
ポツダム宣言受諾『日本政府の形態は、日本国民の自由意思により決定されるべき』
天皇は軍部の反対にもかかわらず『少しも差し支えない、人民が離反したのではしょうがない、国民との紐帯がなくなれば、ドイツやトルコのように消えてしまう』
天皇のこの判断は正しい。自らの帝位を保持するため、国民を犠牲にして連合国と取引するような行為は、勝者との紐帯になるかもしれないが、それは逆に、国民との紐帯を断ち切る結果となったであろう」

天皇は、宗教的神権的権威などは、何の力も持たないとし、ポツダム宣言受諾のときも、軍部の反対にもかかわらず、連合国との取引に応じず、国民との紐帯を大事にしたと指摘しています。
これは、天皇の人柄、「人徳」を示しています。

山本氏は夏目漱石の草枕の冒頭分である
「智に働けば角が立つ、情に掉させば流される、意地を通せば窮屈だ、とかく人の世は住みにくい」を引用して、この文章はフランス人には理解することができないと指摘しています。

「日本人『物事を理知的に処理しすぎるとトラブルが起こる』に対し、フランス人『物事を理知的に処理しないからトラブルは起こるはず』。
日本人『感情を爆発させるとあらぬ方向に流される』に対し、フランス人『感情を抑えているから変な方向に流される』
日本人『意思を貫くと窮屈だ』に対し、フランス人『意思を貫けないから窮屈だ』」

フランス人の「知情意」の思想に対して、日本人の思想は儒教の思想「知仁勇」であるとしています。

「日本人は『智はこれに過ぎ、愚はこれに及ばず』の『これ』は中庸のことである。
『喜怒哀楽未だ発せざる、これを中という』
『意なく、必なく、固なく、我なし』孔子(四絶)」

日本人の「人徳」は、ここからきます。

夏目漱石はイギリスに留学して、日本人の思想とイギリス人の思想の板挟みに苦しんだのも、日本人にとっての「人徳」がキリスト教的教義と相容れないのではと悩んだからではないでしょうか。

小室氏は「『日本教』は集団救済、個人救済である仏教、キリスト教どの宗教も日本に入ってきたらさいご集団救済になってしまう 儒教、ユダヤ教、日本教は集団救済」
と指摘しています。

山本氏は、ユダヤ人の贖罪羊と日本人の穢れを祓い清める儀式の類似を指摘し、
昭和天皇が立憲君主としての自己規定を徹底したことに関連して、倫理担当の教師であった、杉浦重剛が、[三種の神器]を非神話化して[知仁勇=知情意]の象徴と指摘しています。 
「知・情・意」は、キリスト教の教義からきています。
古代日本人の象徴としての「三種の神器」は、ユダヤ人の象徴である「契約の箱」と類似し、キリスト教の教義と一致することになります。

小室氏は、仏教の救済は如来の方から一方的にくることと、キリスト教の救済も神の方から一方的にくることの類似を指摘しています。
日本の仏教は、戒律を失くしながらキリスト教に近づいていきました。
つまり、外的規範から内的信仰に移行したわけです。
そして、個人救済であるはずの仏教とキリスト教は、集団救済の「日本教」に変質してしまいます。

古代日本人の象徴であった「三種の神器」は、現代日本人のとっての象徴「コメ」として継承されているのではないでしょうか。
そこに、豊作を願う祭主としての天皇が、国民の統合の象徴であるとともに、民族の継続性の象徴となると考えられます。


「日本教」である古代神道も仏教も、ユダヤ教あるいはキリスト教的“integrity”を内包してきているようにも思えます。

2018年4月14日土曜日

日本人にとっての“integrity”とは⑤日本におけるキリスト教について

次に、日本におけるキリスト教についてです。
小室氏は、
「日本の神勅は予定説
   仏教の戒律全廃を通じて、法もまた全廃された
   天皇 神の直系であるということ 正統性の根拠 仏教的正統生も加わってくる
   天皇の命令には臣下は絶対に抗することができない 是非善悪を問わない
   天皇が正しい命令を下すのではない、天皇の命令だから正しい
   いかなる命令であっても、天皇は『正しさ』を創造する、正統性を創造する
    これまさにキリスト教的神
   予定説から因果律へ
    『天皇は無条件に正しい』という予定説がくつがえって
    『良い政治をするものが正しい』という因果律が支配
   天皇絶対の予定説は善政主義の因果律にとって代わった

泰時 承久の乱 それまでの伝統にしたがえば、いかなる場合でも無条件で皇室は、政治的責任を免除されることになっていた。 
『天皇は何をしても正しい』のではない 天皇といえども自分の行為が原因となって生じた結果には責任があるとなり、武士の世は完成された」

日本の神勅は、キリスト教と同じ予定説であったと指摘しています。
つまり、天皇は無条件に正しく、是非善悪を問わず、天皇の命令には臣下は絶対に抗することができないということです。
これが、北条泰時の承久の乱によって、天皇絶対の予定説から善政主義の因果律に変わったとしています。
そして、貴族の時代から武士の時代に移行したとしています。

「神皇正統記」の天皇は無条件に善政を施しても施さなくても、徳があろうがなかろうが、天皇は「天壌無窮」(あめつちとともにきわまりない)の時代から
源頼朝が戦乱を治めて天皇はどうにもならなくなり、儒教的な善政主義(因果律)となったということです。
「天皇の復活
 承久の乱 『ポツダム宣言』受諾 『天皇人間宣言』神勅の正統性に致命的打撃
    イエスキリストの復活そのもの
    復活することによってイエスキリストであることを証明
    死と復活によってはじめて神であることを証明
    人はイエスを信ずるようになった
天皇は神である キリスト教的神である
キリスト教において神は死んで復活する
    天皇の死=承久の乱」

天皇が承久の乱で死んだという意味は、神勅の正統性に致命的打撃を受けたということで、「ポツダム宣言」を受諾し、「天皇人間宣言」をした時と同じであると述べています。

「承久の乱は昭和20年の敗戦同様 日本史に一新時代を画した事件
    天下の空気は一変 思潮は一変
    天皇イデオロギーは死んで善政主義が支配的となった
    天皇のキリスト教的神性は失われた
    天皇イデオロギーはひとたび死んだ 十字架上のイエスキリストのごとく
   承久の乱後、天皇イデオロギーが死んで、武士の世は完成をみた」

ということです。

「建武の中興 南北朝のいずれが正統であるか
 この大論争の過程を通じて承久の乱で死んだ天皇イデオロギーが復活してゆく
 天皇は神である 天皇が正しいことをするのではなく天皇がすることだから正しい 
天皇イデオロギーのドグマ(教義)
 天皇イデオロギーの教義が復活することによって天皇は『真の神』となった
     カルケドン信条の『真の神』のごとき神 キリスト教的神
     イエスキリストは『真の人』であり『真の神』である
ローマカトリック、プロテスタント諸派、ギリシャ正教、ロシア正教みな現人神派」

建武の中興での南北朝のいずれが正統であるかの議論の過程によって、天皇の教義である予定説の天皇イデオロギーが復活し、これは「アラヒトガミ」であるキリストと同じであるとしています。

「イスラム教の論理では現人神は出てこない
『人にして神』とはユダヤ教において有り得ぬ概念
啓典宗教のなかで現人神があり得るのはキリスト教のみ
ユダヤ教、イスラム教においては絶対にありえない
イエスキリストの神格は復活により確立された
イエスは復活によって真の人、真の神になった 死んでまた復活
神としての天皇の死と復活の過程も同型
『天皇は神である』とする古代以来の天皇イデオロギーは承久の乱で死んだ
崎門の学を中心とする論争過程を通じて幕末に復活する
この死と復活の過程を通じて天皇の神格は確立された
真の人、真の神として 現人神として キリスト教的神として
天皇イデオロギーが死んで復活するという過程を経ることによって
   天皇の予定説的、絶対的神としての神格は確立された」

キリストと同じで、死んで復活するという過程を経ることによって、「現人神」が確立されたとしています。

「家康は明らかに湯武放伐論(易姓革命、善政主義)絶対肯定の立場
    天皇権力は徳川幕府によって最低にまで押し下げられた
天皇の行動ルールは幕府が作る 『禁中並公家諸法度』
幕府儒教の中心をなすのが孟子イデオロギー湯武放伐論、易姓革命論
幕府の打倒、天皇イデオロギーの復活は湯武放伐論の否定から
 ここに崎門学(山崎闇斎学派)の決定的意味
 浅見けいさい門下では湯武放伐論を是とするものは討ち果たしてよい
崎門の学の展開過程は、天皇(上皇)の非倫理性を徹底的に追及することよってであった
 『反対方向性の共存を内包したバランスは毛筋ほどの差で崩れる』丸山真男
  天皇の非倫理性が徹底していればいるほど、それと共存する反対方向性によって
  天皇は絶対の高みへのぼってゆく 予定説の論理によって
  王のなすことはすべて正しい 究極の君臣関係
崎門の学の展開過程を通じて、承久の乱で死んだ天皇は現人神として復活した
予定説の論理が作動を開始し、明治維新へ一直線」

徳川幕府は、儒教的易姓革命を肯定し、天皇の権力を最低まで押し下げたとしています。
幕府を打倒するためには、儒教的易姓革命の否定が必要となりました。
天皇イデオロギーの復活には、天皇の非倫理性を徹底的に追及することによって、絶対的神としての予定説、つまり、「天皇のなすことはすべて正しい」という究極の君臣関係の構築により、明治維新へと突き進んでいきます。

小室氏は、承久の乱以前の天皇イデオロギーは、キリスト教の予定説とおなじであり、承久の乱以降、儒教的因果律に変わったことが、天皇の死であり、キリストと同じように復活によって、明治維新に進んでいくと指摘しています。

つまり、キリストと同じ「現人神」としての天皇が復活し、「大日本帝国憲法」の制定へと向かうとしているわけです。

しかし、「大日本帝国憲法」下においても、天皇は憲法に制約された存在でした。
「現人神」という思想は、制度化されたものではなかったのにもかかわらず、当時の人びとにどのようにとらえられていたのかを、よく考えてみる必要があります。
つまり、「現人神」という思想が、日本人にとっての“integrity”でありえたのかどうかということです。


2018年4月13日金曜日

日本人にとっての“integrity”とは④日本における仏教、儒教について

次に、日本における仏教についてです。

小室直樹氏によると、仏教の説教の効果は坊主の態度、物腰、人相、服装、口調、背景 道具立てによって決定されると指摘しています。
つまり、説教の内容は二の次で、僧の醸し出す雰囲気(空気)による効果としています。

仏教の論理は因果応報の因果律であり、因果律とキリスト教の予定説は真向対立するものです。
内村鑑三でさえ、神は不公平と嘆いたことを例として、因果律が骨の髄まで染み込んでしまっている日本人が、いかに予定説を理解することが困難であるかを説明しています。

仏教徒は、僧と俗人を類別します。
イスラム教に僧はなく、キリスト教にはあってもなくてもよいと小室氏は指摘しています。

「仏教において戒律はその本質
   キリスト教における『戒』は修道院が勝手に決めたルールで本質と関係ない
   儒教は家族道徳を根本規範とする 家族を棄てることは根本規範の蹂躙。
   日本は唯一の例外 最澄は戒律を廃止してしまった
    具足戒250戒を菩薩戒の十重戒、48軽戒に替えてしまった
 受戒の儀式を徹底的に簡素化」

山本七平氏は、因果応報が六界と一体化している世界が仏教の前提であり、
いかにしてその状態から脱せるかが仏教における救済のテーマと指摘しています。

小室氏は、修業により出家して、家族とさえ関係を断たねばならない僧は、儒教の家族道徳にも反するということもあり、日本の仏教は修行のための戒律を廃止してしまったというわけです。

「受戒は外面的儀式によらず内面的信仰による
 仏教の原点は人間の外面的行為から人間の内面的信仰へ
 世俗権力たる朝廷の勅許によって受戒の方法が変更された これが日本の特徴
 天台円戒の本質は精神的なものとなる 自誓受戒も許す
 伝教大師最澄は日本の仏教から戒律を追放
 日蓮 最澄が残したわずかな戒律も実質的になくした
 法然 戒律全廃
 親鸞 肉食妻帯の生活」

日本の平安仏教は朝廷の保護の元、上からの貴族のための仏教であったものが、鎌倉仏教では下からの民衆のための仏教となり、広く浸透していきます。
それは、最澄が戒律を追放し、日蓮、法然によって戒律は全廃され、親鸞にいたっては、肉食妻帯の生活を始めてしまったわけです。

ここで重要なのは、受戒は外面的儀式でしかなく、仏教の原点は人間の外面的行為から人間の内面的信仰へ移行したという指摘です。
これは、モーセの法律である人間の外面的行動を禁止し、イエスにより、法律の場は人間の内面たる心の中に移し変えられ、行動規範から心情規範への大転換したことと同じです。

山本氏は、日本の仏教が広く民衆に浸透していくにあたって、鈴木正三の功績をあげています。
鈴木正三の考え方は、
「宇宙の基本は一仏
一神教ではないが一仏教。 一仏論はキリスト教を連想させる
一仏には徳目が三つ
キリスト教の三位一体=「一つの本質」「三つのペルソナ」と相似
一つが月、一つか仏性仏心、一つが医(いやし)
仏の機能が三つの面に出ている」

とし、日本の仏教とキリスト教の相似性を指摘しています。

「月は天地自然の秩序、内心の秩序、山川草木悉皆成仏(万物はことごとく仏性を持つ)
もちろん人間の中心にも仏性はある 宇宙は自然の秩序 象徴的に月
仏はいやしてくださいと頼む宗教的対象 医
儒教では『天理即本然の性』 天理が内心の秩序
人間は知覚があって他と接触するために利害関係を生ずる
仏教でいえば仏性、儒教でいえば本性が侵される」

とし、日本の仏教と儒教の相似性も指摘しています。

「貪欲、怒り、愚痴 三毒が仏性を侵すから成仏できない 修行は、一種の予防医学
人間が仏性通りになることを成仏という
『衆生もまた仏なり』という言葉が成就して社会が全部うまくいく
『農業即仏行なり』おのおのの所作において成仏すればよい
 日常業務を全部禅のつもりでやっていけばみな成仏できる 万人成仏論
内心の安堵の獲得のために働くことが、『生命の充足を求める行為』一種の宗教現象
世は平和になったが閉塞状態 宗教的な救済へ脱出できる宗教的、心理的な道を拓いた」

鈴木正三によれば、修業は、俗世から解脱して出家し、家族とも縁を切るものであったものが、おのおのが日常業務をやっていれば、それそのものが修行であり、成仏できるとしました。

ここでやはり重要なことは、内心の安堵の獲得のために働くことが、一種の宗教現象であり、マックス・ヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」においての労働による救済との相似性がみられることです。

次に、日本における儒教についてです。
小室氏は、
「孟子流の善政主義である易姓革命とは、システムの調和を攪乱した暴君は放伐してシステムの秩序を回復
 前提としてあるのは規則正しい自然の循環と平天下の『秩序』との間の相関を調う思想」
と指摘しています。

山本氏は日本における儒教について、禅僧の鈴木正三との比較で、儒者の石田梅岩を引き合いに出しています。
徳川時代中期より儒教が浸透し、仏教時代から儒教時代へと進みます。

「石田梅岩の思想は、
 孟子の性善説 宇宙の基本は善
 正三の『仏』が『善』になり『月』が『天』になる
 天の秩序は内心の秩序 儒教の本然の性
 諸思想は薬のつもりで全部取り入れよ
 本心通りにしていればよろしい 日本人ははなはだ宗教的
 本心がない人間などという人種は日本人には扱えない人種 日本人は『本心教徒』
 『天理即本然の性』=『本心』=『宇宙の秩序』 本心においては全員が善人
  働いて食物を得ていれば、これが善=働くことが善
  人間が本心通りにしていること=働いていること
  勤勉=善 怠惰=悪
  働いていないということは正三的禅の修行からいっても罪悪
  儒教的な梅岩的規範からいっても罪悪
  人間、勤勉にならざるをいないという結果になる
  欧米の社会は、雇用契約とそれに基づくマニュアル通りの遂行を絶対視
  何らかのこういう組織的な原則とのそれに基づく個人の規範がない限り
  近代社会は機能しない」

山本氏は、北条泰時の貞永式目が、日本における秩序を作る大きな役割を果たしたと指摘したうえで、貞永式目においては宗教、宗派全部認められている点を重要視しています。
どの宗派にも特権は認めず、他宗派批判もしてはならないということで、「諸思想は薬のつもりで全部取り入れよ」となるわけです。

また、日本人は「本心教徒」であり、はなはだ宗教的であるとしています。
人間が本心通りにしていることは、働いていることであり、鈴木正三の「農業即仏行なり」と同じで、石田梅岩も勤勉に労働することが善であるとしています。
石田梅岩も、マックス・ヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」においての労働による救済との相似性がみられます。

欧米社会では、絶対的神との契約を守ることが、水平展開して、雇用契約とそれに基づくマニュアル通りの遂行を絶対視しました。

何らかのこういう組織的な原則とのそれに基づく個人の規範がない限り、近代社会は機能しないわけですが、現代の日本においても、孟子の性善説に基づく「本心」が秩序をつくり、社会を機能させていると、山本氏は指摘しています。

ここで重要と思われることは、小室氏が指摘する孟子の「易姓革命とは、システムの調和を攪乱した暴君は放伐してシステムの秩序を回復」するという点です。

暴君と化した湯、武は秩序を乱したので放伐してよいことになるわけですが、その前提として、聖天子としての尭、舜の存在があります。

「怪力乱神」を語らなかった孔子も晩年には天命を嘆いています。
つまり、実際主義者であった孔子も、尭舜の聖天子はなにもせずとも、ただ北極星に向かって座っているだけで、それを中心に、他の星々が秩序正しく回っていくようになることが理想だとしました。

これが、日本においては「天命」という「宇宙の秩序」としての垂直的規範が、「天理即本然の性」である「本心」として広く民衆に水平展開していったと考えられます。

しかし、垂直的規範としての「天命」が、日本人にとっての“integrity”であるためには、啓典宗教を信仰する人びとの「唯一絶対の神からの命令」でなくてはならないという問題が残ります。

つまり、一神教では、絶対的な神によって、すべてを相対化して考えることができるわけですが、日本人は八百万の神のように、次から次へと絶対化する対象をと乗り換えていってしまうため、物事を相対化して考えることが苦手なわけです。

日本人の「付和雷同しやすい」とか、「熱しやすく冷めやすい」という習性はここからくると、小室氏も山本氏も指摘しています。

これらについて、引き続き両氏の著作を引用しつつ、考察を進めていきたいと思います。


2018年4月12日木曜日

日本人にとっての“integrity”とは③日本人とユダヤ人について

小室直樹氏はユダヤ教に関して、
「ユダヤ教は『律法』法律を守ることが『救いの恩恵』の条件
『掟を守る』ことが約束の地へ帰還できる<必要かつ十分条件>である
神と人との極端なまでの相性の悪さ
人間はいつ神にみなごろしにされるかわからない
神との契約=神の命令=法 これを守ること
ユダヤ教的発想は善悪としての判断基準は客観的には存在しない
神との契約の担当者=預言者
神はその栄光のために人間を必要とする
イスラエル人の集団のまとまりとしてのシンボル 契約の箱
ユダヤ教が存立し得るとすれば、人間の内部においてのみ」

とし、ユダヤ人が神との契約をなかなか守れないことに、何度となくイスラエルの民を滅ぼそうとした歴史がテーマになっていることを指摘しています。
イスラエルの民のシンボルであった「契約の箱」を喪失したことにより、ユダヤ教は本源的根拠を具象化された具体的なものにおかず、抽象的なものであるトーラーにおきました。

また、日本人とユダヤ人の比較として、
「日本人とユダヤ人は神によって土地を約束された
ユダヤ人は、圧倒的多数で強力な異民族の中に何千年も存在し続けて、しかもユダヤ民族としてのアイデンティティーを保持しえる
日本人は外国へ移住するやたちまち現地に同化し同一性を失う
ユダヤ人はどこに移住しても何千年、何百代たってもユダヤ人であり続け同一性を保ち続ける」

と指摘し、ユダヤ人は、ユダヤ教によりアイデンティティーを失うことはありませんが、日本人は外国へ移住すると日本人としてのアイデンティティーを失ってしまいます。

「神勅 主神天照は日本を天孫瓊瓊杵尊に与え皇統が永遠に続くことを宣言
日本という理想の土地が神によって与えられた
カナン「乳と蜜の流れる国」 日本「瑞穂の国」
神は無条件で日本を与えたもうた 神学的要諦
日本は無条件 ユダヤは条件付き 神が与えた法(神の命令・神との契約)を守ること」

これは、日本人とユダヤ人だけ神から望みの地をたまわったのであり、日本人は「神勅」によって ユダヤ人は「神と太祖アブラハムとの契約」によってであるとしています。

ユダヤ人は神との契約を守ることを条件にしているのに対して、日本人は無条件で理想の土地を与えられ、瑞穂の国に住み着いたきりで一度も去ることはないことにより、外国へ移住するとアイデンティティーを維持するための本源的根拠が希薄になるためと思います。

ユダヤ人は本来ならば滅ぼされるべきなのに不思議に生命をながらえ、流浪の民となりました。
そして、ユダヤ教の論理は因果律 神勅の論理は予定説であると指摘しています。
つまり、ユダヤ教は神との契約を守ることを条件とし、日本人の神勅の論理はキリスト教と同じで無条件であるとしています。
ここで、重要なのは、小室氏は、日本人の神とユダヤ人の神を同一視していることです。

山本七平氏は「あたりまえの研究」のなかで、ヒナ人形を例にして、日本人とユダヤ人の風習について比較しています。

「動物はやはり穀物ではない。したがってそこで感ずるさまざまな問題点が、ある種の思想へ昇華していっても不思議ではない。と同時にこの面がわれわれになく、その思想がたいへんに理解しにくいのも、また不思議ではない。
罪や瀆れを清める祭り、すなわち罪祭(キツプル)には、旧約聖書の時代には動物を捧げた。これはヒナ人形に罪を転嫁して流すのと似た発想で、捧げる動物は、身分によって牛、山羊、雄羊、羊ときまっていたが、一般庶民は羊なのでこれが最も多く、ここから『贖罪羊』という言葉が生まれた。だがこれは、羊にとっては、まことに割り切れない話であろう。元来は外部の狼から自分を守ってくれるはずの羊飼が、羊には無関係な自分の罪を羊に転嫁してこれを殺すのだから、こんな矛盾した話はない。もし羊に口がきけたら、『そんなバカげた話はない。自分の罪なら、羊飼が自分で責任を負えばよいであろう。そんなことで殺されるのはまっぴらだ』といったことであろう。人は穀物に対してはこういう感情移入はできないが、家畜にはこれができて不思議ではない。さらにこれが実際には行われなくなり、単に文書の中に残るだけになると、それがさまざまな思想に昇華したり、ある種の発想を誘発しても不思議ではない。」

ヒナ人形の「流し雛」は、穢れ払いの節句として、祓い人形と同様に身の穢れを水に流して清める意味の民俗行事として、現在も各地で行われている風習です。雛あられや菱餅など穀物を供えます。

ユダヤ教では、穀物ではなく動物を供えるのであって、おのずから供えるものに対する感情移入は違ってきます。

「ホロコスト―マは贖罪羊一頭を完全に焼きつくすという意味であり、『大量全員を焼き殺す』の意味ではない。
しかし、ユダヤ人がナチスの迫害と虐殺をホロコーストと規定しても少しも不思議ではなかった。彼らはその国の中にあって、それへの忠誠を示そうと涙ぐましい努力もした。
ヒトラーというとんでもない羊飼によって、さまざまな罪を転嫁され、絶対性を主張するナチズムの祭壇に燔祭の羊の如く捧げられたわけである。
その基本であるのは絶対主義である。個別主義の原則は、思想・信条の選択権は個人にあり、個人の選択の集約が政治権力を構成する。ところが絶対主義はそれがナチズムと呼ばれようと共産主義と呼ばれようと、以上の選択権を個人には認めない。
上からの改革という形で啓蒙主義を強行していくと、『人間はみな同じ人間である』が『人間はみな同じ人間であらねばならぬ』に転化する。この言葉が完全に相反する言葉だということを人は気づかないし、ユダヤ人も気づかなかった。というのは『同じ人間であらねばならぬ』のなら『同じ人間にしなければならぬ』になる」

小室氏は、因果律であるユダヤ教のユダヤ人は神との契約を守ることを条件として、集団が救済されるとしていることに対して、
日本人の神勅の論理はキリスト教と同じで無条件であり、予定説であると指摘しました。

キリストが人間の罪を贖うため、贖罪羊として十字架にかけられ、三日目にして復活したことを信ずることにより、個人は救済されるという教義を、日本人はどのようにとらえればよいのでしょうか。

山本氏は、ナチズムのような絶対主義が個人の思想・信条の自由を認めなくなると「人間はみな同じ人間である」が「同じ人間にしなければならぬ」になってしまい、ホロコーストの原意である供え物としの羊一頭を完全に焼き尽くすという意味が、全ての羊を焼き尽くすとなってしまいます。

ヒトラーという悪魔の羊飼いに、その国に対して涙ぐましい忠誠をつくす努力をしたにもかかわらず、ユダヤ人は迫害と虐殺をうけました。

日本人の穢れを清めるためのお祓いの風習は、どこからきたのでしょうか。

小室氏は、ユダヤ人には、カナン「乳と蜜の流れる国」、日本人には「瑞穂の国」という理想の土地を、神はお与えになったと指摘しています。

「カナン」は、遊牧民族であるユダヤ人にとっての理想の土地であり、「瑞穂の国」は稲作農耕民族である日本人にとっての理想の土地であると理解できます。

供え物の動物である「羊」は、ユダヤ人にとっての贖罪の「シンボル」であり、日本人にとっては、ひな祭りにおける供え物の雛あられや菱餅、つまり穀物である「コメ」が、穢れを清めるためのお祓いの風習における「象徴」であるわけです。

日本人にとっての贖罪の象徴としての「コメ」は、日本人にとっての“integrity”を考えるうえで、ひとつのヒントになるのではないかと思われます。


「神勅」の祭主である天皇の存在を考察していくことが、問題の核心にたどり着く方策であると思います。

2018年4月11日水曜日

日本人にとっての“integrity”とは②世界宗教に対する考え方の整理

小室直樹氏の「天皇の原理」より引用(「」内)して、世界宗教といわれる、仏教、儒教、キリスト教、イスラム教等について、その原理原則を整理してみたいと思います。

小室氏によると
「世界宗教は、本源的根拠を具象化された具体的なものにおかず、抽象的なものにおいている。
キリスト教の本源的根拠はイエスの現行たる預言、イスラム教の本源的根拠はアッラーの言葉たるコーランの情報におき、これらは、抽象的存在である。
仏教、儒教、キリスト教、イスラム教は根本的にはその教義を物の呪縛から解放した。
モーセはユダヤ教の本源的根拠を情報におき、ユダヤ教の法律と規範(倫理・道徳)は、まったく同義である。
ユダヤ教の根拠はトーラーだけであり、革命的変化(契約の箱の喪失)により、個人宗教へ重心を移した」

と述べています。つまり、ユダヤ教も「契約の箱」の喪失により、具体的なものから抽象的なトーラーに本源的根拠の重心を移したわけです。

次にそれぞれの救済の対象については
「ユダヤ教は個人救済ではなく集団救済であり、儒教と同じ、仏教、キリスト教、イスラム教は個人救済である」とし、救済の対象が個人と集団に区別されています。

救済理由としては、
「個人を救済するキリスト教の救済理由は『信仰』、集団を救済する儒教の救済理由は『徳行』である」と述べています。

ユダヤ教の論理としては、
「神が欲するところが正しい。神とは別に客観的に是非善悪の基準がない。『王を使って民を罰する』ことを政治を通じてなされる。これは、儒教と同じ。仏教的な考え方だと『法』は『仏』に先行する。ユダヤ教においては、王が犯した罪によって民が罰せられる」

つまり、ユダヤ教の神が絶対的であり、政治的な面は儒教と同じだが、仏教においての政治的な「法」が、「神」に相当する「仏」に先行することと対称的であると指摘しています。

次に、奇蹟については
「ユダヤ教とキリスト教の共通点は奇蹟の宗教だが、儒教、イスラム教は奇蹟のデモンストレーションを行わない。
仏教もまた奇蹟を認めない
ユダヤ教、キリスト教では奇蹟は宗教の中心的位置を占める。
奇蹟は魔法とはちがう ユダヤ教は魔法を厳禁 呪術からの解放をした。
ユダヤ教における救いは、危機に際して神が必ず奇蹟によってイスラエルの民を危機から脱せさせたもうた」

つまり、奇蹟と呪術を峻別し、ユダヤ教がイスラエルの民を集団救済し、キリスト教が個人を救済したのは、呪術のような魔法ではなく、絶対的な神の法律と規範(倫理・道徳)からの奇蹟によるものであることを強調しています。

一般に救いの定義としては、
「当該宗教がめざす人間最高の状態 宗教的至福」
具体的には 
「仏教の救い このうえなきさとりを開いて涅槃に入る。
 儒教の救い 聖人が天子の位について理想的な良い政治を行うこと。
 キリスト教の救い 神の国に入って永遠の生命を得る。
 イスラム教の救い イスラムの法を遵守して天国に入れてもらう。
 ユダヤ教の救い 神の奇蹟による危機からの脱出。救済単位はイスラエルの民全体で個人ではない」
としています。

次に予定説についてです。
「予定説とは、神が予め定めるグレイス(恩恵)によって救われる人とそうでない人の選別。これは、無条件の選別であり、当該の人の行いと無関係。
神は天と地とそれらの間にあるすべてのものを創造した。
それらの間にある法則も正当性も神の創造 天然といえども例外でない被造物。
ユダヤ教、キリスト教においては正、不正は、神とは別に存在するものではなく神の創造による。
神が欲することが正 欲せざることが不正 是非・善悪も。
これは、仏教とも儒教とも違う。
神の予定は絶対。
『神は公平である』ことを証明しなければならないと考えることこそ瀆神。
ユダヤ教、キリスト教はこの論理で一貫。
神は是非・善悪・正不正 まったく自由に任意に決定する。
それらは神が与えたまいし法に照らして決定 法とは神の命令であり神との契約である。
法はまた同時に社会規範でこの点はイスラム教と同様。
『善悪は法によって決められる』『法がなければ善悪なし』
法は神が自由に作る 神の自由な意思決定による。
人間の規範、是非善悪、正不正などに左右されない 左右されると考えることこそ瀆神。」

つまり、創造主である、絶対的な神は、被造物である人間の意志にも行動にも左右されず、不正 是非・善悪を自由に任意に決定でき、救われる人とそうでない人の選別も無条件にできるとしています。神の決定が、人間の意志に左右されると考えることこそ、神を冒涜するものとなります。
そして、
「救済の選別は天地創造より前にすでになされていた。
神が予定しない人だからこの人は悪しきことをする。
予定説は逆因果律 目的論 善行(悪行)と救済(救済されない)ということの因果関係が逆になっている。
キリストの贖いの死は、選ばれた者だけのためであって、全人類のためではない。
キリスト教徒になるのは神が選んだからである。
自らの意志で信仰に入るのではない。
救済は道徳とは無関係。
神意によって救済されると予定された者は神の憐みによって善人となり、救済せずと予定された者は神に反抗せしめられて悪人となる。
贖罪、復活、予定説はキリスト教の根本教義。
神の恩恵なくして善行をすることはできない」

つまり、予定説は仏教の因果律とは真逆であって、人間の善行、道徳(規範、是非善悪、正不正)に左右されることなく、神の憐みによってのみ、善人、悪人の選別がなされます。
さらに、
「秘蹟という儀礼(一種の呪術)によって恩恵をえられるカトリックは宗教活動において予定説から遠ざかっていった。
義しい、義しくないかは法(律法)にてらして決められる。
イエスキリストを信ずることによって義しいとされる。
人の行為はどうでもいいどころではなくて義しい人は一人もいない。
『神を信ずる』のは人間が求めて信ずるようになるのではなく、神が求めて信ぜしめる」

カトリックにおける秘蹟は、一種の呪術であるとし、キリスト教の根本教義から遠のくとは、イエスキリストを信ずることによってのみ義しいという教義に反するので、儀礼により恩恵を与えることができるというカトリックの宗教活動はおかしいと批判しています。

また、キリスト教における救済の原理は予定説であるのに対して
「ユダヤ教における救済の論理は因果律で予定説ではない。
 旧約によれば、神は無条件でイスラエルの民を救済するのではない。
 法を守った場合に限って神はイスラエルの民を救済する。
ユダヤ教は仏教、キリスト教、イスラム教とちがって個人救済ではない。
 儒教のごとき集団救済である。
 奇蹟によってイスラエルの民を危機から脱せしめてやることは、個人ではなくユダヤ人全体である。
個人においては予定説が作動 預言者を立てる。
すべての預言者は無条件で神の予定によって選ばれる。
ユダヤ教の宗教単位であるイスラエル民族全体に対して予定説は作動せず因果律の作動」

儒教のごとき集団救済のユダヤ教の救済の論理は因果律であると指摘しています。
法を守ったという条件で、神はイスラエルの民を救済するのであって無条件ではなく、預言者のみ個人において無条件で神の予定によって選ばれると指摘しています。
つまり、旧約聖書では、預言者個人以外の集団は因果律が作動し、新約聖書となってすべての個人に対して予定説が作動するということです。

予定説であるか因果律であるかの決定的違いは戒律の有無であるとしています。
「仏教においては仏教のルール戒律と世俗の法律とは全然ちがう。
 キリスト教には戒律はなく、法もない。
 人間の内面における問題で外面的な行動に関するルールではない。
 イエスキリストは人間の内面のみ問題として外面的行動を問題としない。
 福音書はトーラー、コーランとちがって法源とはなりえない。
 ゆえに元来、戒律も法ももたなかった。」

つまり、福音書には戒律という外面的な規範はなく、人間の内面のみを問題としているので、法源とはなりえないとしています。
さらに、キリスト教においては
「法律を守る人間なんて一人もいない すべての人間は法律を守らない。
 新約聖書は何事も命令せず何事も禁止しない。
キリスト教は罪も不義も不正もない。」
キリスト教では、人間はすべて罪人であるということを前提としていますので、命令も禁止もしていません。それに対してユダヤ教では、戒律によりイスラエルの民に対して法律を守るよう命令しています。
「モーセの法律 人間の外面的行動の禁止。
 イエス 法律の場は人間の内面たる心の中に移し変えられた。
 行動規範から心情規範への大転換。

 『罪なき者にかぎって刑の執行ができる』イエスの新判決。
  罪は外面的行動によって論ずべからず。
  キリスト教にかぎり神と法律を切断。」

旧約聖書ではモーセが戒律によって、外面的行動の禁止を命令しましたが、新約聖書のイエスは、人間は皆が罪人なのだから、罪人が罪人に刑の執行はできないとしました。

「法律と無関係に神に正しいとされる方法 イエスキリストを信ずること。
 外面的行動における正しさと内面的行動における正しさとを決然と区別。
 カトリック、プロテスタントの法、戒律の発明は本質的にイエスと関係ない。」

キリスト教においては、本来戒律があってはおかしいのであって、カトリックの秘蹟同様、イエスを信ずることのみを教義とすることに反するものとしています。

啓典宗教である、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教においては“integrity”としての規範が明確に規定されています。
違いは、ユダヤ教のみ救済対象が、儒教と同じ集団であり、キリスト教とイスラム教は個人です。
つまり、ユダヤ教と儒教が政治的宗教であるとされる所以です。

ユダヤ教とキリスト教の違いとしては救済対象が集団と個人ですが、両方とも抽象的情報である本源的根拠をユダヤ教はトーラーにキリスト教はイエスの預言においています。
しかし、ユダヤ教はトーラーに示された外的規範により、キリスト教はイエスの預言による人間の内面のみを問題にしています。

また、両方とも奇蹟を宗教的中心においていますが、呪術である魔法を禁止し、カトリックの秘蹟も儀礼的であり、イエスの預言から遠ざかるとしています。

仏教においては、戒律としての「法」が「仏」よりも先行しますが、キリスト教においては、戒律をなくしてしまい、ユダヤ教の「モーセの十戒」が補填します。

そして、ユダヤ教は因果律(予言者のみ予定説)であり、キリスト教は予定説、仏教、儒教は因果律です。


こうして整理してみますと“integrity”の対象となるのは、個人でも集団でもよいわけですが、規範としての戒律、法をどうとらえ、因果律あるいは予定説との関係をどう見ていくかが、日本人にとっても“integrity”があるのであれば、とても重要に思われます。

2018年4月10日火曜日

日本人にとっての“integrity”とは①


“Integrity”の日本語訳として、ふさわしい言葉がないという問題が、ネット上のガメ・オベール氏の提起として議論を呼んでいます。
私も、これはとても大事なことなのではないかと思い、よく考えてみたいと思いました。

“Integrity”という言葉は、啓典宗教であるユダヤ教、キリスト教、イスラム教を信仰するする人びとにとっては、「神との契約あるいは、神の命令を守らなくてはならない」という意味なのだと思います。

これはまさしく規範であり、天からの垂直的規範であると言えます。

それに対して日本人における規範は「他人のふり見て我がふり直せ」で水平的規範と考えられるわけです。
しかし、本当に日本人の規範はそれだけなのだろうかという疑問が、本書を書こうと思った動機です。

私が子供のころは、「悪いことをすると、お天道様の罰があたるよ」とか「嘘つくと閻魔様に舌を抜かれるよ」とか言われてしかられたものです。
これも、垂直的規範と呼べるのかもしれません。

しかし、“integrity”の神は唯一絶対的で、人間は被造物であり、神が作ったと考えます。
日本の神はお天道様であったり、閻魔様であったり、八百万の神で人間が作った神です。

“Integration”は“integrity”から派生した言葉と思われますが、日本語訳としては「統合」で、日本人に広く浸透し一般化しています。

日本国憲法第一条では、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」とあります。

この中の「統合」は“integration”であり、「象徴は」“symbol”です。
日本国憲法においては、「象徴」とは何かということについて、格別な規定がありません。

この国のかたちともいえる、憲法においても、天皇は“integrity”と“symbol”という日本人にとって曖昧ともいえる言葉によって表現されています。

天皇は、明治から昭和の終戦まで「アラヒトガミ」と思われていた時代においてさえ、お天道様や、閻魔様のように、人びとに罰を与えてくださる神であったわけではなく、キリスト教における、人であり、神である「アラヒトガミ」イエス・キリストのように、人びとを救済してくださる神であったわけでもありません。

日本人の規範は一体どこからきているのでしょうか。
私は、憲法第一条の「統合」と「象徴」という言葉が、この謎を解くキーワードになるのではと考えました。

日本人にとっての“integrity”はあるのだろうか、ないのだろうか、あったけれども忘れられてしまったのだろうか。

来年は、平成から新しい元号に変わります。これらのことを考察していくにあたっては、昭和から平成に移行する時代の論客であった、山本七平氏と小室直樹氏の対照的ともいえる、お二人の著作を比較引用しながら進めていきたいと思います。

山本七平氏は、「論語の読み方」のなかで、
「己の欲せざる所は、人に施すことなかれ」
「忠恕」とは何なのか。
「忠」は誠実、真心のことです。
「恕」については、
「子貢問いて曰く、一言にして以て終身これを行うべき者ありやと。子曰く、それ恕か。己の欲せざる所は、人に施すことなかれ」(衛霊公第十五)と。
孔子の原則は、これだけだといえる。
孔子が『仁』を問われ、その中でも、一条件としてこの言葉を述べているので、『仁』と『恕』はどういう関係にあるかということになり、『恕』は『仁』に至る方法と見てよいであろう」

では、孔子のいう「仁」の定義とは、「五つのことを広く行うことを仁とする」と答えています。
この五つの部分とは、「五つとは、恭・寛・信・敏・恵のことだ。自分が恭倹に謹めば他から侮られない。他人を寛大に取り扱えば多勢がついてくる。信用を重んずれば人が仕事を任せてくれる。敏捷に働けば能率があがる。恩恵をたれる人であって始めて、他人に命令して動かすことができる」と訳されています。

「仁」についてまた、孔子は「人を愛す」、「仁者は難きを先にして、獲るを後にす。仁と謂うべし」と述べています。

「愛」は、仏教では煩悩の一つとされ、キリスト教では、キリストは「愛」そのものとされます。

聖書では、マタイの福音書7章12節で、「だから、何事によらず自分にしてもらいたいと思うことを、あなた達もそのように人にしなさい。これが律法と預言者と(聖書)の精神である」(塚本虎二訳)

この聖書の、「自分にして欲しいことを他の人にもしなさい」と、論語の「自分のして欲しくないことは、他の人にしてはいけない」は、表現は逆ですが、お互い裏を返せば「逆も真なり」で、同じようなことを言っているように考えられます。

一方は聖書の精神であり、また一方は孔子の原則です。

この「聖書の精神」と「論語の原則」が、日本人にとっての“integrity”の謎を解く鍵のように思われます。