2018年4月14日土曜日

日本人にとっての“integrity”とは⑤日本におけるキリスト教について

次に、日本におけるキリスト教についてです。
小室氏は、
「日本の神勅は予定説
   仏教の戒律全廃を通じて、法もまた全廃された
   天皇 神の直系であるということ 正統性の根拠 仏教的正統生も加わってくる
   天皇の命令には臣下は絶対に抗することができない 是非善悪を問わない
   天皇が正しい命令を下すのではない、天皇の命令だから正しい
   いかなる命令であっても、天皇は『正しさ』を創造する、正統性を創造する
    これまさにキリスト教的神
   予定説から因果律へ
    『天皇は無条件に正しい』という予定説がくつがえって
    『良い政治をするものが正しい』という因果律が支配
   天皇絶対の予定説は善政主義の因果律にとって代わった

泰時 承久の乱 それまでの伝統にしたがえば、いかなる場合でも無条件で皇室は、政治的責任を免除されることになっていた。 
『天皇は何をしても正しい』のではない 天皇といえども自分の行為が原因となって生じた結果には責任があるとなり、武士の世は完成された」

日本の神勅は、キリスト教と同じ予定説であったと指摘しています。
つまり、天皇は無条件に正しく、是非善悪を問わず、天皇の命令には臣下は絶対に抗することができないということです。
これが、北条泰時の承久の乱によって、天皇絶対の予定説から善政主義の因果律に変わったとしています。
そして、貴族の時代から武士の時代に移行したとしています。

「神皇正統記」の天皇は無条件に善政を施しても施さなくても、徳があろうがなかろうが、天皇は「天壌無窮」(あめつちとともにきわまりない)の時代から
源頼朝が戦乱を治めて天皇はどうにもならなくなり、儒教的な善政主義(因果律)となったということです。
「天皇の復活
 承久の乱 『ポツダム宣言』受諾 『天皇人間宣言』神勅の正統性に致命的打撃
    イエスキリストの復活そのもの
    復活することによってイエスキリストであることを証明
    死と復活によってはじめて神であることを証明
    人はイエスを信ずるようになった
天皇は神である キリスト教的神である
キリスト教において神は死んで復活する
    天皇の死=承久の乱」

天皇が承久の乱で死んだという意味は、神勅の正統性に致命的打撃を受けたということで、「ポツダム宣言」を受諾し、「天皇人間宣言」をした時と同じであると述べています。

「承久の乱は昭和20年の敗戦同様 日本史に一新時代を画した事件
    天下の空気は一変 思潮は一変
    天皇イデオロギーは死んで善政主義が支配的となった
    天皇のキリスト教的神性は失われた
    天皇イデオロギーはひとたび死んだ 十字架上のイエスキリストのごとく
   承久の乱後、天皇イデオロギーが死んで、武士の世は完成をみた」

ということです。

「建武の中興 南北朝のいずれが正統であるか
 この大論争の過程を通じて承久の乱で死んだ天皇イデオロギーが復活してゆく
 天皇は神である 天皇が正しいことをするのではなく天皇がすることだから正しい 
天皇イデオロギーのドグマ(教義)
 天皇イデオロギーの教義が復活することによって天皇は『真の神』となった
     カルケドン信条の『真の神』のごとき神 キリスト教的神
     イエスキリストは『真の人』であり『真の神』である
ローマカトリック、プロテスタント諸派、ギリシャ正教、ロシア正教みな現人神派」

建武の中興での南北朝のいずれが正統であるかの議論の過程によって、天皇の教義である予定説の天皇イデオロギーが復活し、これは「アラヒトガミ」であるキリストと同じであるとしています。

「イスラム教の論理では現人神は出てこない
『人にして神』とはユダヤ教において有り得ぬ概念
啓典宗教のなかで現人神があり得るのはキリスト教のみ
ユダヤ教、イスラム教においては絶対にありえない
イエスキリストの神格は復活により確立された
イエスは復活によって真の人、真の神になった 死んでまた復活
神としての天皇の死と復活の過程も同型
『天皇は神である』とする古代以来の天皇イデオロギーは承久の乱で死んだ
崎門の学を中心とする論争過程を通じて幕末に復活する
この死と復活の過程を通じて天皇の神格は確立された
真の人、真の神として 現人神として キリスト教的神として
天皇イデオロギーが死んで復活するという過程を経ることによって
   天皇の予定説的、絶対的神としての神格は確立された」

キリストと同じで、死んで復活するという過程を経ることによって、「現人神」が確立されたとしています。

「家康は明らかに湯武放伐論(易姓革命、善政主義)絶対肯定の立場
    天皇権力は徳川幕府によって最低にまで押し下げられた
天皇の行動ルールは幕府が作る 『禁中並公家諸法度』
幕府儒教の中心をなすのが孟子イデオロギー湯武放伐論、易姓革命論
幕府の打倒、天皇イデオロギーの復活は湯武放伐論の否定から
 ここに崎門学(山崎闇斎学派)の決定的意味
 浅見けいさい門下では湯武放伐論を是とするものは討ち果たしてよい
崎門の学の展開過程は、天皇(上皇)の非倫理性を徹底的に追及することよってであった
 『反対方向性の共存を内包したバランスは毛筋ほどの差で崩れる』丸山真男
  天皇の非倫理性が徹底していればいるほど、それと共存する反対方向性によって
  天皇は絶対の高みへのぼってゆく 予定説の論理によって
  王のなすことはすべて正しい 究極の君臣関係
崎門の学の展開過程を通じて、承久の乱で死んだ天皇は現人神として復活した
予定説の論理が作動を開始し、明治維新へ一直線」

徳川幕府は、儒教的易姓革命を肯定し、天皇の権力を最低まで押し下げたとしています。
幕府を打倒するためには、儒教的易姓革命の否定が必要となりました。
天皇イデオロギーの復活には、天皇の非倫理性を徹底的に追及することによって、絶対的神としての予定説、つまり、「天皇のなすことはすべて正しい」という究極の君臣関係の構築により、明治維新へと突き進んでいきます。

小室氏は、承久の乱以前の天皇イデオロギーは、キリスト教の予定説とおなじであり、承久の乱以降、儒教的因果律に変わったことが、天皇の死であり、キリストと同じように復活によって、明治維新に進んでいくと指摘しています。

つまり、キリストと同じ「現人神」としての天皇が復活し、「大日本帝国憲法」の制定へと向かうとしているわけです。

しかし、「大日本帝国憲法」下においても、天皇は憲法に制約された存在でした。
「現人神」という思想は、制度化されたものではなかったのにもかかわらず、当時の人びとにどのようにとらえられていたのかを、よく考えてみる必要があります。
つまり、「現人神」という思想が、日本人にとっての“integrity”でありえたのかどうかということです。


2018年4月13日金曜日

日本人にとっての“integrity”とは④日本における仏教、儒教について

次に、日本における仏教についてです。

小室直樹氏によると、仏教の説教の効果は坊主の態度、物腰、人相、服装、口調、背景 道具立てによって決定されると指摘しています。
つまり、説教の内容は二の次で、僧の醸し出す雰囲気(空気)による効果としています。

仏教の論理は因果応報の因果律であり、因果律とキリスト教の予定説は真向対立するものです。
内村鑑三でさえ、神は不公平と嘆いたことを例として、因果律が骨の髄まで染み込んでしまっている日本人が、いかに予定説を理解することが困難であるかを説明しています。

仏教徒は、僧と俗人を類別します。
イスラム教に僧はなく、キリスト教にはあってもなくてもよいと小室氏は指摘しています。

「仏教において戒律はその本質
   キリスト教における『戒』は修道院が勝手に決めたルールで本質と関係ない
   儒教は家族道徳を根本規範とする 家族を棄てることは根本規範の蹂躙。
   日本は唯一の例外 最澄は戒律を廃止してしまった
    具足戒250戒を菩薩戒の十重戒、48軽戒に替えてしまった
 受戒の儀式を徹底的に簡素化」

山本七平氏は、因果応報が六界と一体化している世界が仏教の前提であり、
いかにしてその状態から脱せるかが仏教における救済のテーマと指摘しています。

小室氏は、修業により出家して、家族とさえ関係を断たねばならない僧は、儒教の家族道徳にも反するということもあり、日本の仏教は修行のための戒律を廃止してしまったというわけです。

「受戒は外面的儀式によらず内面的信仰による
 仏教の原点は人間の外面的行為から人間の内面的信仰へ
 世俗権力たる朝廷の勅許によって受戒の方法が変更された これが日本の特徴
 天台円戒の本質は精神的なものとなる 自誓受戒も許す
 伝教大師最澄は日本の仏教から戒律を追放
 日蓮 最澄が残したわずかな戒律も実質的になくした
 法然 戒律全廃
 親鸞 肉食妻帯の生活」

日本の平安仏教は朝廷の保護の元、上からの貴族のための仏教であったものが、鎌倉仏教では下からの民衆のための仏教となり、広く浸透していきます。
それは、最澄が戒律を追放し、日蓮、法然によって戒律は全廃され、親鸞にいたっては、肉食妻帯の生活を始めてしまったわけです。

ここで重要なのは、受戒は外面的儀式でしかなく、仏教の原点は人間の外面的行為から人間の内面的信仰へ移行したという指摘です。
これは、モーセの法律である人間の外面的行動を禁止し、イエスにより、法律の場は人間の内面たる心の中に移し変えられ、行動規範から心情規範への大転換したことと同じです。

山本氏は、日本の仏教が広く民衆に浸透していくにあたって、鈴木正三の功績をあげています。
鈴木正三の考え方は、
「宇宙の基本は一仏
一神教ではないが一仏教。 一仏論はキリスト教を連想させる
一仏には徳目が三つ
キリスト教の三位一体=「一つの本質」「三つのペルソナ」と相似
一つが月、一つか仏性仏心、一つが医(いやし)
仏の機能が三つの面に出ている」

とし、日本の仏教とキリスト教の相似性を指摘しています。

「月は天地自然の秩序、内心の秩序、山川草木悉皆成仏(万物はことごとく仏性を持つ)
もちろん人間の中心にも仏性はある 宇宙は自然の秩序 象徴的に月
仏はいやしてくださいと頼む宗教的対象 医
儒教では『天理即本然の性』 天理が内心の秩序
人間は知覚があって他と接触するために利害関係を生ずる
仏教でいえば仏性、儒教でいえば本性が侵される」

とし、日本の仏教と儒教の相似性も指摘しています。

「貪欲、怒り、愚痴 三毒が仏性を侵すから成仏できない 修行は、一種の予防医学
人間が仏性通りになることを成仏という
『衆生もまた仏なり』という言葉が成就して社会が全部うまくいく
『農業即仏行なり』おのおのの所作において成仏すればよい
 日常業務を全部禅のつもりでやっていけばみな成仏できる 万人成仏論
内心の安堵の獲得のために働くことが、『生命の充足を求める行為』一種の宗教現象
世は平和になったが閉塞状態 宗教的な救済へ脱出できる宗教的、心理的な道を拓いた」

鈴木正三によれば、修業は、俗世から解脱して出家し、家族とも縁を切るものであったものが、おのおのが日常業務をやっていれば、それそのものが修行であり、成仏できるとしました。

ここでやはり重要なことは、内心の安堵の獲得のために働くことが、一種の宗教現象であり、マックス・ヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」においての労働による救済との相似性がみられることです。

次に、日本における儒教についてです。
小室氏は、
「孟子流の善政主義である易姓革命とは、システムの調和を攪乱した暴君は放伐してシステムの秩序を回復
 前提としてあるのは規則正しい自然の循環と平天下の『秩序』との間の相関を調う思想」
と指摘しています。

山本氏は日本における儒教について、禅僧の鈴木正三との比較で、儒者の石田梅岩を引き合いに出しています。
徳川時代中期より儒教が浸透し、仏教時代から儒教時代へと進みます。

「石田梅岩の思想は、
 孟子の性善説 宇宙の基本は善
 正三の『仏』が『善』になり『月』が『天』になる
 天の秩序は内心の秩序 儒教の本然の性
 諸思想は薬のつもりで全部取り入れよ
 本心通りにしていればよろしい 日本人ははなはだ宗教的
 本心がない人間などという人種は日本人には扱えない人種 日本人は『本心教徒』
 『天理即本然の性』=『本心』=『宇宙の秩序』 本心においては全員が善人
  働いて食物を得ていれば、これが善=働くことが善
  人間が本心通りにしていること=働いていること
  勤勉=善 怠惰=悪
  働いていないということは正三的禅の修行からいっても罪悪
  儒教的な梅岩的規範からいっても罪悪
  人間、勤勉にならざるをいないという結果になる
  欧米の社会は、雇用契約とそれに基づくマニュアル通りの遂行を絶対視
  何らかのこういう組織的な原則とのそれに基づく個人の規範がない限り
  近代社会は機能しない」

山本氏は、北条泰時の貞永式目が、日本における秩序を作る大きな役割を果たしたと指摘したうえで、貞永式目においては宗教、宗派全部認められている点を重要視しています。
どの宗派にも特権は認めず、他宗派批判もしてはならないということで、「諸思想は薬のつもりで全部取り入れよ」となるわけです。

また、日本人は「本心教徒」であり、はなはだ宗教的であるとしています。
人間が本心通りにしていることは、働いていることであり、鈴木正三の「農業即仏行なり」と同じで、石田梅岩も勤勉に労働することが善であるとしています。
石田梅岩も、マックス・ヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」においての労働による救済との相似性がみられます。

欧米社会では、絶対的神との契約を守ることが、水平展開して、雇用契約とそれに基づくマニュアル通りの遂行を絶対視しました。

何らかのこういう組織的な原則とのそれに基づく個人の規範がない限り、近代社会は機能しないわけですが、現代の日本においても、孟子の性善説に基づく「本心」が秩序をつくり、社会を機能させていると、山本氏は指摘しています。

ここで重要と思われることは、小室氏が指摘する孟子の「易姓革命とは、システムの調和を攪乱した暴君は放伐してシステムの秩序を回復」するという点です。

暴君と化した湯、武は秩序を乱したので放伐してよいことになるわけですが、その前提として、聖天子としての尭、舜の存在があります。

「怪力乱神」を語らなかった孔子も晩年には天命を嘆いています。
つまり、実際主義者であった孔子も、尭舜の聖天子はなにもせずとも、ただ北極星に向かって座っているだけで、それを中心に、他の星々が秩序正しく回っていくようになることが理想だとしました。

これが、日本においては「天命」という「宇宙の秩序」としての垂直的規範が、「天理即本然の性」である「本心」として広く民衆に水平展開していったと考えられます。

しかし、垂直的規範としての「天命」が、日本人にとっての“integrity”であるためには、啓典宗教を信仰する人びとの「唯一絶対の神からの命令」でなくてはならないという問題が残ります。

つまり、一神教では、絶対的な神によって、すべてを相対化して考えることができるわけですが、日本人は八百万の神のように、次から次へと絶対化する対象をと乗り換えていってしまうため、物事を相対化して考えることが苦手なわけです。

日本人の「付和雷同しやすい」とか、「熱しやすく冷めやすい」という習性はここからくると、小室氏も山本氏も指摘しています。

これらについて、引き続き両氏の著作を引用しつつ、考察を進めていきたいと思います。


2018年4月12日木曜日

日本人にとっての“integrity”とは③日本人とユダヤ人について

小室直樹氏はユダヤ教に関して、
「ユダヤ教は『律法』法律を守ることが『救いの恩恵』の条件
『掟を守る』ことが約束の地へ帰還できる<必要かつ十分条件>である
神と人との極端なまでの相性の悪さ
人間はいつ神にみなごろしにされるかわからない
神との契約=神の命令=法 これを守ること
ユダヤ教的発想は善悪としての判断基準は客観的には存在しない
神との契約の担当者=預言者
神はその栄光のために人間を必要とする
イスラエル人の集団のまとまりとしてのシンボル 契約の箱
ユダヤ教が存立し得るとすれば、人間の内部においてのみ」

とし、ユダヤ人が神との契約をなかなか守れないことに、何度となくイスラエルの民を滅ぼそうとした歴史がテーマになっていることを指摘しています。
イスラエルの民のシンボルであった「契約の箱」を喪失したことにより、ユダヤ教は本源的根拠を具象化された具体的なものにおかず、抽象的なものであるトーラーにおきました。

また、日本人とユダヤ人の比較として、
「日本人とユダヤ人は神によって土地を約束された
ユダヤ人は、圧倒的多数で強力な異民族の中に何千年も存在し続けて、しかもユダヤ民族としてのアイデンティティーを保持しえる
日本人は外国へ移住するやたちまち現地に同化し同一性を失う
ユダヤ人はどこに移住しても何千年、何百代たってもユダヤ人であり続け同一性を保ち続ける」

と指摘し、ユダヤ人は、ユダヤ教によりアイデンティティーを失うことはありませんが、日本人は外国へ移住すると日本人としてのアイデンティティーを失ってしまいます。

「神勅 主神天照は日本を天孫瓊瓊杵尊に与え皇統が永遠に続くことを宣言
日本という理想の土地が神によって与えられた
カナン「乳と蜜の流れる国」 日本「瑞穂の国」
神は無条件で日本を与えたもうた 神学的要諦
日本は無条件 ユダヤは条件付き 神が与えた法(神の命令・神との契約)を守ること」

これは、日本人とユダヤ人だけ神から望みの地をたまわったのであり、日本人は「神勅」によって ユダヤ人は「神と太祖アブラハムとの契約」によってであるとしています。

ユダヤ人は神との契約を守ることを条件にしているのに対して、日本人は無条件で理想の土地を与えられ、瑞穂の国に住み着いたきりで一度も去ることはないことにより、外国へ移住するとアイデンティティーを維持するための本源的根拠が希薄になるためと思います。

ユダヤ人は本来ならば滅ぼされるべきなのに不思議に生命をながらえ、流浪の民となりました。
そして、ユダヤ教の論理は因果律 神勅の論理は予定説であると指摘しています。
つまり、ユダヤ教は神との契約を守ることを条件とし、日本人の神勅の論理はキリスト教と同じで無条件であるとしています。
ここで、重要なのは、小室氏は、日本人の神とユダヤ人の神を同一視していることです。

山本七平氏は「あたりまえの研究」のなかで、ヒナ人形を例にして、日本人とユダヤ人の風習について比較しています。

「動物はやはり穀物ではない。したがってそこで感ずるさまざまな問題点が、ある種の思想へ昇華していっても不思議ではない。と同時にこの面がわれわれになく、その思想がたいへんに理解しにくいのも、また不思議ではない。
罪や瀆れを清める祭り、すなわち罪祭(キツプル)には、旧約聖書の時代には動物を捧げた。これはヒナ人形に罪を転嫁して流すのと似た発想で、捧げる動物は、身分によって牛、山羊、雄羊、羊ときまっていたが、一般庶民は羊なのでこれが最も多く、ここから『贖罪羊』という言葉が生まれた。だがこれは、羊にとっては、まことに割り切れない話であろう。元来は外部の狼から自分を守ってくれるはずの羊飼が、羊には無関係な自分の罪を羊に転嫁してこれを殺すのだから、こんな矛盾した話はない。もし羊に口がきけたら、『そんなバカげた話はない。自分の罪なら、羊飼が自分で責任を負えばよいであろう。そんなことで殺されるのはまっぴらだ』といったことであろう。人は穀物に対してはこういう感情移入はできないが、家畜にはこれができて不思議ではない。さらにこれが実際には行われなくなり、単に文書の中に残るだけになると、それがさまざまな思想に昇華したり、ある種の発想を誘発しても不思議ではない。」

ヒナ人形の「流し雛」は、穢れ払いの節句として、祓い人形と同様に身の穢れを水に流して清める意味の民俗行事として、現在も各地で行われている風習です。雛あられや菱餅など穀物を供えます。

ユダヤ教では、穀物ではなく動物を供えるのであって、おのずから供えるものに対する感情移入は違ってきます。

「ホロコスト―マは贖罪羊一頭を完全に焼きつくすという意味であり、『大量全員を焼き殺す』の意味ではない。
しかし、ユダヤ人がナチスの迫害と虐殺をホロコーストと規定しても少しも不思議ではなかった。彼らはその国の中にあって、それへの忠誠を示そうと涙ぐましい努力もした。
ヒトラーというとんでもない羊飼によって、さまざまな罪を転嫁され、絶対性を主張するナチズムの祭壇に燔祭の羊の如く捧げられたわけである。
その基本であるのは絶対主義である。個別主義の原則は、思想・信条の選択権は個人にあり、個人の選択の集約が政治権力を構成する。ところが絶対主義はそれがナチズムと呼ばれようと共産主義と呼ばれようと、以上の選択権を個人には認めない。
上からの改革という形で啓蒙主義を強行していくと、『人間はみな同じ人間である』が『人間はみな同じ人間であらねばならぬ』に転化する。この言葉が完全に相反する言葉だということを人は気づかないし、ユダヤ人も気づかなかった。というのは『同じ人間であらねばならぬ』のなら『同じ人間にしなければならぬ』になる」

小室氏は、因果律であるユダヤ教のユダヤ人は神との契約を守ることを条件として、集団が救済されるとしていることに対して、
日本人の神勅の論理はキリスト教と同じで無条件であり、予定説であると指摘しました。

キリストが人間の罪を贖うため、贖罪羊として十字架にかけられ、三日目にして復活したことを信ずることにより、個人は救済されるという教義を、日本人はどのようにとらえればよいのでしょうか。

山本氏は、ナチズムのような絶対主義が個人の思想・信条の自由を認めなくなると「人間はみな同じ人間である」が「同じ人間にしなければならぬ」になってしまい、ホロコーストの原意である供え物としの羊一頭を完全に焼き尽くすという意味が、全ての羊を焼き尽くすとなってしまいます。

ヒトラーという悪魔の羊飼いに、その国に対して涙ぐましい忠誠をつくす努力をしたにもかかわらず、ユダヤ人は迫害と虐殺をうけました。

日本人の穢れを清めるためのお祓いの風習は、どこからきたのでしょうか。

小室氏は、ユダヤ人には、カナン「乳と蜜の流れる国」、日本人には「瑞穂の国」という理想の土地を、神はお与えになったと指摘しています。

「カナン」は、遊牧民族であるユダヤ人にとっての理想の土地であり、「瑞穂の国」は稲作農耕民族である日本人にとっての理想の土地であると理解できます。

供え物の動物である「羊」は、ユダヤ人にとっての贖罪の「シンボル」であり、日本人にとっては、ひな祭りにおける供え物の雛あられや菱餅、つまり穀物である「コメ」が、穢れを清めるためのお祓いの風習における「象徴」であるわけです。

日本人にとっての贖罪の象徴としての「コメ」は、日本人にとっての“integrity”を考えるうえで、ひとつのヒントになるのではないかと思われます。


「神勅」の祭主である天皇の存在を考察していくことが、問題の核心にたどり着く方策であると思います。

2018年4月11日水曜日

日本人にとっての“integrity”とは②世界宗教に対する考え方の整理

小室直樹氏の「天皇の原理」より引用(「」内)して、世界宗教といわれる、仏教、儒教、キリスト教、イスラム教等について、その原理原則を整理してみたいと思います。

小室氏によると
「世界宗教は、本源的根拠を具象化された具体的なものにおかず、抽象的なものにおいている。
キリスト教の本源的根拠はイエスの現行たる預言、イスラム教の本源的根拠はアッラーの言葉たるコーランの情報におき、これらは、抽象的存在である。
仏教、儒教、キリスト教、イスラム教は根本的にはその教義を物の呪縛から解放した。
モーセはユダヤ教の本源的根拠を情報におき、ユダヤ教の法律と規範(倫理・道徳)は、まったく同義である。
ユダヤ教の根拠はトーラーだけであり、革命的変化(契約の箱の喪失)により、個人宗教へ重心を移した」

と述べています。つまり、ユダヤ教も「契約の箱」の喪失により、具体的なものから抽象的なトーラーに本源的根拠の重心を移したわけです。

次にそれぞれの救済の対象については
「ユダヤ教は個人救済ではなく集団救済であり、儒教と同じ、仏教、キリスト教、イスラム教は個人救済である」とし、救済の対象が個人と集団に区別されています。

救済理由としては、
「個人を救済するキリスト教の救済理由は『信仰』、集団を救済する儒教の救済理由は『徳行』である」と述べています。

ユダヤ教の論理としては、
「神が欲するところが正しい。神とは別に客観的に是非善悪の基準がない。『王を使って民を罰する』ことを政治を通じてなされる。これは、儒教と同じ。仏教的な考え方だと『法』は『仏』に先行する。ユダヤ教においては、王が犯した罪によって民が罰せられる」

つまり、ユダヤ教の神が絶対的であり、政治的な面は儒教と同じだが、仏教においての政治的な「法」が、「神」に相当する「仏」に先行することと対称的であると指摘しています。

次に、奇蹟については
「ユダヤ教とキリスト教の共通点は奇蹟の宗教だが、儒教、イスラム教は奇蹟のデモンストレーションを行わない。
仏教もまた奇蹟を認めない
ユダヤ教、キリスト教では奇蹟は宗教の中心的位置を占める。
奇蹟は魔法とはちがう ユダヤ教は魔法を厳禁 呪術からの解放をした。
ユダヤ教における救いは、危機に際して神が必ず奇蹟によってイスラエルの民を危機から脱せさせたもうた」

つまり、奇蹟と呪術を峻別し、ユダヤ教がイスラエルの民を集団救済し、キリスト教が個人を救済したのは、呪術のような魔法ではなく、絶対的な神の法律と規範(倫理・道徳)からの奇蹟によるものであることを強調しています。

一般に救いの定義としては、
「当該宗教がめざす人間最高の状態 宗教的至福」
具体的には 
「仏教の救い このうえなきさとりを開いて涅槃に入る。
 儒教の救い 聖人が天子の位について理想的な良い政治を行うこと。
 キリスト教の救い 神の国に入って永遠の生命を得る。
 イスラム教の救い イスラムの法を遵守して天国に入れてもらう。
 ユダヤ教の救い 神の奇蹟による危機からの脱出。救済単位はイスラエルの民全体で個人ではない」
としています。

次に予定説についてです。
「予定説とは、神が予め定めるグレイス(恩恵)によって救われる人とそうでない人の選別。これは、無条件の選別であり、当該の人の行いと無関係。
神は天と地とそれらの間にあるすべてのものを創造した。
それらの間にある法則も正当性も神の創造 天然といえども例外でない被造物。
ユダヤ教、キリスト教においては正、不正は、神とは別に存在するものではなく神の創造による。
神が欲することが正 欲せざることが不正 是非・善悪も。
これは、仏教とも儒教とも違う。
神の予定は絶対。
『神は公平である』ことを証明しなければならないと考えることこそ瀆神。
ユダヤ教、キリスト教はこの論理で一貫。
神は是非・善悪・正不正 まったく自由に任意に決定する。
それらは神が与えたまいし法に照らして決定 法とは神の命令であり神との契約である。
法はまた同時に社会規範でこの点はイスラム教と同様。
『善悪は法によって決められる』『法がなければ善悪なし』
法は神が自由に作る 神の自由な意思決定による。
人間の規範、是非善悪、正不正などに左右されない 左右されると考えることこそ瀆神。」

つまり、創造主である、絶対的な神は、被造物である人間の意志にも行動にも左右されず、不正 是非・善悪を自由に任意に決定でき、救われる人とそうでない人の選別も無条件にできるとしています。神の決定が、人間の意志に左右されると考えることこそ、神を冒涜するものとなります。
そして、
「救済の選別は天地創造より前にすでになされていた。
神が予定しない人だからこの人は悪しきことをする。
予定説は逆因果律 目的論 善行(悪行)と救済(救済されない)ということの因果関係が逆になっている。
キリストの贖いの死は、選ばれた者だけのためであって、全人類のためではない。
キリスト教徒になるのは神が選んだからである。
自らの意志で信仰に入るのではない。
救済は道徳とは無関係。
神意によって救済されると予定された者は神の憐みによって善人となり、救済せずと予定された者は神に反抗せしめられて悪人となる。
贖罪、復活、予定説はキリスト教の根本教義。
神の恩恵なくして善行をすることはできない」

つまり、予定説は仏教の因果律とは真逆であって、人間の善行、道徳(規範、是非善悪、正不正)に左右されることなく、神の憐みによってのみ、善人、悪人の選別がなされます。
さらに、
「秘蹟という儀礼(一種の呪術)によって恩恵をえられるカトリックは宗教活動において予定説から遠ざかっていった。
義しい、義しくないかは法(律法)にてらして決められる。
イエスキリストを信ずることによって義しいとされる。
人の行為はどうでもいいどころではなくて義しい人は一人もいない。
『神を信ずる』のは人間が求めて信ずるようになるのではなく、神が求めて信ぜしめる」

カトリックにおける秘蹟は、一種の呪術であるとし、キリスト教の根本教義から遠のくとは、イエスキリストを信ずることによってのみ義しいという教義に反するので、儀礼により恩恵を与えることができるというカトリックの宗教活動はおかしいと批判しています。

また、キリスト教における救済の原理は予定説であるのに対して
「ユダヤ教における救済の論理は因果律で予定説ではない。
 旧約によれば、神は無条件でイスラエルの民を救済するのではない。
 法を守った場合に限って神はイスラエルの民を救済する。
ユダヤ教は仏教、キリスト教、イスラム教とちがって個人救済ではない。
 儒教のごとき集団救済である。
 奇蹟によってイスラエルの民を危機から脱せしめてやることは、個人ではなくユダヤ人全体である。
個人においては予定説が作動 預言者を立てる。
すべての預言者は無条件で神の予定によって選ばれる。
ユダヤ教の宗教単位であるイスラエル民族全体に対して予定説は作動せず因果律の作動」

儒教のごとき集団救済のユダヤ教の救済の論理は因果律であると指摘しています。
法を守ったという条件で、神はイスラエルの民を救済するのであって無条件ではなく、預言者のみ個人において無条件で神の予定によって選ばれると指摘しています。
つまり、旧約聖書では、預言者個人以外の集団は因果律が作動し、新約聖書となってすべての個人に対して予定説が作動するということです。

予定説であるか因果律であるかの決定的違いは戒律の有無であるとしています。
「仏教においては仏教のルール戒律と世俗の法律とは全然ちがう。
 キリスト教には戒律はなく、法もない。
 人間の内面における問題で外面的な行動に関するルールではない。
 イエスキリストは人間の内面のみ問題として外面的行動を問題としない。
 福音書はトーラー、コーランとちがって法源とはなりえない。
 ゆえに元来、戒律も法ももたなかった。」

つまり、福音書には戒律という外面的な規範はなく、人間の内面のみを問題としているので、法源とはなりえないとしています。
さらに、キリスト教においては
「法律を守る人間なんて一人もいない すべての人間は法律を守らない。
 新約聖書は何事も命令せず何事も禁止しない。
キリスト教は罪も不義も不正もない。」
キリスト教では、人間はすべて罪人であるということを前提としていますので、命令も禁止もしていません。それに対してユダヤ教では、戒律によりイスラエルの民に対して法律を守るよう命令しています。
「モーセの法律 人間の外面的行動の禁止。
 イエス 法律の場は人間の内面たる心の中に移し変えられた。
 行動規範から心情規範への大転換。

 『罪なき者にかぎって刑の執行ができる』イエスの新判決。
  罪は外面的行動によって論ずべからず。
  キリスト教にかぎり神と法律を切断。」

旧約聖書ではモーセが戒律によって、外面的行動の禁止を命令しましたが、新約聖書のイエスは、人間は皆が罪人なのだから、罪人が罪人に刑の執行はできないとしました。

「法律と無関係に神に正しいとされる方法 イエスキリストを信ずること。
 外面的行動における正しさと内面的行動における正しさとを決然と区別。
 カトリック、プロテスタントの法、戒律の発明は本質的にイエスと関係ない。」

キリスト教においては、本来戒律があってはおかしいのであって、カトリックの秘蹟同様、イエスを信ずることのみを教義とすることに反するものとしています。

啓典宗教である、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教においては“integrity”としての規範が明確に規定されています。
違いは、ユダヤ教のみ救済対象が、儒教と同じ集団であり、キリスト教とイスラム教は個人です。
つまり、ユダヤ教と儒教が政治的宗教であるとされる所以です。

ユダヤ教とキリスト教の違いとしては救済対象が集団と個人ですが、両方とも抽象的情報である本源的根拠をユダヤ教はトーラーにキリスト教はイエスの預言においています。
しかし、ユダヤ教はトーラーに示された外的規範により、キリスト教はイエスの預言による人間の内面のみを問題にしています。

また、両方とも奇蹟を宗教的中心においていますが、呪術である魔法を禁止し、カトリックの秘蹟も儀礼的であり、イエスの預言から遠ざかるとしています。

仏教においては、戒律としての「法」が「仏」よりも先行しますが、キリスト教においては、戒律をなくしてしまい、ユダヤ教の「モーセの十戒」が補填します。

そして、ユダヤ教は因果律(予言者のみ予定説)であり、キリスト教は予定説、仏教、儒教は因果律です。


こうして整理してみますと“integrity”の対象となるのは、個人でも集団でもよいわけですが、規範としての戒律、法をどうとらえ、因果律あるいは予定説との関係をどう見ていくかが、日本人にとっても“integrity”があるのであれば、とても重要に思われます。

2018年4月10日火曜日

日本人にとっての“integrity”とは①


“Integrity”の日本語訳として、ふさわしい言葉がないという問題が、ネット上のガメ・オベール氏の提起として議論を呼んでいます。
私も、これはとても大事なことなのではないかと思い、よく考えてみたいと思いました。

“Integrity”という言葉は、啓典宗教であるユダヤ教、キリスト教、イスラム教を信仰するする人びとにとっては、「神との契約あるいは、神の命令を守らなくてはならない」という意味なのだと思います。

これはまさしく規範であり、天からの垂直的規範であると言えます。

それに対して日本人における規範は「他人のふり見て我がふり直せ」で水平的規範と考えられるわけです。
しかし、本当に日本人の規範はそれだけなのだろうかという疑問が、本書を書こうと思った動機です。

私が子供のころは、「悪いことをすると、お天道様の罰があたるよ」とか「嘘つくと閻魔様に舌を抜かれるよ」とか言われてしかられたものです。
これも、垂直的規範と呼べるのかもしれません。

しかし、“integrity”の神は唯一絶対的で、人間は被造物であり、神が作ったと考えます。
日本の神はお天道様であったり、閻魔様であったり、八百万の神で人間が作った神です。

“Integration”は“integrity”から派生した言葉と思われますが、日本語訳としては「統合」で、日本人に広く浸透し一般化しています。

日本国憲法第一条では、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」とあります。

この中の「統合」は“integration”であり、「象徴は」“symbol”です。
日本国憲法においては、「象徴」とは何かということについて、格別な規定がありません。

この国のかたちともいえる、憲法においても、天皇は“integrity”と“symbol”という日本人にとって曖昧ともいえる言葉によって表現されています。

天皇は、明治から昭和の終戦まで「アラヒトガミ」と思われていた時代においてさえ、お天道様や、閻魔様のように、人びとに罰を与えてくださる神であったわけではなく、キリスト教における、人であり、神である「アラヒトガミ」イエス・キリストのように、人びとを救済してくださる神であったわけでもありません。

日本人の規範は一体どこからきているのでしょうか。
私は、憲法第一条の「統合」と「象徴」という言葉が、この謎を解くキーワードになるのではと考えました。

日本人にとっての“integrity”はあるのだろうか、ないのだろうか、あったけれども忘れられてしまったのだろうか。

来年は、平成から新しい元号に変わります。これらのことを考察していくにあたっては、昭和から平成に移行する時代の論客であった、山本七平氏と小室直樹氏の対照的ともいえる、お二人の著作を比較引用しながら進めていきたいと思います。

山本七平氏は、「論語の読み方」のなかで、
「己の欲せざる所は、人に施すことなかれ」
「忠恕」とは何なのか。
「忠」は誠実、真心のことです。
「恕」については、
「子貢問いて曰く、一言にして以て終身これを行うべき者ありやと。子曰く、それ恕か。己の欲せざる所は、人に施すことなかれ」(衛霊公第十五)と。
孔子の原則は、これだけだといえる。
孔子が『仁』を問われ、その中でも、一条件としてこの言葉を述べているので、『仁』と『恕』はどういう関係にあるかということになり、『恕』は『仁』に至る方法と見てよいであろう」

では、孔子のいう「仁」の定義とは、「五つのことを広く行うことを仁とする」と答えています。
この五つの部分とは、「五つとは、恭・寛・信・敏・恵のことだ。自分が恭倹に謹めば他から侮られない。他人を寛大に取り扱えば多勢がついてくる。信用を重んずれば人が仕事を任せてくれる。敏捷に働けば能率があがる。恩恵をたれる人であって始めて、他人に命令して動かすことができる」と訳されています。

「仁」についてまた、孔子は「人を愛す」、「仁者は難きを先にして、獲るを後にす。仁と謂うべし」と述べています。

「愛」は、仏教では煩悩の一つとされ、キリスト教では、キリストは「愛」そのものとされます。

聖書では、マタイの福音書7章12節で、「だから、何事によらず自分にしてもらいたいと思うことを、あなた達もそのように人にしなさい。これが律法と預言者と(聖書)の精神である」(塚本虎二訳)

この聖書の、「自分にして欲しいことを他の人にもしなさい」と、論語の「自分のして欲しくないことは、他の人にしてはいけない」は、表現は逆ですが、お互い裏を返せば「逆も真なり」で、同じようなことを言っているように考えられます。

一方は聖書の精神であり、また一方は孔子の原則です。

この「聖書の精神」と「論語の原則」が、日本人にとっての“integrity”の謎を解く鍵のように思われます。



2017年1月16日月曜日

メリル・ストリープのゴールデングローブ賞授賞式におけるスピーチについての考察

今回のメリル・ストリープのスピーチは歴史的にも価値のあるものであったという一般的な評価の反面、SNSにおいては99%に対する1%の富裕層の代弁者としての偽善であったという評価の両面で物議を醸しています。

はてさて、問題の本質はどこにあるのでしょうか?

私は、メリル・ストリープのスピーチにいち早く賛意を表明したロバート・デニーロとワンセットで考えてみたいと思います。

ロバート・デニーロはフランシス・フォード・コッポラの「ゴッドファーザーPartⅡ」において「PartⅠ」でマーロン・ブランドが演じたドン・コルリオーネの若かりし頃を演じ役者としての確固たる地位を確立しました。

彼は、イタリア系移民の子として生まれ、ドン・コルレオーネの役作りにおいては、シチリア島に住んで、イタリア語をマスターした後、マーロン・ブランドのしゃがれ声を完璧に模写したほどでした。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%AD

代表作の「タクシードライバー」では、ヴェトナム帰りの元海兵隊員である主人公が精神を病んで、次期大統領候補暗殺を企て、テロリストへと変貌していく姿を描いています。監督はマーティン・スコセッシで、ロバート・デニーロとのコンビで数々の名作を世に出してきました。
マーティン・スコセッシもシチリア系イタリア移民の子として生まれました。

「ゴッドファーザーPartⅡ」のコッポラファミリーはシシリアンとの地縁、血縁のつながりが深いのではと推察しています。

マフィアであるシシリアンはアメリカにおいてもシチリア島出身者でなければボスにはなれません。
それほど、地縁、血縁を重んじます。

シチリアの歴史は古代、ギリシャ、カルタゴ、ローマと入れ代り立ち代りの支配を受け、中世においてはカトリック、イスラムの支配争いに翻弄され、近世においては、スペインの支配、ナポレオン戦争を経て、近代イタリア統一に向かいます。

シチリアではイスラム、カトリック等、宗教が混然一体として寛容性が育まれてきたわけです。

また、民族としは、北アフリカのチュニジアとも目と鼻の先で、カルタゴの支配をうけたこともあり、アラブ系(セム系)の住民が多いのも特徴です。

特に海洋民族のフェニキア人(セム系)が多く、地中海をまたにかけて、イベリア半島からエジプト、フェニキア地方(現在のレバノン)までの地中海交易において重要な役割をはたしてきました。

シシリアンのパレスチナの地への思いが深い所以です。

シルベスター・スタローンの「ロッキー」において、妻のエイドリアン役を演じたタリア・シャイアはフランシス・フォード・コッポラの実の妹です。

シルベスター・スタローンと大親友のアーノルド・シュワルツェネッガーの代表作は「ターミネーター」です。

「ターミネーター」の監督はジェームズ・キャメロンです。

私は今回のトランプ新政権のなかで、財務長官に指名されたスティーブン・ムニューチンに注目しています。
ゴールドマン・サックス出身ということばかり取りざたされていますが、ハリウッドの投資家として有名で、オリバー・ストーン、ジェームズ・キャメロンと親しい間柄です。

オリバー・ストーンの「プラトーン」はヴェトナム戦争批判、ジェームズ・キャメロンの「アバター」はアフガニスタン紛争、イラク戦争批判であり、二人ともアメリカの軍産複合体の暗部を抉り出そうとしてきました。

ハリウッドの映画業界はアラブ、ユダヤの大富豪の余剰金で成り立っていると言っても過言ではないようです。

それも、反戦、平和主義者によって支えられてきています。

メリル・ストリープのスピーチのなかで、人種、民族、宗教の差別による排除の論理が横行すれば、ハリウッドで映画を作る人はいなくなってしまうというくだりがありますが、まさにその通りだと思います。

ここで、よく考えねばならないことは、反ユダヤ、反イスラムについてです。

キリスト教、イスラム教、ユダヤ教は三大一神教といえども、みな同じ旧約聖書を原典としています。
過去2000年の歴史においては、平和主義の寛容の精神で共存共栄してきたのが大半です。

一部の過激派に対する反イスラム的風潮と軍産複合体に操られた戦争屋による反ユダヤ的風潮を増長するような単純化は、本来穏健なイスラム、ユダヤの人たちにとって大変危険なものとなります。

トランプの政策は反イスラム、親イスラエルととらえる論調が大半です。
イスラムへの偏見とパレスチナ人迫害のイスラエル強硬派と与するのであれば、危険は際限なく増幅されていくことでしょう。

そういう意味でメリル・ストリープのトランプ批判は歴史に残る名スピーチであったと思います。

話を戻しますが、ロバート・デニーロはやはり「コッポラファミリー」として、シシリアンの地縁、血縁関係なのだと思います。(私の勝手な推測ですが、)

シチリアはキリスト教とイスラム教が共存共栄してきたところです。
人種的にはアラブ系が多く、シシリアンの心のゴッドファーザーはPLOのアラファト議長だったと聞きます。

メリル・ストリープのスピーチをロバート・デニーロの賛辞とワンセットで読むべき理由はここにあります。

イスラエルは今後単純化された反ユダヤ主義により、世界で孤立していく可能性が大きくなっていくものと思われます。

トランプの親イスラエル政策が、平和主義者の集まりのハリウッドのスポンサーであるスティーブン・ムニューチンの起用に見られるような深謀遠慮によって、パレスチナとの融和をもたらすことを企図したものであることを願ってやみません。

また逆にロバート・デニーロのメリル・ストリープへの賛辞がハリウッドは平和主義者ばかりではなく、テロに訴えることも辞さないことを暗に仄めかしているようにも思えてきます。

しかしながら翻って考えてみますと、メリル・ストリープのスピーチはトランプ批判であり、マスコミ批判であることはその通りです。

差別が差別を生み、憎悪を増幅し、暴力が暴力を生んでいく悪の連鎖を断ち切らねばならないとの指摘は、歴史的名スピーチとして語り継がれることでしょう。

これを他人事ではなく、個人としての私たち自身が真摯に受け止めねばならないというのがことの本質であると思います。

ユダヤ人のなかでもアシュケナージ(白人系)とセファラディー(セム系)の確執が最終段階にきているというのも単純化され過ぎの感を否めません。

アシュケナージはロシアにおけるポグロムとナチスによる迫害により東欧諸国を追われ、心の祖国であるイスラエルに移住したわけですが、昨今、セファラディーがセム系であることに対してアシュケナージが白人系であるため、民族の出自としての正統性に疑義が提出されてます。
民族性、宗教性(改宗を余儀なくされた歴史)の両面おいての疑義による二重の苦しみを負わされることになってしまっています。

ディアスポラの民であるユダヤ人としてのアイデンティティーが迫害を受けた根拠とイスラエルの地に帰還できたという根拠の両面が嘘であり、騙されて続けてきたことになりかねないわけです。

アシュケナージとセファラディーの確執の決着ではなく、相互理解による融和でなくてはなりません。

イスラエルのユダヤ人どうしにおいても寛容の精神が喚起され、ひいてはパレスチナとの共存共栄が一日も早く達成されることをと願ってやみません。

「コッポラファミリー」がシシリアンかどうかはわかりませんが、そういう仮定のもとの一例として、ロバート・デニーロ(決して彼をシシリアンと断定しているわけではなく、あくまでもそうかもしれないと仮定してのことです。)が他人事ではなく、自身のこととしてメリル・ストリープのスピーチを受け止め、現在もなお虐殺、迫害が続いているパレスチナ、シリアに思いを馳せる人たちが他にもたくさんいるはずです。

日本の自衛隊が丸腰同然で南スーダンに派遣されました。
自衛隊員のご家族の心中は察するに余りあります。

世界規模の経済的混乱が間近であることは多くの識者が指摘しており、第三次世界大戦に日本も巻き込まれる危険性が日増しに高まりつつあります。

70年以上前、日本人も難民でした。
島国から逃げることもできず、アメリカの属領のままでいるわけです。

メリル・ストリープのスピーチを単なるトランプ、マスコミ批判にとどめておかず、私たち自身の問題として受け止めるべき時期になってしまっていることを肝に銘じるべきだと思います。


2016年5月31日火曜日

オバマ大統領の広島訪問について想うこと

オバマ大統領の「空から死が降ってきた」という言葉で始まる演説は、実態が伴わず空虚さをぬぐえません。

謝ってくれなければ、赦してあげることはできないわけで…

連合国の要人を招いての戦没者の慰霊鎮魂は、伊勢神宮がふさわしいとは思えず、ましてや靖国神社ではなおさらです。

オバマ大統領が「謝る勇気」を持ち合わせていなかったとは思えず、日本側で謝られては困ると言う論調があるようです。
先に真珠湾、南京で謝らなくてはということのようですが…

連合国側の戦没者も一緒に慰霊鎮魂できる場は「赦しあえる場」となるのかもしれません。


オバマ大統領の広島訪問が、核兵器廃絶、世界平和に向けての歴史的偉業となるのは、このさき広島という場が「謝罪しあい、赦しあえる場」となったときだと想います。