戦没者追悼の国立施設は、京都に創建するのがよいと思います。
天皇には京都にお戻りいただいて、皇居を国民に開放されてはいかがでしょうか。
もともと徳川幕府の江戸城であった皇居は、西郷隆盛と勝海舟によって無血開城したものですが、国民に開放すると言う意味は、無血開城よりも革命的なものとなるのではないでしょうか。都心のど真ん中を開発できるとなれば、その経済的効果は計り知れないものになるのはいうまでもありません。
日本の首都圏上空は「横田空域」という米軍の支配下にあります。横田空域を通過するためには、米軍の許可が必要であり、JALやANAの定期便でさえ、この空域を避け不自然な飛行ルートを強いられています。
日本は未だアメリカの支配下にあるわけです。
皇居の地下は、道路も地下鉄の一本も通っていません。
横田空域の問題を議論するのであれば、皇居の地下の問題も議論しなければ、筋が通らないと思います。
皇居が天皇の特権とまでは言いませんが、既得権益者保護の象徴となっている感は否めません。
官僚による利権構造のモデルケースであってはならないはずです。
絶対権力は絶対に腐敗します。官僚の腐敗は病膏肓に入ってしまっているようです。
一部の識者の間では日本の経済破綻、つまりデフォルト(債務不履行)は秒読み段階であることが暗黙の既定路線として語られています。
沖縄に集中する米軍基地の日米地位協定の見直しを求めるのであれば、先に連合国(国連、UNITED NATIONS)の敵国条項の削除を求めるべきであり、これをクリアできなければ常任理事国の加入など正式に議論されることはないと思います。
日本政府は、皇居の地下の問題にしろ、米軍の問題にしろ、内外に対してそれなりの覚悟を示さなければならないのではないでしょうか。
私は、防衛、防災上の観点から、皇居の地下の開発にあたっては、巨大なシェルターを造って、弱者優先で避難、収容できるという思想のもと設計されたものであれば、なおいっそう革命的な意味の内容を伴ってくるであろうと考えるものであります。
日本人にとっての、象徴天皇の意味内容が明確になってゆくにつれ、外国人の天皇に対するイメージも当然変わってくることでしょう。
天皇は、ユダヤ人にとっては、ヨセフの子エフライム(古代イスラエル失われた10支族の一つ)のようなものと思ってもらえればよいし、イスラム教の人には、カリフ(イスラム共同体、イスラム国家の指導者、最高権威者の称号)のようなものと思ってもらえればよいし、カトリック、正教会の人には司祭のようなものと思ってもらえればよいし、プロテスタントの人には、牧師のようなものと思ってもらえればよいと思うのです。
「…のようなもの」とは、不合理な面を吸収する機能を持った機構あるいは機関を意味するものとします。
国立の戦没者追悼施設は、京都が良いと言う理由は、平安京とはヘブライ語でエル・シャロームつまり、エルサレムのことです。
この、戦没者追悼施設は、エルサレムの第三神殿のようなものと思ってもらえればよいと思います。
宗教の壁を越えて、世界平和を祈願するこの施設は、世界の価値観の不合理な面を吸収する機能を持った機構となり、排他的な思想を棚上げしうると思います。
聖書の預言においては、第三神殿がエルサレムに建つと、黙示録の大艱難時代の預言が成就可能になるとされています。つまりハルマゲドン(最終戦争)へと向かうわけですが、その預言も棚上げの原理の効果を期待できればと思うのです。
国立の戦没者追悼施設において、天皇が追悼の式典にて、お言葉を述べるのは、現状にそったものであれば、なんら問題がないのは明らかです。
この施設において、世界の戦没者を慰霊鎮魂し、世界平和を祈願する行為そのものが、日本人のアイデンティティーを回復すものになると思います。
中江兆民が説いた「君民共治」は、日本の伝統、文化に根ざした慣習のものとしては、明治政府に受け入れられませんでした。つまり、孔孟の教えとしての倫理主義ではなく、福沢派の功利主義・実学主義が優先されたのです。
「象徴天皇」ということばが、宣誓、誓約という行為によって反映され、国立の戦没者追悼施設における慰霊鎮魂、世界平和祈願によって、内容を伴ったものになれば、
「象徴天皇・大統領併立制」は、日本の政治制度として、国民に受け入れられ易いものになると思います。
トルストイは、「戦争と平和」において、1812年のロシア戦役での、パリとモスクワの間をシンメトリック(左右対称)に往復した運動は、人智の及ばないものであり、神の摂理、予定(プレデターミネーション)によって支配されていたと述べています。それは、ナポレオンという権力者によるものではなく、個人個人の運動の力の総和が歴史を動かしたのだという考えに基づくものです。
ナポレオンがモスクワへと進軍するにあたっては、攻撃という命令をナポレオン自身は発さず、むしろアレクサンドルに講和を求めています。そしてモスクワからパリへの撤退時には、ロシアの総司令官であるクトゥーゾフは他の将校の意見を聞き入れず、追撃の命令を発しませんでした。それにもかかわらず何万、何十万という人びとが死んでいったのです。
同じようにモスクワとシベリアの間もシンメトリックに個人個人の運動の力の総和が歴史を動かしました。
古くはアッティラ汗(フン族の首長)による征西、モンゴル帝国初代皇帝のチンギス・ハンによる征西、13世紀に始まる「タタールのくびき」は、ロシア人にとって、ヨーロッパ(特にフランス)への憧れと裏腹のものであり、モンゴル人による支配は、外的自己で抑圧されエスとなってロシア人の内的自己に潜在化したと考えられます。
モンゴル帝国第五代皇帝フビライ・ハンは中国をも支配し、元として日本へも侵攻しようとしました。
トルストイは、民族大移動の契機となり、ヨーロッパという世界の更新が、アッティラ汗のきまぐれで歴史を動かしたとは、とうてい想像しえないと述べています。
司馬氏は、ロシア人のシベリアへの東征は、モスクワ、サンクトペテルブルクの貴族の装身具、防寒具としての毛皮への欲求が、東に向かっていった大きな動機の一つであったと述べています。
モスクワからシベリアへの通路は、シルクロードの北方ルートと重なります。シルクロードは、戦争の通路であり、交易の通路であり、聖書の東方周りの伝播、つまり思想の通路でもあったわけです。
トルストイは「戦争と平和」の付録のなかで次のように述べています。
「芸術家は自己の経験、書簡、手記、談話などによって、ある出来事に関する自分自身の観念を帰納する。そして戦闘を例にとっていえば、某々軍の行動に関して歴史家の試みた結論が、芸術家の結論と正反対になることもきわめてしばしばである。こういう結論の相違は、両者が利用した材料によっても説明ができる。歴史家にとっては主なる材料の源泉は部隊長や総司令官の報告である。しかし、芸術家はそういう材料から何ひとつ汲みとることはできない。そうした材料は彼のために何ごとも語らず、何ごとも説明しないのである。そればかりでなく、芸術家はその中に必然の虚偽を発見して、むしろそういうものを避けようとするくらいである。すべての戦闘において、敵どうしがほとんど常に全然相反した戦況の描写をする、などということは今さら蝶々するまでもないが、すべての戦闘記事にはかならず必然の虚偽が伴っている。それは数キロの範囲に散在して、もっとも強烈な精神的興奮を感じ、恐怖と屈辱と死の影響に支配されている、いく十万人の行動を、数語にして叙述しなければならぬ必要から生じるのである。」
山本七平氏は、従軍記者が戦意高揚記事を書いたことへの批判として「私の中の日本軍」において、次のように述べています。
日本軍なるものを把握していたのは下士官(曹長、軍曹)であって、実は将校ではない。従軍記者が、長勇(沖縄戦において突撃を繰り返し実行させた参謀長)とか辻政信(バターン死の行進に関連した偽命令による虐殺の首謀者)とかいったタイプの、大言壮語・誇大妄想・自己顕示型の参謀の一方的言いまくりを取材したとて、第一、こういう人自身が何一つ実態を把握しておらず、それが日本の悲劇だったのだから、その取材自体が無意味なだけでなく、いわば「虚偽の上塗り」で、新しい過誤への出発点になるにすぎない。
また、「ある異常体験者の偏見」において、従軍記者の「引用」の問題に触れ、史料もしくは資料としての引用と、「権威」としての引用は、はっきり別のことで、両者を同じように「引用」というべきではない。聖書学という学問は、聖書を「権威」として「引用」したら、その瞬間に崩壊してしまう。従って絶対に「権威」として引用してはならないのである。従って「教育勅語にこうある」「毛沢東が『強い軍事力』といったから強大な軍事力だ」式の引用が、「資料としての引用」か「権威としての引用」かがすぐ意識に浮かばざるをえない。聖書の引用は「こういうことは、二千年の昔にすでに人類は気づいていた」という例証としてあげてあるのであって、その例証になるなら、ギリシャ人の言葉でも仏典でも中国の古諺でもよいのであって、これが古くから気づいていたことを示すための「史料としての引用」の方法にすげない。
岸田氏は、軍部が強制的に国民を戦争に引きずりこんだというのは誤りであるとしています。いくら忠君愛国と絶対服従の道徳を教え込まれていたとしても、国民の大半の意志に反することを一部の支配者が強制できるものではないからです。この戦争は国民の大半が支持しました。と言ってわるければ、国民の大半がおのれ自身の内的自己に引きずられて同意した戦争であったわけです。軍部にのみ責任をなすりつけて、国民自身における外的自己と内的自己の分裂の状態への反省を欠くことならば、ふたたび同じ失敗を犯す危険がありましょう。
トルストイは、歴史家にとっての主なる材料の源泉は部隊長や総司令官の報告であり、すべての戦闘記事にはかならず必然の虚偽が伴っているとし、山本氏は、従軍記者の記事もトルストイの言う、ヒエラルキーの上層部の虚偽の報告と同様、いわば「虚偽の上塗り」で、新しい過誤への出発点になるにすぎないとし、また「権威としての引用」は読者を恣意的に誘導するものであり、「史料としての引用」とはならないと戒めています。
岸田氏は、国民も、軍部の大本営発表なり、マスコミの戦意高揚記事なりを支持した以上、反省を欠いてはならないとしています。
その反省という意味は、虚偽に対する被害者意識によるものではなく、日本人の場合は、ペリー・ショックによって内的自己に抑圧されたエスである「尊王攘夷」という思想が、誤りであったと悟り、アイデンティティーを回復することに他なりません。
ロシア人の場合は、キリスト教とヘレニズム、ヘレニズムとオリエントそれぞれの間にあるシンメトリックな運動が、戦争、交易、思想として葛藤、闘争し、矛盾して抑圧されたエスが内的自己に潜在化していると思います。
この様に潜在化するエスを受け容れる素地、下地が歴史上あったかどうかということを悟ること、つまりエスとなった誤りを自覚し、慣習に根ざした自己へと修正の判断をすることが、反省という意味になると思います。
この真の意味の反省、つまり「内容のある反省」とは、虚偽に対する被害者意識によって被害妄想的になっている国民が、自主的に過去の誤りを悟ることによって、内的自己と外的自己を統一し、アイデンティティーを回復するということにあると思います。
司馬遼太郎氏の名文である「人間は自然の一部であり、自然によって生かされてきた存在であり、互いに助け合うことが必要で、決して人間だけが偉い存在だなどと傲慢になってはいけない」は、西郷隆盛の死生観、つまり西南戦争において、自己を犠牲にしての混沌(カオス)の収束を、天に問い続けたことからも察せられる通り、日本人本来の宇宙観です。
日本人の本来の宇宙観(コスモス)が日本人のエスを解消すると思います。
天という全知全能の神を前提としたコスモスへの回帰が“PAXJAPONICA”への道につながると思うのであります。