2014年11月1日土曜日

岩畔豪雄について①

板垣先生は、イスラームのタウヒード、つまり「多即一」「万物あるがまま」の境地であるアイデンティティー複合という思想を展開されています。
これを活かしていくことができるようなネットワークとパートナーシップの世界が、人類文明の始原回復だと言われています。

私が、このブログを2年ぶりに再開するにあたって、自分自身のアイデンティティーに関わることも書こうと思った動機は、板垣先生の言われているアイデンティティーの多様性という考え方に触発されたこともあってです。

家族は、私のアイデンティティーのひとつです。

戦後の右翼、統制派の領袖で、岩畔豪雄(イワクロヒデオ)という元軍人がいました。1970年に亡くなっています。

私は一家4人暮らしで、妻、息子、義母(妻の母)は、岩畔家の血筋なのです。
妻の祖母(義母の母)と岩畔が従妹どうしだったのです。

岩畔は、日米開戦前、アメリカとの戦争回避のために、当時の野村駐米大使と日本陸軍を代表して、コーデル・ハルと日米交渉
をした人です。

「日米諒解案」は、井川忠雄と岩畔によって作成されました。
当時の松岡洋右外相の頭越しに行ったことに松岡は激怒し、ハルノートを無視し、東条英機は真珠湾攻撃を決行してしまったのです。

当時は、開戦止む無しが大勢だったため、戦争回避の交渉をすることは、当然命がけだったわけで、開戦と同時に南方戦線の最前線に飛ばされました。
第五近衛連隊の連隊長として、3000人の部下を率い、シンガポール陥落の快進撃をしたまではよかったのですが、足に銃傷を受け、連隊長を交替した後は、地下に潜伏しました。

岩畔は、インドの独立運動の主導者であるチャンドラ・ボースの支援をしたのです。
チャンドラ・ボースについては、大川周明のところでも述べましたが、犬養毅(元総理、515事件に
て斃れる)、大川、右翼の頭山満、内田良平らが支援したラース・ビハリー・ボースを引き継いでインド独立運動を主導したのがチャンドラ・ボースです

チャンドラ・ボースは、1945年8月18日、日本の敗戦直後、飛行機事故で亡くなりました。
インドがイギリスから独立した後は、ガンジーの次にインド独立に貢献した人として、今でも英雄として称えられています。

マハトマ・ガンジーの非暴力による抵抗運動の裏には、軍人としてのチャンドラ・ボースの働きがあったのです。

チャンドラ・ボースを軍事的に支援したのは、いわゆる「岩畔機関」というもので、実は諜報機関の陸軍中野学校は、岩畔が創設したものです。
731部隊の登戸研究所も岩畔が創設し、昭和通商も岩畔が創設しました。

昭和通商ではアヘンと人民元の偽札作りで巨万の軍資金を調達しました。
戦前戦中は何でもアリの首謀者だったわけです。

敗戦直後に奇跡的に帰国しましたが、3000人の部下のほとんどを失い当然本人も死んだものと皆思ったそうです。

それは、開戦前の日米交渉においてコーデル・ハルから絶大な信頼を受け、ハルが「あの男だけは殺してはならない」と戦線に通達を出したためとのことです。

インド独立運動の影の立役者なわけですから、イギリスのチャーチル首相からは強行に身柄引き渡しを要求されましたが、GHQのマッカーサーは拒否したのです。

極東軍事裁判においては、戦争回避に尽力したうえ、開戦と同時に最前線に飛ばされたので、裁判にかけられることはありませんでした。
絞首刑になった7人のうち陸軍は上から東条英機と武藤章でしたが、開戦前は直属の上司の武藤章よりも権勢を誇っていたのだそうです。

戦後の右翼団体を紐解くと大きく五つに分けられます。
1.   皇軍復活を主張した真崎甚三郎らの「皇道派」
2.   具体的再軍備案を提示のうえ連合国側に協力を提示した下村定らの「正義派」
3.   連合国との協力を変節者とみなし、これに対抗した岩畔豪雄らの「統制派」
4.   反共援蒋のために台湾派兵を計画した岡村寧次らの「募兵派」
5.   制海・制空権を重視した再軍備計画を提案した野村吉三郎元海軍大将を中心とした「海軍派」
です。
ウィキペディア「右翼団体」
より引用。

児玉誉士夫、笹川良一は典型的な正義派だったわけです。
今ではアメリカの公文書が公開されたため、児玉、笹川、正力松太郎、岸信介はCIAのエージェントだったことが明らかになっています。

岩畔は表立っての右翼活動をしたわけではありませんでした。
京都産業大学の創設メンバーのひとりですが、自分で私塾を作り、若手の育成に専念したのです。
その弟子となった人たちは、現在も活躍している人がいます。
その中でも有名な人を三人あげますと、

若泉敬 この人は京都産業大学の教授だったひとですが、佐藤栄作首相の密使としてニクソン、キッシンジャーとの沖縄返還交渉をまかされた人です。
その時の内容を一冊の本「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」を出版して、18年ほど前、自死を遂げました。

鴨武彦 この人は東京大学法学部教授だったひとで、国際政治学の権威だったひとですが、やはり早くに病死にしました。
早稲田の政経学部卒なのですが、東大の坂本義和教授が早稲田から呼んで、東大法学部の教授になりました。今の都知事である舛添要一は、このため教授になれなくなり、東大を去ることになったのです。

矢内正太郎 この人は外務省の事務次官だったひとで、現政権が今年立ち上げた日本版NSCの内閣官房国家安全保障局初代局長です。

岩畔という男は戦前戦中やりたい放題のことをやってきたわけですが、決して私利私欲には走らず、戦後も慎ましやかな生活に徹しました。
田園調布にりっぱな家が現存しますが、これも支援者に建ててもらったもので、死んだときは数百万円の借金しか遺していかなかったそうです。
しかし、多くの優秀な人材を輩出したことが、彼の最大の財産だったわけです。

岩畔が日米交渉をしたとき、カトリックの教会の神父を通して交渉を行いました。

若泉もおそらく師匠と同じルートを使って、沖縄返還交渉をしたのではと思われます。

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