岩畔家は表向き浄土真宗なのですが(私の家も浄土真宗です。)、実はキリスト教と深いつながりがあるのです。
私は妻と一緒になってもう26年になるのですが、知り合った当初から自分は、あるやんごとなき血筋であることは聞かされていたのですが、岩畔のことだろうから、そりゃそうだと、最近まであまり深く気にせずにいました。
今年ベストセラーになった小説で「村上海賊の娘」という本があります。作者は和田竜です。
妻が買ってきたので私も読みましたが、これは本当に傑作です。
どうしてこれを読む気になったかと言うと、岩畔家にまつわる苗字のひとがたくさん登場するからというのです。
岩畔家の墓は広島の呉の近くの山のてっぺんにあって、その下を取り囲んで、村上水軍の末裔の墓が、あたかも護衛するかのように、建てられているのだそうです。
うちは4人家族で、息子と妻の母親である義母と一緒に暮らしています。
義母も76才になのでる、元気なうちに、いろいろ話を聞いておこうと思ったところ、驚きの連続でした。
妻は亡くなった自分の祖母(岩畔と従妹)から聞かされていたのですが、うろ覚えのところがあり、心許ないので、私が直に一緒に住んでいる義母から聞きました。
これから書くことは、岩畔家の言い伝えであって、真偽のほどが定かではないことは、もちろんです。
ことは平家物語の源平合戦「壇ノ浦の戦い」まで遡ります。
結論から先に言ってしまうと、入水して死んだはずの安徳天皇の末裔が岩畔家だということです。
確かに平家物語のなかでも、翌日引き上げられた遺体は、髪の毛の長さや容姿が生前と違う記述があるため、替え玉説により、さまざまな安徳天皇伝説が日本中にあります。
歌舞伎の演目の義経千本桜にも安徳天皇が出てきて、奥州平泉に行ったことになっていますが、義母いわく、これもまんざら創作ではないのだそうです。
これはさすがにないだろうと思いましたが、奥州平泉藤原氏について調べてみると、たしかに平氏とのつながりがうかがえました。
義母の姓は大道(ダイドウ)というのですが、岩畔家と大道家は表裏一体なのだそうです。
岩畔も大道も明治以前は苗字がなく、明治天皇から授けられたのだそうです。
岩畔家と大道家は血族結婚で義母の両親も従妹どうしの結婚だったそうです。
岩畔の本家も、昭和になってからは外戚を迎えるようになったので、一番血が濃いのは自分だけだと自慢していました。
大道の名の由来は大道寺なのだそうです。
大道寺の詳細についてはこちらを参照してください。
大道寺は、いまはもうありませんが、山口県の周防にあった寺です。
戦国時代フランシスコザビエルが日本にキリスト教の布教にきたとき最初に拠点としたところで、いわゆる南蛮寺の一号です。
私も興味がそそられ、いろいろ調べていくうちに驚くべきことがわかってきました。
ザビエルも書物に残しているようですが、なにも自分が最初にキリスト教を日本にもってきたのではないと書いているようです。
ウィキペディア、フランシスコ・ザビエルより
「ザビエルと日本人」の中から引用します。
「布教は困難をきわめた。初期には通訳を務めたヤジロウのキリスト教知識のなさから、キリスト教の神を『大日』と訳して『大日を信じなさい』と説いたため、仏教の一派と勘違いされ、僧侶に歓待されたこともあった。ザビエルは誤りに気付くと『大日』の語をやめ、『デウス』というラテン語を用いるようになった。以後、キリシタンの間でキリスト教の神は『デウス』と呼ばれることになる。」
この中で「大日」とは、空海の真言密教の大日如来のことで、神仏習合の解釈では天照大神と同一視されています。
引用文では、通訳の無知による誤訳とされていますが、これは捏造だと思われます。
ザビエルは、もともと「大日」=「デウス」=「ヤハウエ」と確信していたのだと思います。
エリザベス・ゴードンのところでも述べましたが、確かに中国においてのキリスト教は、2000年近く前に景教ネストリウス派として広まっていて、これは陸のシルクロードを伝ってきたもので、ユダヤ人であることがほぼ特定されています。
当時中国ではローマ帝国のことを大秦国と呼んでいました。
平安仏教の空海、最澄は天皇の代理である遣唐使として中国に渡ったわけですが、そのとき、持ち帰ってきた教典のなかには仏教はもちろんですが、旧約聖書と新約聖書があったのです。
空海の真言宗は大日如来を中心とした菩薩信仰なわけですが、大日如来がユダヤの神ヤハウエ(デウス)で、弥勒菩薩がキリストで、観音菩薩が聖母マリアというわけです。
日本の言語学者で、早稲田大学名誉教授の佐伯好郎博士が、日本に来た最初のキリスト教について、景教(キリスト教ネストリウス派)と秦氏の関係について言及しています。
http://godpresencewithin.web.fc2.com/pages/zatsugaku/firstchristian.html
こちらを参照してください。
真言密教の奥義を授かるには10年以上かかるはずなのを空海は3年ほどで持ち帰ってきてしまい、天才の名をほしいままにしました。
これには裏があり、空海には秦河勝というスポンサーがいたのです。
秦河勝はいわゆる秦氏という渡来人で、聖徳太子の側近でもあり、平安京の造成と伊勢神宮の創建に深くかかわったことでも有名です。
空海は若いころからその才能を河勝に見込まれ、中国へ行く前に英才教育をうけ、中国語と旧約、新約聖書のためのヘブライ語をマスターしてから行ったようなのです。
したがってザビエルが来るはるか以前、すでに空海と最澄によりキリスト教は日本に入ってきていたのです。
秦氏が大秦国と呼ばれたローマ帝国とのつながりがあったであろうことに、思いをはせざるをえません。
空海が全国各地を回ったことは有名ですが、四国の香川出身で徳島を拠点としていたことはよく知られています。
卑弥呼の邪馬台国伝説は九州の宇佐神宮と近畿の淡路島が有名ですが、今、最も有力とされているのは徳島の剣山です。空海ゆかりの地でもあります。
剣山にはクリスト神社(磐境神明社)があり、安徳天皇ゆかりの地でもあるのです。
詳細は
こちらを参照してください。
ここには安徳天皇が壇ノ浦で入水して行方のわからなくなった三種の神器の一つである剣が隠されているという伝説があります。
剣山の名の由来と思われます。
クリスト神社のクリストとはまぎれもなくキリストのことでしょう。
キリストが日本にきた時期があるという伝説は、真実味を増しつつあります。
キリストが8年間ほど行方が分からなくなる時期と日本にいたのではないかという時期が一致しているようです。
キリストの子孫が全国各地にいたという伝説は、まんざらでもないのかも知れません。
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