2014年11月2日日曜日

岩畔豪雄について③

キリスト教にも仏教にも戒律というものがあります。

キリスト教は、旧約聖書のモーセの十戒です。
1.   主が唯一の神であること
2.   偶像を作ってはならないこと
3.   神の名をみだりに唱えてはならないこと
4.   安息日をまもること
5.   父母を敬うこと
6.   殺人をしてはいけないこと
7.   姦淫をしてはいけないこと
8.   盗んではいけないこと
9.   嘘を言ってはならないこと
10.隣人の家をむさぼってはいけないこと

一方仏教は在野五戒です。
1.   生き物を殺してはいけない
2.   他人のものを盗んではいけない
3.   不道徳な性行為を行ってはいけない
4.   嘘をついてはいけない
5.   酒を飲んではいけない

仏教の五戒のうち酒を飲むな(イスラームには当てはまります。)以外はモーセの十戒のなかにありほぼ同じなのです。

「生きて虜囚の辱めをうけず」は戦陣訓のなかの有名な一節で、東条英機が作ったとされていますが、発案は岩畔だったのです。
岩畔が最初提案したのは「盗むな」「殺すな」「犯すな」という単純なものでした。
これはキリスト教と仏教の戒律からであることは明らかです。

空海の大日如来は太陽神で、ユダヤの神ヤハウエを想定していることは述べました。(ユダヤ人の祖先であるシュメール人は太陽信仰でもありました。)
日本書記の天岩戸伝説は天照大御神が太陽神であり、両者は同じです。

ユダヤ教発祥の地シオンは英語ではズィオンと発音します。
日本の祇園祭りのギオンは実はシオンのことなのです。
祇園祭りは717日です。
この日は旧約聖書のなかでノアの方舟が大洪水の後、アララト山の頂上で水が引き人類が再出発を始めた日をさします。

この中で鳩がオリーブの葉を加えて戻ってくる記述がありますが、祇園祭りの山車や神輿にはこの絵柄や波の絵柄が書かれていて、これは偶然では説明ができなくなっています。
また伊勢神宮ではイスラエルの国旗の中にも描かれている六芒星(ダビデの星)がいたるところで見られます。

伊勢神宮にある三種の神器のうち八咫鏡のうらにヘブライ語がかかれていて、それを見てしまった三笠宮が腰をぬかすほど驚いたのは有名な話です。
「君が代」、「さくらさくら」、「かごめかごめ」がヘブライ語で訳すことができ、内容は旧約聖書からのものであることも言語学的に解明されています。
籠目(カゴメ)は六芒星そのものです。

また、邪馬台国伝説の地のひとつである大分の宇佐神宮は全国の八幡神社の総本山です。
八幡はヤハタとも読みますが、これもヤハウエが転化したものでしよう。

岩畔の話に戻します。
天岩戸伝説でも旧約聖書でも岩は神の象徴として描かれています。
岩畔とはイワクロと読みます。
畔のクロはどうもクロス、つまり十字のことのようです。
半分が神道、半分がキリスト教ということでしょうか?

平安京は中国の唐の都に倣って、碁盤の目のようであったわけですが、これはクロスつまり十字を張り巡らしたものと解されています。

前にも述べましたが、平安京の造成と伊勢神宮の創建には、渡来人の秦氏であり、空海のスポンサーでもあった秦河勝が深くかかわっています。

大秦国であるローマ帝国がキリスト教を国教とさだめ、シルクロードを伝って秦氏が中国で布教し、キリスト教が空海、最澄により、日本に持ち込まれた事実を知るに及び、私は岩畔と安徳天皇、キリストとの関係に思いをめぐらさざるを得なくなったのです。

義母から聞いた話は、あまりに荒唐無稽で、信じろというほうが無理なわけですが、いろいろ調べていくうちに、いくつかの素朴な疑問を持つようになったのです。

まず、一介の軍人にすぎなかった岩畔が戦前戦中、昭和通商、陸軍中野学校、登戸研究所という大事業を三つも立ち上げ、推進できたことに対する疑問です。

昭和通商は、三菱、三井、大倉の三財閥に出資させています。
戦後正義派右翼の首魁となる児玉誉士らは、戦前戦中ここを舞台に私腹を肥やしたのは有名な話です。

大本営参謀たちは、陸軍幼年学校、士官学校、大学校とエリートコースを進み、皆成績はトップクラスでなければ、なれなかったわけですが、岩畔の成績はあまりほめられたものではなかったそうです。
たしかにその構想力と行動力は優れていたのでしょうが、それだけでこれらの大事業を進めることができたとは思えません。

軍隊というものは官僚組織の最たるものであり、とても硬直化してしまうものです。
いわゆる出る杭はうたれるで、異端なものに対しては排除の方向に向かいます。
岩畔は異端児の最たるものであったにもかかわらず、あたかも野放しにされていたかのようなのです。

次に、日米開戦前の戦争回避のための日米交渉をしたとき、カトリックの神父のルートを使ったことは前に述べましたが、なぜそのようなルートを使うことができたのかという疑問です。
また、交渉の過程において、コーデル・ハルとの間に信頼関係を構築できたとはいえ、ハルが最前線に、「岩畔を殺してはならない」という通達をなぜわざわざ出したのかということも疑問です。

あともう一つは、戦後、自分の私塾において、若泉、鴨、矢内をはじめとした多くの優秀な若手の人材が集い、現在も行政、学問、経済の各分野において活躍する人たちを、なぜこんなにも多く輩出できたのだろうという疑問です。

義母から聞いた安徳天皇の血筋であるという岩畔家の言伝えは、まあ裏天皇史としてはよくある話ではあります。

しかし、戦国時代、ザビエルがキリスト教布教の拠点とした大道寺が岩畔家ゆかりのものであり、布教を許可した当時の周防の守護大名であった大内義隆が渡来系の出自であったことを考えると、にわかに真実味を帯びてきます。

また平安時代、空海が、渡来人の秦氏であり、聖徳太子の側近でもあった秦河勝の庇護のもと、キリスト教の原典も持ち帰ってきていた事実を知るにつけては、日本の歴史を書き換えざるを得ない一大事と思わざるをえません。

そして、ユダヤの民のディアスポラの直後、陸のシルクロードを伝い中国、朝鮮半島を経由して日本に渡来した人たちが大和朝廷をおこし、日本書記に記述されているように皇室の歴史が始まっているのです。

邪馬台国が徳島の剣山であり、空海が唐からキリスト教の原典を持ち帰ってきたあと、剣山を拠点に活動し、そこにクリスト神社があったことを知ったときは本当に驚かされました。
なぜならそこは安徳天皇伝説の地でもあったからです。

邪馬台国は大和朝廷に負けた後、出雲に移動し、出雲大社になったのが、古事記に記されている国譲りの神話のようです。

長野の諏訪大社もユダヤ教のラビがわざわざ参拝にくるほどユダヤと関係が深いことも有名です。
諏訪は縄文文化の中心地であったことでも有名ですが、諏訪大社の御頭祭は旧約聖書の創世記のなかにあるイサク伝承がもとになっているようです。

0 件のコメント:

コメントを投稿