2014年11月3日月曜日

岩畔豪雄について⑤

岩畔は軍人であったとはいえ、純粋に平和主義者でした。
彼にはいくつか著作があるのですが、1970年に亡くなった直後に出版されたものに、「科学時代から人間の時代へ」という一冊があります。




結婚した当初、義母からもらったもので、今でもたまに読み返しています。
アーノルド・J・トゥインビー(イギリスの世界的歴史学者)との対談と往復書簡も掲載されています。






岩畔の没後、出版されたもので、「追想起」が付録されています。
友人代表の弔辞を椎名悦三郎が寄稿しています。




椎名は、自民党副総裁時の「椎名裁定」で有名ですが、前尾繁三郎(元衆議院議長)、灘尾好吉(元衆議院議長)と共に「三賢人」と称された人です。
官僚時代は、農商務省(柳田國男も在籍いていた時期があります。)、商工省において岸信介のもと、満州国統制科長、産業部鉱工司長を歴任しました。
岩畔は、南満州鉄道を国有化しようとして、松岡洋右や内地の財界人の反発を買います。

沖縄返還交渉の黒子として日米密約の仲介者であった若泉敬は岩畔の愛弟子です。
沖縄返還交渉自体、岩畔が若泉を椎名に紹介して開始されたのです。

戦後、フジサンケイグループを作り上げた水野成夫は、岩畔機関でインド独立工作に携わった一人です。
岩畔機関には多くの中野学校出身将校の他、東海大学創立者で、日本社会党衆議院議員の松前重義も加わっていました。松前は内村鑑三に師事しました。

水野成夫の起用にあたっては、日本共産党員時代の彼の地下活動経験を岩畔は高く評価したのだそうです。「(インド独立のために)地下活動している人たちの心は、地下活動したことのある者が一番わかる」と言っていたそうです。

岩畔は、右翼というよりは、武人であり、戦前、戦中も有能な人物は、思想背景にこだわらず重用しました。

岸信介、若泉敬、水野成夫も「追想起」に寄稿しています。









「科学時代から人間の時代へ」の内容は、岩畔の軍人としての視点を踏まえ、古今東西の哲学を綜合しようとの大胆な試みがなされています。

岩畔が言いたかったことを私なりに解釈するならば、
「恒久平和を維持するためには、武力も必要ではあるが、これからは言葉の力を信じ、どんな相手であろうとも、対話の努力をあきらめてはいけない」
というところでしょうか。

私は戦前から戦後亡くなるまで、岩畔がどうしてあんなにも大きな仕事をやり続けることができたのか不思議でしたが、岩畔が書き残した言葉の中に、すべての答えが集約されていると思っています。

岩畔の意志を継ぐ者のひとりとして、私も微力ながら世界平和に貢献したいと思っています。
そのためには今の仕事であるモーターと発電機を仕上げ、自然エネルギーの普及に貢献しなければならないと思っています。

去年の暮の都知事選において細川護煕が立候補し、小泉純一郎が応援しました。
脱原発をワンイシューとして挑んだのですが、安倍政権のマスコミ操作によって敗北したわけです。

またここにきて、細川、小泉、管、鳩山の元首相4人が連携しての脱原発の動きをみせています。
おそらく裏では小沢一郎が舞台作りをすることでしょう。

細川の祖父は近衛文麿です。岩畔が日米交渉をしたときの首相が近衛なのです。
細川元首相の意志を忖度して、独自に活動する脱原発の右翼があってもよいのではないかと思います。

毎週金曜日、首相官邸前において、脱原発のデモが行われていますが、正義派と思しき右翼の街宣車が邪魔にくるそうです。
経産省前の脱原発テントを暴漢が襲撃した事件もありました。
レイシスト(差別主義者)の在特会のデモは、警察が護衛するかのような有様です。

彼らと対峙する、脱原発の右翼の画像でも撮れれば、もっとマスコミも大きく取り上げるようになるのではないかと思います。

うちの息子も今年の春、駒込学園という高校に入学しました。
この学校は最澄の天台宗の学校です。

一年生は必ず5月に比叡山延暦寺に23日の修行に行かせられます。
精進料理なので肉は出ませんし、お茶碗の音をたてても坊さんにどやされます。
座禅、写経をするのですが、息子は私と同じで膝が悪いので正座が苦手です。

かなりきつかったようですが、最後までやり遂げてくれました。
最終日は夜中の2時にたたき起こされて30Km歩き続ける修行でした。
普段できない経験をさせてもらい女房ともども本当に良い学校に入ることができたと喜んでいます。

最澄も空海と一緒に遣唐使としてキリスト教の教典を持ち帰ってきたひとりとして、岩畔もゆかりがあることに畏敬の念を抱かざるをえません。

今、核のゴミを始めとして、財政赤字はもちろんのこと、負の遺産を子供たちの未来に押し付けて、子供たちに犠牲を強いようとしています。
子供たちの未来を犠牲にして、今の生活の安寧は、あってはいけないことです。


我々大人たちにとっては、子供たちが希望なのです。

2014年11月2日日曜日

岩畔豪雄について④

また遡ること3000年以上昔、海のシルクロードを伝ってきたといわれる縄文人はアラブ系の海洋民族であり、チグリス・ユーフラテス川、現在のイラクのあるメソポタミア文明のシュメール人を祖先としていることは、たいへん感慨深くさせられます。

シュメール人のマークが菊の御紋であり、その子孫でもあるユダヤ人のマークが六芒星であるわけです。菊の御紋が天皇家のマークであり、六芒星が伊勢神宮のあらゆるところで見られることは、歴史のいたずらにしては、できすぎてしまっています。

千年単位で歴史を遡ってみてきましたが、つい160年ほど前の幕末のころを比較して考えてみたいと思います。

坂本龍馬が薩長同盟を結ばせたわけですが、その裏ではアシュケナージが暗躍していました。
龍馬のスポンサーでもあった長崎のトーマスグラバーはロスチャイルドの出先機関だったわけです。

長州の伊藤博文、井上聞多らをイギリスに留学させたのはグラバーであり、現地で面倒をみたのはロスチャイルドです。
ロスチャイルドは前にも書いたように白人系偽ユダヤのアシュケナージです。
伊藤、井上はロスチャイルドにてなずけられ、彼らの資金力をバックに明治維新を成し遂げたわけです。

この体制は現在も続いているのです。
白人系偽ユダヤのアシュケナージはロスチャイルド、ロックフェラー連合(シオニスト)なわけですが、金のためなら何でもアリの人たちで、日本の時の政府を手なずけて搾取してきたのは、幕末も今も大差ありません。
先の大戦時でさえ、敵味方にわかれたとはいえ、彼らは武器と石油を売って大儲けしたわけです。

戦後、正義派の右翼は反共産主義を大義名分に連合国に協力しました。このとき主導的な役割を担ったのが、岸信介です。

岸は児玉、笹川らと勝共連合を立ち上げますが、資金源はシオニストであり、統一協会の文鮮明が北朝鮮との取り持ち役だったわけです。
勝共連合と統一協会は表裏一体です。

文鮮明は北朝鮮出身であり、金日正、正日親子とつなっがていたわけで、現在繰り広げられている拉致被害者救出劇は、かなり裏があるようです。

安倍首相はシオニストをバックにつけているとはいえ、さすがに、これからは思うとおりに行かないと思います。
安倍首相の戦前回帰の思想は、さすがにオバマも我慢ならないようです。
靖国神社を参拝することは、日本がアメリカに従属していることを否定する意思表示に他ならないからです。

また東アジアの情勢も変わりました、中国は北朝鮮への石油の供給を止め、韓国朴政権、アメリカ オバマ政権と協調して金王朝崩壊を実行に移しているようです。

しかし、これにも裏があり、アメリカと北朝鮮は同盟を結ぶ可能性も指摘され始めました。
この場合は、戦後の安全保障体制の根本的転換を迫られることになります。

シオニストはアメリカのニューヨークが拠点であるわけですが、政治には関係なく、武器と石油が売れてくれればよいわけで、安倍首相はどうも勘違いしているようです。
シオニスト イコール アメリカと考えて、儲けさせてあげれば、自分を守ってくれて、おこぼれにすらありつけると思っているのでしょうか。

中国が台頭し、今後インド、ASEANが力をつけてくれば、アメリカの力は相対的に小さくなっていからざるをえません。
ドルが世界の基軸通貨でいられなくなるときがくるのかもしれません。
これは、シオニストの屋台骨が崩れることを意味します。

また、地産地消の自然エネルギーが普及し原子力、石油への依存度が減れば減るほシオニストは弱体化していきます。

地産地消とは、インフラとしての送電網のコストを大幅に削減できることを意味します。
福島、新潟の原発による電力が東京で消費されています。
膨大なコストとロス(発電所と電気の消費地の距離が長いほどロスは大きくなります。)の上に、東京都民は生活できているわけです。

福島原発事故の犠牲にもかかわらず、原発が再稼働されようとしています。
原発が本当に安全だと言うならば、東京湾のど真ん中にでも作ったら良いのです。

大川周明が、当時のシオニズム運動が、アラブ、パレスチナの犠牲のもとであったことを看破した(柳田國男も同じ思いだったのではないでしょうか。)ことと相通じるものがあります。

生活の安寧は、他者の犠牲のもとにあってはならないものです。

靖国神社は長州藩の伊藤らによって作られたローカル神社であり、伊勢神宮、宇佐神宮、出雲大社、諏訪大社とはまったく異質なものであり、戦争礼賛神社といっても過言ではありません。


岸も安倍首相も長州出身であるので、靖国が氏神様のようなものなのでしょうが、決して日本の文化、伝統にねざしたものではないと思っています。
明治以降の間違った国家神道による多くの犠牲者を、慰霊、鎮魂するには、靖国は、ふさわしくないと私は思っています。

岩畔豪雄について③

キリスト教にも仏教にも戒律というものがあります。

キリスト教は、旧約聖書のモーセの十戒です。
1.   主が唯一の神であること
2.   偶像を作ってはならないこと
3.   神の名をみだりに唱えてはならないこと
4.   安息日をまもること
5.   父母を敬うこと
6.   殺人をしてはいけないこと
7.   姦淫をしてはいけないこと
8.   盗んではいけないこと
9.   嘘を言ってはならないこと
10.隣人の家をむさぼってはいけないこと

一方仏教は在野五戒です。
1.   生き物を殺してはいけない
2.   他人のものを盗んではいけない
3.   不道徳な性行為を行ってはいけない
4.   嘘をついてはいけない
5.   酒を飲んではいけない

仏教の五戒のうち酒を飲むな(イスラームには当てはまります。)以外はモーセの十戒のなかにありほぼ同じなのです。

「生きて虜囚の辱めをうけず」は戦陣訓のなかの有名な一節で、東条英機が作ったとされていますが、発案は岩畔だったのです。
岩畔が最初提案したのは「盗むな」「殺すな」「犯すな」という単純なものでした。
これはキリスト教と仏教の戒律からであることは明らかです。

空海の大日如来は太陽神で、ユダヤの神ヤハウエを想定していることは述べました。(ユダヤ人の祖先であるシュメール人は太陽信仰でもありました。)
日本書記の天岩戸伝説は天照大御神が太陽神であり、両者は同じです。

ユダヤ教発祥の地シオンは英語ではズィオンと発音します。
日本の祇園祭りのギオンは実はシオンのことなのです。
祇園祭りは717日です。
この日は旧約聖書のなかでノアの方舟が大洪水の後、アララト山の頂上で水が引き人類が再出発を始めた日をさします。

この中で鳩がオリーブの葉を加えて戻ってくる記述がありますが、祇園祭りの山車や神輿にはこの絵柄や波の絵柄が書かれていて、これは偶然では説明ができなくなっています。
また伊勢神宮ではイスラエルの国旗の中にも描かれている六芒星(ダビデの星)がいたるところで見られます。

伊勢神宮にある三種の神器のうち八咫鏡のうらにヘブライ語がかかれていて、それを見てしまった三笠宮が腰をぬかすほど驚いたのは有名な話です。
「君が代」、「さくらさくら」、「かごめかごめ」がヘブライ語で訳すことができ、内容は旧約聖書からのものであることも言語学的に解明されています。
籠目(カゴメ)は六芒星そのものです。

また、邪馬台国伝説の地のひとつである大分の宇佐神宮は全国の八幡神社の総本山です。
八幡はヤハタとも読みますが、これもヤハウエが転化したものでしよう。

岩畔の話に戻します。
天岩戸伝説でも旧約聖書でも岩は神の象徴として描かれています。
岩畔とはイワクロと読みます。
畔のクロはどうもクロス、つまり十字のことのようです。
半分が神道、半分がキリスト教ということでしょうか?

平安京は中国の唐の都に倣って、碁盤の目のようであったわけですが、これはクロスつまり十字を張り巡らしたものと解されています。

前にも述べましたが、平安京の造成と伊勢神宮の創建には、渡来人の秦氏であり、空海のスポンサーでもあった秦河勝が深くかかわっています。

大秦国であるローマ帝国がキリスト教を国教とさだめ、シルクロードを伝って秦氏が中国で布教し、キリスト教が空海、最澄により、日本に持ち込まれた事実を知るに及び、私は岩畔と安徳天皇、キリストとの関係に思いをめぐらさざるを得なくなったのです。

義母から聞いた話は、あまりに荒唐無稽で、信じろというほうが無理なわけですが、いろいろ調べていくうちに、いくつかの素朴な疑問を持つようになったのです。

まず、一介の軍人にすぎなかった岩畔が戦前戦中、昭和通商、陸軍中野学校、登戸研究所という大事業を三つも立ち上げ、推進できたことに対する疑問です。

昭和通商は、三菱、三井、大倉の三財閥に出資させています。
戦後正義派右翼の首魁となる児玉誉士らは、戦前戦中ここを舞台に私腹を肥やしたのは有名な話です。

大本営参謀たちは、陸軍幼年学校、士官学校、大学校とエリートコースを進み、皆成績はトップクラスでなければ、なれなかったわけですが、岩畔の成績はあまりほめられたものではなかったそうです。
たしかにその構想力と行動力は優れていたのでしょうが、それだけでこれらの大事業を進めることができたとは思えません。

軍隊というものは官僚組織の最たるものであり、とても硬直化してしまうものです。
いわゆる出る杭はうたれるで、異端なものに対しては排除の方向に向かいます。
岩畔は異端児の最たるものであったにもかかわらず、あたかも野放しにされていたかのようなのです。

次に、日米開戦前の戦争回避のための日米交渉をしたとき、カトリックの神父のルートを使ったことは前に述べましたが、なぜそのようなルートを使うことができたのかという疑問です。
また、交渉の過程において、コーデル・ハルとの間に信頼関係を構築できたとはいえ、ハルが最前線に、「岩畔を殺してはならない」という通達をなぜわざわざ出したのかということも疑問です。

あともう一つは、戦後、自分の私塾において、若泉、鴨、矢内をはじめとした多くの優秀な若手の人材が集い、現在も行政、学問、経済の各分野において活躍する人たちを、なぜこんなにも多く輩出できたのだろうという疑問です。

義母から聞いた安徳天皇の血筋であるという岩畔家の言伝えは、まあ裏天皇史としてはよくある話ではあります。

しかし、戦国時代、ザビエルがキリスト教布教の拠点とした大道寺が岩畔家ゆかりのものであり、布教を許可した当時の周防の守護大名であった大内義隆が渡来系の出自であったことを考えると、にわかに真実味を帯びてきます。

また平安時代、空海が、渡来人の秦氏であり、聖徳太子の側近でもあった秦河勝の庇護のもと、キリスト教の原典も持ち帰ってきていた事実を知るにつけては、日本の歴史を書き換えざるを得ない一大事と思わざるをえません。

そして、ユダヤの民のディアスポラの直後、陸のシルクロードを伝い中国、朝鮮半島を経由して日本に渡来した人たちが大和朝廷をおこし、日本書記に記述されているように皇室の歴史が始まっているのです。

邪馬台国が徳島の剣山であり、空海が唐からキリスト教の原典を持ち帰ってきたあと、剣山を拠点に活動し、そこにクリスト神社があったことを知ったときは本当に驚かされました。
なぜならそこは安徳天皇伝説の地でもあったからです。

邪馬台国は大和朝廷に負けた後、出雲に移動し、出雲大社になったのが、古事記に記されている国譲りの神話のようです。

長野の諏訪大社もユダヤ教のラビがわざわざ参拝にくるほどユダヤと関係が深いことも有名です。
諏訪は縄文文化の中心地であったことでも有名ですが、諏訪大社の御頭祭は旧約聖書の創世記のなかにあるイサク伝承がもとになっているようです。

2014年11月1日土曜日

岩畔豪雄について②

岩畔家は表向き浄土真宗なのですが(私の家も浄土真宗です。)、実はキリスト教と深いつながりがあるのです。

私は妻と一緒になってもう26年になるのですが、知り合った当初から自分は、あるやんごとなき血筋であることは聞かされていたのですが、岩畔のことだろうから、そりゃそうだと、最近まであまり深く気にせずにいました。

今年ベストセラーになった小説で「村上海賊の娘」という本があります。作者は和田竜です。
妻が買ってきたので私も読みましたが、これは本当に傑作です。
どうしてこれを読む気になったかと言うと、岩畔家にまつわる苗字のひとがたくさん登場するからというのです。

岩畔家の墓は広島の呉の近くの山のてっぺんにあって、その下を取り囲んで、村上水軍の末裔の墓が、あたかも護衛するかのように、建てられているのだそうです。
うちは4人家族で、息子と妻の母親である義母と一緒に暮らしています。
義母も76才になのでる、元気なうちに、いろいろ話を聞いておこうと思ったところ、驚きの連続でした。
妻は亡くなった自分の祖母(岩畔と従妹)から聞かされていたのですが、うろ覚えのところがあり、心許ないので、私が直に一緒に住んでいる義母から聞きました。

これから書くことは、岩畔家の言い伝えであって、真偽のほどが定かではないことは、もちろんです。

ことは平家物語の源平合戦「壇ノ浦の戦い」まで遡ります。
結論から先に言ってしまうと、入水して死んだはずの安徳天皇の末裔が岩畔家だということです。

確かに平家物語のなかでも、翌日引き上げられた遺体は、髪の毛の長さや容姿が生前と違う記述があるため、替え玉説により、さまざまな安徳天皇伝説が日本中にあります。

歌舞伎の演目の義経千本桜にも安徳天皇が出てきて、奥州平泉に行ったことになっていますが、義母いわく、これもまんざら創作ではないのだそうです。
これはさすがにないだろうと思いましたが、奥州平泉藤原氏について調べてみると、たしかに平氏とのつながりがうかがえました。

義母の姓は大道(ダイドウ)というのですが、岩畔家と大道家は表裏一体なのだそうです。
岩畔も大道も明治以前は苗字がなく、明治天皇から授けられたのだそうです。
岩畔家と大道家は血族結婚で義母の両親も従妹どうしの結婚だったそうです。
岩畔の本家も、昭和になってからは外戚を迎えるようになったので、一番血が濃いのは自分だけだと自慢していました。

大道の名の由来は大道寺なのだそうです。
大道寺の詳細についてはこちらを参照してください。

大道寺は、いまはもうありませんが、山口県の周防にあった寺です。
戦国時代フランシスコザビエルが日本にキリスト教の布教にきたとき最初に拠点としたところで、いわゆる南蛮寺の一号です。

私も興味がそそられ、いろいろ調べていくうちに驚くべきことがわかってきました。
ザビエルも書物に残しているようですが、なにも自分が最初にキリスト教を日本にもってきたのではないと書いているようです。

ウィキペディア、フランシスコ・ザビエルより
「ザビエルと日本人」の中から引用します。

「布教は困難をきわめた。初期には通訳を務めたヤジロウのキリスト教知識のなさから、キリスト教の神を『大日』と訳して『大日を信じなさい』と説いたため、仏教の一派と勘違いされ、僧侶に歓待されたこともあった。ザビエルは誤りに気付くと『大日』の語をやめ、『デウス』というラテン語を用いるようになった。以後、キリシタンの間でキリスト教の神は『デウス』と呼ばれることになる。」

この中で「大日」とは、空海の真言密教の大日如来のことで、神仏習合の解釈では天照大神と同一視されています。
引用文では、通訳の無知による誤訳とされていますが、これは捏造だと思われます。

ザビエルは、もともと「大日」=「デウス」=「ヤハウエ」と確信していたのだと思います。

エリザベス・ゴードンのところでも述べましたが、確かに中国においてのキリスト教は、2000年近く前に景教ネストリウス派として広まっていて、これは陸のシルクロードを伝ってきたもので、ユダヤ人であることがほぼ特定されています。
当時中国ではローマ帝国のことを大秦国と呼んでいました。

平安仏教の空海、最澄は天皇の代理である遣唐使として中国に渡ったわけですが、そのとき、持ち帰ってきた教典のなかには仏教はもちろんですが、旧約聖書と新約聖書があったのです。

空海の真言宗は大日如来を中心とした菩薩信仰なわけですが、大日如来がユダヤの神ヤハウエ(デウス)で、弥勒菩薩がキリストで、観音菩薩が聖母マリアというわけです。

日本の言語学者で、早稲田大学名誉教授の佐伯好郎博士が、日本に来た最初のキリスト教について、景教(キリスト教ネストリウス派)と秦氏の関係について言及しています。

http://godpresencewithin.web.fc2.com/pages/zatsugaku/firstchristian.html

こちらを参照してください。

真言密教の奥義を授かるには10年以上かかるはずなのを空海は3年ほどで持ち帰ってきてしまい、天才の名をほしいままにしました。
これには裏があり、空海には秦河勝というスポンサーがいたのです。

秦河勝はいわゆる秦氏という渡来人で、聖徳太子の側近でもあり、平安京の造成と伊勢神宮の創建に深くかかわったことでも有名です。

空海は若いころからその才能を河勝に見込まれ、中国へ行く前に英才教育をうけ、中国語と旧約、新約聖書のためのヘブライ語をマスターしてから行ったようなのです。

したがってザビエルが来るはるか以前、すでに空海と最澄によりキリスト教は日本に入ってきていたのです。
秦氏が大秦国と呼ばれたローマ帝国とのつながりがあったであろうことに、思いをはせざるをえません。

空海が全国各地を回ったことは有名ですが、四国の香川出身で徳島を拠点としていたことはよく知られています。

卑弥呼の邪馬台国伝説は九州の宇佐神宮と近畿の淡路島が有名ですが、今、最も有力とされているのは徳島の剣山です。空海ゆかりの地でもあります。

剣山にはクリスト神社(磐境神明社)があり、安徳天皇ゆかりの地でもあるのです。
詳細は
こちらを参照してください。

ここには安徳天皇が壇ノ浦で入水して行方のわからなくなった三種の神器の一つである剣が隠されているという伝説があります。
剣山の名の由来と思われます。
クリスト神社のクリストとはまぎれもなくキリストのことでしょう。

キリストが日本にきた時期があるという伝説は、真実味を増しつつあります。
キリストが8年間ほど行方が分からなくなる時期と日本にいたのではないかという時期が一致しているようです。

キリストの子孫が全国各地にいたという伝説は、まんざらでもないのかも知れません。

岩畔豪雄について①

板垣先生は、イスラームのタウヒード、つまり「多即一」「万物あるがまま」の境地であるアイデンティティー複合という思想を展開されています。
これを活かしていくことができるようなネットワークとパートナーシップの世界が、人類文明の始原回復だと言われています。

私が、このブログを2年ぶりに再開するにあたって、自分自身のアイデンティティーに関わることも書こうと思った動機は、板垣先生の言われているアイデンティティーの多様性という考え方に触発されたこともあってです。

家族は、私のアイデンティティーのひとつです。

戦後の右翼、統制派の領袖で、岩畔豪雄(イワクロヒデオ)という元軍人がいました。1970年に亡くなっています。

私は一家4人暮らしで、妻、息子、義母(妻の母)は、岩畔家の血筋なのです。
妻の祖母(義母の母)と岩畔が従妹どうしだったのです。

岩畔は、日米開戦前、アメリカとの戦争回避のために、当時の野村駐米大使と日本陸軍を代表して、コーデル・ハルと日米交渉
をした人です。

「日米諒解案」は、井川忠雄と岩畔によって作成されました。
当時の松岡洋右外相の頭越しに行ったことに松岡は激怒し、ハルノートを無視し、東条英機は真珠湾攻撃を決行してしまったのです。

当時は、開戦止む無しが大勢だったため、戦争回避の交渉をすることは、当然命がけだったわけで、開戦と同時に南方戦線の最前線に飛ばされました。
第五近衛連隊の連隊長として、3000人の部下を率い、シンガポール陥落の快進撃をしたまではよかったのですが、足に銃傷を受け、連隊長を交替した後は、地下に潜伏しました。

岩畔は、インドの独立運動の主導者であるチャンドラ・ボースの支援をしたのです。
チャンドラ・ボースについては、大川周明のところでも述べましたが、犬養毅(元総理、515事件に
て斃れる)、大川、右翼の頭山満、内田良平らが支援したラース・ビハリー・ボースを引き継いでインド独立運動を主導したのがチャンドラ・ボースです

チャンドラ・ボースは、1945年8月18日、日本の敗戦直後、飛行機事故で亡くなりました。
インドがイギリスから独立した後は、ガンジーの次にインド独立に貢献した人として、今でも英雄として称えられています。

マハトマ・ガンジーの非暴力による抵抗運動の裏には、軍人としてのチャンドラ・ボースの働きがあったのです。

チャンドラ・ボースを軍事的に支援したのは、いわゆる「岩畔機関」というもので、実は諜報機関の陸軍中野学校は、岩畔が創設したものです。
731部隊の登戸研究所も岩畔が創設し、昭和通商も岩畔が創設しました。

昭和通商ではアヘンと人民元の偽札作りで巨万の軍資金を調達しました。
戦前戦中は何でもアリの首謀者だったわけです。

敗戦直後に奇跡的に帰国しましたが、3000人の部下のほとんどを失い当然本人も死んだものと皆思ったそうです。

それは、開戦前の日米交渉においてコーデル・ハルから絶大な信頼を受け、ハルが「あの男だけは殺してはならない」と戦線に通達を出したためとのことです。

インド独立運動の影の立役者なわけですから、イギリスのチャーチル首相からは強行に身柄引き渡しを要求されましたが、GHQのマッカーサーは拒否したのです。

極東軍事裁判においては、戦争回避に尽力したうえ、開戦と同時に最前線に飛ばされたので、裁判にかけられることはありませんでした。
絞首刑になった7人のうち陸軍は上から東条英機と武藤章でしたが、開戦前は直属の上司の武藤章よりも権勢を誇っていたのだそうです。

戦後の右翼団体を紐解くと大きく五つに分けられます。
1.   皇軍復活を主張した真崎甚三郎らの「皇道派」
2.   具体的再軍備案を提示のうえ連合国側に協力を提示した下村定らの「正義派」
3.   連合国との協力を変節者とみなし、これに対抗した岩畔豪雄らの「統制派」
4.   反共援蒋のために台湾派兵を計画した岡村寧次らの「募兵派」
5.   制海・制空権を重視した再軍備計画を提案した野村吉三郎元海軍大将を中心とした「海軍派」
です。
ウィキペディア「右翼団体」
より引用。

児玉誉士夫、笹川良一は典型的な正義派だったわけです。
今ではアメリカの公文書が公開されたため、児玉、笹川、正力松太郎、岸信介はCIAのエージェントだったことが明らかになっています。

岩畔は表立っての右翼活動をしたわけではありませんでした。
京都産業大学の創設メンバーのひとりですが、自分で私塾を作り、若手の育成に専念したのです。
その弟子となった人たちは、現在も活躍している人がいます。
その中でも有名な人を三人あげますと、

若泉敬 この人は京都産業大学の教授だったひとですが、佐藤栄作首相の密使としてニクソン、キッシンジャーとの沖縄返還交渉をまかされた人です。
その時の内容を一冊の本「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」を出版して、18年ほど前、自死を遂げました。

鴨武彦 この人は東京大学法学部教授だったひとで、国際政治学の権威だったひとですが、やはり早くに病死にしました。
早稲田の政経学部卒なのですが、東大の坂本義和教授が早稲田から呼んで、東大法学部の教授になりました。今の都知事である舛添要一は、このため教授になれなくなり、東大を去ることになったのです。

矢内正太郎 この人は外務省の事務次官だったひとで、現政権が今年立ち上げた日本版NSCの内閣官房国家安全保障局初代局長です。

岩畔という男は戦前戦中やりたい放題のことをやってきたわけですが、決して私利私欲には走らず、戦後も慎ましやかな生活に徹しました。
田園調布にりっぱな家が現存しますが、これも支援者に建ててもらったもので、死んだときは数百万円の借金しか遺していかなかったそうです。
しかし、多くの優秀な人材を輩出したことが、彼の最大の財産だったわけです。

岩畔が日米交渉をしたとき、カトリックの教会の神父を通して交渉を行いました。

若泉もおそらく師匠と同じルートを使って、沖縄返還交渉をしたのではと思われます。

世界の情勢について 隠蔽されてきた事実が白日の下に

ではなぜ現政権は集団的自衛権行使を急ぐのかということです。
いわゆるアメリカの軍産複合体の金儲け主義の片棒をかついで、おすそ分けにあずかりたいということなのでしょう。

もう10年以上も大きな戦争がないので、兵器の在庫一掃をしたがっているのです。
彼らは白人系のユダヤ人で、ロスチャイルド、ロックフェラー等です。
世界の金融、石油を牛耳り、隠然たる力を持っています。
しかし彼らの力にも陰りが見えてきたことも事実です。

世界的な金融再編の動きが加速しています。
ロシアと中国が天然ガス供給契約をしましたが、ドル決済からルーブルや人民元による決済の増強についての検討が開始されました。

ブラジル、ロシア、インド、中国、南アフリカの5か国は、BRICS開発銀行の創設を決めました。
世界銀行、国際通貨基金(IMF)のミニチュア版と欧米には揶揄されていますが、今後の動きが注目されます。

イスラム金融(利子の概念を用いない金融)にも注目が集まっています。

いずれも世界の基軸通貨であるドルへの脅威となる可能性があります。

板垣先生が指摘する新市民革命(ムワーティン革命)はもちろんですが、
石油、原子力に替わるエネルギーとして、地産地消の自然エネルギーも鍵を握っていると思っています。

情報に関しては、インターネットの普及によって、大手マスメディアの存在価値が問われるようになってきました。

ロシアのプーチン大統領の庇護のもとエドワード・スノーデン(元CIA及びNSA局員)やウィキリークスのジュリアン・アサンジらによって、今まで隠蔽されてきた事実が白日の下にさらされようとしています。

911事件がアメリカの自作自演ではないかという噂は、かねてよりささやかれていましたが、スノーデンが暴露した内容は衝撃的なものでした。
詳細は
こちらを参照してください。

ツインタワーの基礎の下部で発見された、巨大な「溶解した御影石」の大洞窟は、熱核兵器の可能性が高いとのことです。
WTBビル1と2の補強の鋼鉄、打ちっぱなしのコンクリート、管状のコア構造を完全に溶解させるためには、核爆発による超高温でないと説明不可能というものです。

同じようなことは、311福島原発事故にも言えます。
元三菱重工の原子力システムの設計者で、原子力安全機構(JNES)の原発検査員であった藤原節男氏という人がいらっしゃいます。
この方は、福島第一原発3号機の爆発は水素爆発という東電の発表に対し、事実を隠ぺいしているとして、核爆発であったと証拠を提示しています。
詳細は
こちらを参照してください。

核爆発である証拠のひとつとして、福島3号機使用済み燃料プール付近の屋根フレーム鉄骨が局所的に飴細工のようにひん曲がっている点です。
これは、局所的に1万度以上の超高温が発生していることとなり、水素爆発ではあり得ず、これは、広島の原爆ドームの鉄骨の曲がり方と同じです。

911の「溶解した御影石」、福島3号機の鉄骨、原爆ドームの鉄骨、いずれも超高温によるもので、核爆発であった科学的証拠となるようです。

藤原氏は、福島原発事故につながる根本原因是正処置不履行、再発防止策不履行についての公益通報(いわゆる内部告発)をしたために、60歳定年後の再雇用を拒否され、職場復帰のために民事訴訟実施中です。

現政権は今年イスラエルと準同盟関係を結び、ガザで行われている虐殺を見て見ぬふりを決め込んでいるかのようです。
日本の民生部品が兵器となり、アメリカのアシュケナージを通じてイスラエル軍に供給されることが現実化してきました。
間接的とはいえ、イスラエルによるパレスチナ人の虐殺に加担してしまうわけです。


本来仲間であるパレスチナ人への裏切り行為です。