2018年4月23日月曜日

日本人にとっての“integrity”とは⑭日本における所有権について

次に、日本における所有権についてです。

小室直樹氏は、
儒教の考え方は、政治万能主義であるとしています。
北条泰時の思想は、「日本は天皇の私有財産」であるとし、それに対して
啓典宗教の思想は、人間はじめ被造物はすべて神の私有財産であるとしています。

「『私所有権』客体に対する全包括的、絶対的支配権
 あらゆる支配を含むところの全包括的権利 どのようなこともなしうる」

民法の使用、収益、処分は、キリスト教思想(予定説)からきていると指摘しています。

泰時のいう日本と天皇の関係は「国はみな王土にあらずという事なし」であり、
承久の乱の直前まで官軍に抵抗するなんてとんでもないとしていました。
無条件降伏することが天皇イデオロギーである予定説と考えていたわけです。
しかし、因果律としての善政主義(易姓革命)が出てくるのは、父である義時の泰時に対する反論で、天皇神格主義が否定されるとともに逆賊必敗論も否定されました。

山本七平氏は、「日本型リーダーの条件」のなかで、日本は完全に儒教化したことは一度もなく、
「儒教圏の異端の国」ではあっても「正統の国」ではないが「異教の国」ではないと指摘しています。
「律令体制」=古代儒教に基づく「王土思想」による土地の国有制
日本は土地の私有というより、国有地の不法占拠を暗黙のうちに認めざるを得ない状態であったわけで「土地を占拠した独立自営農民=武士 サムライ」と指摘しています。

小室氏は、山本七平氏が「天皇に刃向うことは当時強烈なタブーであり、武士団の中に強い恐怖」があった 「非倫理的悪行という考え方」心理的抵抗が強烈であったことを重視しています。

「天皇は自由に臣下のものを取ってよろしい 臣下はいかなる理由があっても天皇の略奪を拒否することはできない」

儒教は集団救済の宗教であり、国全体に因果律が貫かれます。
天下の王は有徳の人でなければならなく、有徳とはよい経済政策を行うことです。
これは、欧米の自由放任レッセフェールとは正反対となります。

明恵上人は、「天皇がたとえ無理に命を奪おうとおおせられても日本に生まれ道義の心得ある者はどうしてこれを断ることができましょうか」と泰時に述べました。
これは天皇は暴君であってもよいと言っているわけで、仏教、儒教の論理では考えられなく、近代絶対主義の論理であるわけです。

ホッブス的絶対国家の定義としては「主権者の決断によってはじめて是非善悪がさだまるのであって主権者が前もって存在している真理ないし正義を実現するのではない」(丸山真男)
近代絶対主義の論理は、キリスト教の論理であり、ユダヤ教の論理でもあります。
「是非善悪は神が決める 神が正しいと決めたから正しい」

承久の乱によって古代天皇イデオロギーは死に、天皇予定説は消えたと小室氏は指摘しています。
天皇イデオロギー教義の一つである予定説は、キリスト教の神としての神格をもつことです。
近代絶対君主としての人格をもつことになるわけで、
「神が宇宙において正しいがごとく絶対君主は彼が主権をもつ国家において正しい」(丸山真男)
 天皇はかかる神格を有するがゆえに「前もって存在している」社会の倫理道徳の立場から天皇に従わないことは、日本人としては義(正しきこと)からはずれるとしています。
 天皇神格主義が承久の乱によって否定され、善政主義(儒教にいう湯武放伐論、易姓革命論)に代替えされたわけです。
 儒教においては、天下を天子の私有財産であるとは絶対考えません。

日本などの資本主義未熟国においては、「所有」という考え方はないか、あっても確立されてはいないのであり、曖昧模糊としているのです。

近代における資本主義は私的所有権からはじまります。その特徴は「絶対性」と「抽象性」です。
「所有の絶対性」とは、所有物に対してはどのような行為をもなしうることです。
キリスト教では、神(創造者)の被造物に対する所有権は絶対である。
この、タテの絶対的所有権が、ヨコの絶対的所有権(人間社会においても、所有者の所有物に対する権利は絶対である)に転化したのが資本主義的所有権です。このように、資本主義的所有権は、特徴的にキリスト教的概念であるわけです。

「所有の抽象性」とは、現にその物を支配しているかどうか(占有しているかどうか)と関係なく、所有権が成立することです。
山本氏は、日本には所有の概念はないことを発見しました。
「悔い返し権」は所有権は絶対であることの、まさに正反対です。
親は息子に所領を譲っても、経営能力がなく、親を扶養ぜず、幕府への奉公を無視すればこれを取り消すことができ、幕府も自動的に取り消します。
所有は絶対的でもなければ、由緒(例:権利証)よりも知行(占有)が優先し、抽象的でもないのです。

山本氏によれば、貞永式目は、武士の法律であり、土地への私的所有権を認めその権利を保証しています。
東アジアの大陸では別の道をたどり、韓国は極端な中央集権制でした。

「二十箇年・年紀制」 「理非を論ぜず改替あたわず」
武士は、あらゆる方法で自らを守らねばならなかったのです。
農民が逃げないように立派に経営し同時に租税を完全に納付した者のみを、武士の政府である幕府が保証しました。
相続法は、「能力なきものは相続権なし」「自由相続制」
血縁順位に関係なく、相続人を指名しえる権利を保証しています。
中国、韓国は、原則として男子への均分相続制であり、通常は長子が「家長権」を有します。

日本の文化の特徴は「下剋上文化」であると山本氏は指摘しています。
「権力代行制」、「隠居制」
貞永式目は生活百科でもあったわけで、日本人の常識は式目と論語でつくりあげられ明治五年まで続き、今でも式目的であります。

近代における資本主義の所有権の考え方は、一度所有したものは永久にその人間の所有であるという所有権が確立するとしていますが、
式目七条では、
二十箇年・年紀制 で「悔い返し」ができます。
八条では、所有権放棄 時効の概念がこのときすでに規定されました。
たてまえでは公地公民制で、私有しているものの、最終的には国に帰属します。
式目で初めて土地の所有権が法的に認められるのは、由緒と知行によるわけですが、
あくまでも当知行者すなわち現占有者を優先し、
名目的にどうであれ現に占有し、経営して納税している人間の所有となり、
由緒はとりあげない、これが、幕府のほぼ一貫した所有権の規定です。
 
日本では今でも当知行という考え方が強く、現にそれを持って経営している人間の所有であるかのごとき意識を当事者も第三者も持っています。
経営せざる者は所有していると言ってはならないわけです。

相続における血縁順位は一切ありません。
「相続期待権」一定範囲で相続しえると期待しうる権利と指摘し、
 父親が「譲り状」を交付すると、幕府は自動的に「安堵状」を交付します。
 未亡人が相続して養子をもらって相続させることができるようにもなりました。
 相続人は誰でもいい「今立つるところの嫡子」となるわけです。
「未処分の跡の事」とは、所領の経営とは幕府に対する奉公、過去の実績、年功の有無、能力の有無によってのケースバイケースで、血縁順位は出てきません。
相続順位は原則的に能力主義と実績主義によるわけです。

農民が逃散しても幕府は救済しません。
「悔い還し」二十箇年・年紀制とは、現に経営していないものは所有権がなく、経営していなければ所有権を失い、下剋上となります。
能力なければ「悔い還し」して別の人間へ所有権は移ります。
あくまで能力主義 実力が虚位を排除するのが当然なわけです。
下剋上は武士にとって悪いとは思わなく、合法的下剋上であり、
能力を正当に評価されないと不満を持つわけです。
儒教的血縁順位「長幼序なり」では、法そのものが下剋上を認めません。  
天皇家だけは万世一系という、安全弁ないしは象徴であったわけです。
血筋による世襲を認める場合は、そのものを象徴として実権をもたせません。
男女同権の相続権は、平等に期待権があり、「入り婿制」は、世界的に例外です。
能力を正しく評価することが、法的正義であり、法に違反した場合、幕府は補償しません。
所有して機能させている能力が現にあるということを示さない限り権利を認めないわけです。
日本人のおカネに対する感覚は昔から相当に敏感であったと山本氏は指摘しています。
「利息をとることは日本人にとって少しも『罪』ではなかった
    イスラム法、教会法 『利息禁止法』
  武士 公地公民制を崩壊させて土地の私的な所有権を認めさせた階級
  『一所懸命』で命懸けで手に入れかつ、その所有権を守り抜いた土地をおカネによっていとも簡単に召し上げられたりする。いかに多くの御家人が借金のために所領を失ったか」

日本の「所有権」は、近代資本主義の特徴である「絶対性」と「抽象性」とは相反していることを「悔い返し権」を例に小室、山本両氏は説明しています。

山本氏は、日本は「下剋上文化」であり、何事にも能力主義を優先すると指摘しています。
これは、承久の乱以降、泰時が貞永式目を制定することによって、より明確にされます。

承久の乱以前は、天皇イデオロギーが支配していたと小室氏は指摘しています。
天皇イデオロギーとは、ホッブス的絶対国家の定義としての「主権者の決断によってはじめて是非善悪がさだまるのであって主権者が前もって存在している真理ないし正義を実現するのではない」(丸山真男)であり、
近代絶対主義の論理は、キリスト教の論理であり、ユダヤ教の論理でもあり、
「是非善悪は天皇が決める 天皇が正しいと決めたから正しい」となるわけです。

天皇神格主義が承久の乱によって否定されることにより、善政主義(儒教にいう湯武放伐論、易姓革命論)に代替えされ、天下を天皇の私有財産であるとは考えられなくなります。

欧米のキリスト教諸国においての所有権は、タテの絶対的所有権が、ヨコの絶対的所有権に水平展開したのが資本主義的所有権で、これは、“integrity”によるものです。

日本での所有権の概念は、欧米の制度を継受しているわけですが、実際の判例は、近代資本主義の「絶対性」と「抽象性」に相反して、当知行という考え方が強く、現にそれを持って経営している人間の所有であるかのごとき意識を当事者も第三者も持っています。

これは、日本は「下剋上文化」であり、何事にも能力主義を優先することからきているとしています。

能力主義は、働くことを絶対化すことからきているとも考えられます。
労働を絶対化するということは、宗教的に働くということであり、それは、正直、質素、倹約という徳目を心掛けて働くということであって、この徳目は、キリスト教も儒教も同じです。

能力主義の目的は、宗教的に働くことによって救済されることであり、個人的に利益を得ることは二の次でなくてはならないわけです。

能力主義が行き過ぎると拝金主義に陥り、おカネを稼ぐことだけが目的となります。
おカネは宗教的に救済されるための手段でなくてはならず、目的と手段の転倒となってしまいます。

また、能力主義は、自分の評価が何を基準としているのかが問題となります。
企業において、トップの成績のセールスマンが、「人徳」がなければリーダーになれないのが良い例で、売上高だけが評価の基準にはなり得ないわけです。
マックス・ヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」における宗教的徳目は、儒教の徳目と同じで、儒教の徳目が日本人の能力主義の評価基準になっていると考えられます。


資本主義的所有権と相反した感覚の日本人にとって、儒教の徳目が“integrity”を補完しているようにも考えられます。

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