2018年4月15日日曜日

日本人にとっての“integrity”とは⑥日本における東洋と西洋の思想の習合

次に、日本における東洋思想と西洋思想の習合についてです。

山本氏は、
「自分がそれによって生きている最も重要な生活の資を神々に捧げることは、いずれの民族でも行われてきた。また個人や集団や一国民の中の罪や瀆れを何らかの形で除くという祭儀や習俗もまた、いずれの国でも行われてきた。正月のおそなえ、月見のだんご、おみきなどは前者であり、おはらいは後者の一つであろう。さらに、罪や瀆れを洗い清めたり、何かに転嫁して除くという発想も、いずれの国にもあった。ヒナ人形を川に流したり、海に入って禊ぎを行ったりするのもその一例であろう。日本人は「無羊民族」だから、このような場合の供犠は穀物か魚か、せいぜいキジくらいに限られていたが、遊牧民ではこれが専ら家畜になって不思議ではない。そして理屈からいえば、この場合、その対象が羊であれ魚であれ米であれ、同じはずである。また屠殺なしでは生活できない人びとが、家畜の初子を神前で屠殺することもまた、初穂を捧げるのと原則的には違わないはずである。」

として、ユダヤ人と日本人の罪や穢れを洗い清めたり、何かに転嫁して除くという思想を、羊と穀物を例として比較しています。
ユダヤ人の家畜の初子を神前で屠殺することも、日本人の初穂を捧げるのと原則的に違わないと指摘しています。

小室氏は、
「仏教は、僧俗の峻別を重視する。  
イスラム教は僧の存在を認めない。
僧は世俗特に政治権力の干渉を受けず、極力これを排する。
イスラム教 宗教的差別を認めない。
仏教 宗教的行動の中心は出家して修行
日本仏教は仏教でなくなった 日本教の一宗派となった」

仏教は本来、出家して家族とも絶縁し、世俗特に政治権力の干渉を受けないものでありましたが、日本では、政治権力である朝廷の貴族たちに保護されたことにより、僧俗の峻別がなくなり、本来の仏教ではなく、「日本教」になってしまったと指摘しています。
また、
「救済は如来の方から一方的にくる 末法思想 罪深くなり過ぎ 努力しても無駄
親鸞 愛欲や名利にまどわされて修行に専念するどころではない。
パウロ クリスチャン 救済は神の方から一方的にくる
浄土宗 人間を救うことこそ神の本願
    人間が行為によって神に働きかけるのではない
法然、親鸞 『行い』なく、ただ『信仰』あるのみ
    ただ念仏を唱えなさい、そうすれば不思議なことに往生できる
日本人の心状態『全我を打ち任せての無我の心状態』
   キリスト教では無我で信じても救済されない
    『イエスキリストは必ず救ってくださる』と信じただけでは救済されない
    『神はイエスを死からよみがえらせたもうた』という事を信じなければならない
浄土宗は<法蔵比丘が念仏という本願を成就して阿弥陀仏になったゆえに念仏だけが本願力を有する>
罪人は罪人ながら『念仏を唱えて成仏す』という本願の不思議が生ずる」

救済に関しては、仏教もキリスト教も同じで、仏教は如来、キリスト教は神から一方的にくるものだとしています。
法然、親鸞は末法思想により、もはや罪深くなりすぎて修行に専念するどころではなく「信仰」あるのみとしました。

しかし、日本人は「無我の心状態」で念仏を唱えさえすれば救済されますが、キリスト教では、無我で信じても救済されることはなく、イエスが復活したことを信じなければ救済されないと、違いを指摘しています。

「キリスト教においては労働は救済の手段
 仏教では労働なんかしている時間はない
 出家者の集団たるサンガの戒律は労働を厳禁した
僧は、仏教において最も尊重される存在 すべて喜捨によって生活 労働してはならない」

本来の仏教の出家者は、修行のため労働をしてはならず、すべて喜捨によって生活したわけですが、日本では末法思想により、罪深くなりすぎて修行どころではなくなり、キリスト教と同じで労働による救済の考え方が芽生えてきます。

「宗教から戒律を抜くことこそ日本人の人心を得る秘訣 日本から法を消し去った 戒律不在が法不在を生んだ」

戒律不在が法不在を生み、日本人が人心を得る秘訣とはなんでしょうか。
仏教が、法不在となり、それに代わる日本人の規範は、儒教の「人徳」となっていきます。
「人徳」がなければ、人はついてこなくなってしまうわけです。

山本氏は、「昭和天皇の研究」において、
「立憲君主制とは、言葉を換えれば制限君主制である。そしてこの制限は、天皇にとっては明治大帝が定めたことであり、この制限の枠を絶対に一歩も踏み出すまいとされた。
『二・二六の時と、終戦の時と、この二回だけ、自分は立憲君主としての道を踏みまちがえた…』
美濃部達吉博士『絶対神とか、全知全能の神とかいう如き意味』ではなく、『限りなく尊く畏き御方』つまり『人』という意味にすぎないことは明確に記している。」

立憲君主制の天皇は、美濃部博士の天皇機関説から、絶対神としての「現人神」ではなく、「人」であるとしています。

また、本居宣長の
「『カミ』という概念は、欧米の『God』とは全く別のものである。
この『カミ』という言葉にさえ、天皇は明らかに不快感を示している。理由は、明治憲法は『天皇ハ国ノ元首』と規定していても、『現人神』などとは規定していないからである。
『人間宣言』における天皇の真の意図は、『カミ』と『God』が混淆すると、天皇は神権的絶対君主となってしまい、天皇の立憲君主という自己規定と、甚だ違ったイメージになる。
天皇は『憲法の命ずるところにより…』という言葉を使っている。いわば天皇がトップではなく、その上に憲法があり、この憲法の命ずるとおりにしているという意味である」

とし、天皇は立憲君主という自己規定を踏み間違え無いように終始徹底していました。

「杉浦重剛(倫理担当教師)は『仁=最大多数の最大幸福(ベンサム)』が持論であり、いわば中国思想とイギリス思想を習合させている。
白鳥庫吉(日本における歴史学の租)『神話が歴史に非ず』津田左右吉が継承。
杉浦重剛『三種の神器』を非神話化して『知仁勇=知情意』の象徴」

天皇の倫理担当教師であった、杉浦氏は、中国思想の「知仁勇」とイギリス思想の「知情意」を習合させて、「仁は最大多数の最大幸福」と規定しています。

「五箇条の御誓文『広ク会議ヲ興シ』であって、『門閥専横の政を斥け』ではなく、天皇にとっては、五箇条の御誓文とそれに基づく明治憲法を否定されることは、自分が否定されることであった。」

天皇は立憲君主制を自己規定とし、それを否定されることは、自分を否定されることであったと指摘しています。

「大嘗祭は豊作を感謝し来年の豊作を願う祭りで、天皇は祭主であり、祀る側であっても、祀られる側ではない」

天皇は祭主であり、祀られる神ではないと杉浦氏は指摘しています。
また、山本氏は

「天皇は第一次世界大戦の敗戦国の歴史でロシア皇帝の『ロシア正教の保護者』、オスマン・トルコ皇帝の『イスラム教主(カリフにしてスルタン)』といった宗教的神権的権威などは、何の力も持っていないことも知っておられた。
ポツダム宣言受諾『日本政府の形態は、日本国民の自由意思により決定されるべき』
天皇は軍部の反対にもかかわらず『少しも差し支えない、人民が離反したのではしょうがない、国民との紐帯がなくなれば、ドイツやトルコのように消えてしまう』
天皇のこの判断は正しい。自らの帝位を保持するため、国民を犠牲にして連合国と取引するような行為は、勝者との紐帯になるかもしれないが、それは逆に、国民との紐帯を断ち切る結果となったであろう」

天皇は、宗教的神権的権威などは、何の力も持たないとし、ポツダム宣言受諾のときも、軍部の反対にもかかわらず、連合国との取引に応じず、国民との紐帯を大事にしたと指摘しています。
これは、天皇の人柄、「人徳」を示しています。

山本氏は夏目漱石の草枕の冒頭分である
「智に働けば角が立つ、情に掉させば流される、意地を通せば窮屈だ、とかく人の世は住みにくい」を引用して、この文章はフランス人には理解することができないと指摘しています。

「日本人『物事を理知的に処理しすぎるとトラブルが起こる』に対し、フランス人『物事を理知的に処理しないからトラブルは起こるはず』。
日本人『感情を爆発させるとあらぬ方向に流される』に対し、フランス人『感情を抑えているから変な方向に流される』
日本人『意思を貫くと窮屈だ』に対し、フランス人『意思を貫けないから窮屈だ』」

フランス人の「知情意」の思想に対して、日本人の思想は儒教の思想「知仁勇」であるとしています。

「日本人は『智はこれに過ぎ、愚はこれに及ばず』の『これ』は中庸のことである。
『喜怒哀楽未だ発せざる、これを中という』
『意なく、必なく、固なく、我なし』孔子(四絶)」

日本人の「人徳」は、ここからきます。

夏目漱石はイギリスに留学して、日本人の思想とイギリス人の思想の板挟みに苦しんだのも、日本人にとっての「人徳」がキリスト教的教義と相容れないのではと悩んだからではないでしょうか。

小室氏は「『日本教』は集団救済、個人救済である仏教、キリスト教どの宗教も日本に入ってきたらさいご集団救済になってしまう 儒教、ユダヤ教、日本教は集団救済」
と指摘しています。

山本氏は、ユダヤ人の贖罪羊と日本人の穢れを祓い清める儀式の類似を指摘し、
昭和天皇が立憲君主としての自己規定を徹底したことに関連して、倫理担当の教師であった、杉浦重剛が、[三種の神器]を非神話化して[知仁勇=知情意]の象徴と指摘しています。 
「知・情・意」は、キリスト教の教義からきています。
古代日本人の象徴としての「三種の神器」は、ユダヤ人の象徴である「契約の箱」と類似し、キリスト教の教義と一致することになります。

小室氏は、仏教の救済は如来の方から一方的にくることと、キリスト教の救済も神の方から一方的にくることの類似を指摘しています。
日本の仏教は、戒律を失くしながらキリスト教に近づいていきました。
つまり、外的規範から内的信仰に移行したわけです。
そして、個人救済であるはずの仏教とキリスト教は、集団救済の「日本教」に変質してしまいます。

古代日本人の象徴であった「三種の神器」は、現代日本人のとっての象徴「コメ」として継承されているのではないでしょうか。
そこに、豊作を願う祭主としての天皇が、国民の統合の象徴であるとともに、民族の継続性の象徴となると考えられます。


「日本教」である古代神道も仏教も、ユダヤ教あるいはキリスト教的“integrity”を内包してきているようにも思えます。

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