2018年4月16日月曜日

日本人にとっての“integrity”とは⑦日本における秩序について

次に、日本人の秩序についてです。

山本氏は、「礼楽」が日本の上下関係を支配していると指摘しています。
中国では秩序の基本的原則が「礼楽」です。
日本の組織は、「礼楽」でだけ成り立っているのであって、契約で成り立っているのではありません。
「礼」が言葉のなかに組み込まれ敬語という形になっているのです。
言葉のなかに秩序が組み込まれているということです。
上から下の関係が「礼」で、下から上の関係が「義」です。
日本の組織で上下関係を律する秩序原則はこれだけだと述べています。
そして、日本の組織は、
「1.能力主義
2.一揆的集団組織 会社員の不満 上司が細かい
3.礼楽的上下関係 会社員の不満 上司の言い方が気に入らない」

上司が自分に対する正当な評価ができない、細かいことまで口を出したり、敬語の使い方が良くないと秩序が保たれないと指摘しています。

会社においても、セールス能力と、人を管理していく能力は別で,,後者は「器量」と言えます。
「器量」を手に入れるのは「徳」であり、
人徳がなければ人望がない 人望がないと部下がついてこない、これが当たり前となっていると指摘しています。

単に能力が高くても、「器量」が伴わなければリーダーになれず、そのためには「人徳」がなければならないということです。

「『中庸』徳の至れるもの『智はこれに過ぎ、愚はこれに及ばず』
  『喜怒哀楽未だ発せざる、これを中という』感情を発する前の状態
   この状態に人間は居なければならない
  『意なく、必なく、固なく、我なし』意地を全部通すと逆に窮屈になる」

「徳」に至るには「中庸」でなくてはならないとしています。

「社会的条件付け 徳と中庸 十思九徳 六正六邪
最大の要件は個人的資質=人徳 
一揆的な組織、能力主義、上下関係を律する『礼楽』
これらの特質を把握して、自己の定めた目標に向かって動かすことが条件付け権力によって組織を動かすリーダーの条件」

リーダーの条件としては、儒教の教えが社会的条件付けとなっているとしています。

儒教は思想であり同時にその思想を制度化する政治学でもあることを指摘したうえで、
日本はその歴史を通じて一度も儒教的体制をとったことがないと述べています。
これはどうみても正統ではなく、
中国、韓国は中央集権の国で科挙という国家試験によって、士大夫という統治階級が選ばれます。
日本は地方分権の封建制国家であり、個人倫理、また統治原則としての影響を強く受けました。
「論語」は、平和な時代にいかに革命を起こすかという発想はまったくなく、
 乱世になって混乱した社会にどうやって秩序を立てるか 「いわば秩序の学」としています。

応仁の乱以後の日本の秩序は、応仁の乱の混乱が出発点となってその混乱をどう秩序立てていくという形で秩序を作っていきました。
日本の転換期は13世紀ごろ、「論語」「貞観政要」「貞永式目」で始まっていると指摘しています。
「論語『有教無類』教え有りて類なし
孔子 教育万能主義 世の中を治めるのは政治ではなくてむしろ教育である
法治ではなく教治」

日本人は世の中がうまくいかないのは法律が悪いのだとは誰も言わないで、すべて教育が悪いとなり、自己制御としての「徳育」が、孔子の教育のすべてであるとしています。

中国では儒教通りにやらなくてはならないのは士大夫という統治階級であって
それ以外の庶民は道教であろうと仏教であろうとキリスト教であろうとイスラム教であろうと一向に構わないというのが中国の考え方であり、そのかわり庶民は法律で統治すると指摘しています。

皇帝が本当に聖人で官僚が全部君子であれば人民は救済されるとし、
中国人は政治的救済主義であるとしています。
日本で君子といった場合そういう意味はなく、
中国人のように君子と小人を統治者階級と被統治者階級というふうには日本人は全然考えていなかったと指摘しています。

「『女子と小人は養いがたし』女、子供は話せないやつだとなってしまう
中国では女子と小人というのは君子と淑女に対応する言葉」

「由らしむべし、知らしむべからず」も、「べし」「べからず」を“can”と解すか“should”と解すかで意味が違ってきます。

孔子は“can”としていたわけで、「庶民には、なんとなくわからせることはできても、細かいことをわからせるのは難しい」と言っていたわけですが、日本人では、「庶民には、なんとなくわからせておけばよいのであって、細かいことは、知らせる必要はない」となってしまいます。
これは、情報統制そのもので、「女、子供は黙ってろ」となってしまい、情報は隠蔽、捏造へと向かいます。

山本氏は、日本人の「論語」の解釈は、中国人とは違ってきていることについて、

「『論語』をもとにする新しい文化の創造
  一つの古典が別な国に行った場合しばしば起こる現象
  『聖書』ユダヤ人に言わせれば、キリスト教徒は『聖書』を全部誤読しているということになるが、それが別の文化をつくり上げた
  同じように『論語』が日本文化の形成に重要な役割を演じた
  孔子 リアリスト 『性相近し、習相遠し』」

人の天性は大体同じもので、ただ習うことによって善悪、賢愚の差が大きくなると指摘し、
孔子の教育方針の基本はあくまで社会人養成であるとしています。
それも社会の模範としての指導的地位を目指す者の教育であり、
 中国では統治者階級 官僚の養成ということになります。
孔子が教育に専念した目的は、
 現実に社会秩序をつくること、そして、その秩序を担っていく人間を養成することであり、
 現実主義とは孔子の場合、乱世すなわち非常に社会秩序が乱れている社会にどうやって秩序を立てるか 孔子にとって一生の課題であったわけです。
教育はそれに沿って行われました。

「聖書」もユダヤ人にとっては、キリスト教徒の解釈は誤っていることになるのと同じように、「論語」も中国人にとっては、日本人の解釈はおかしいということになりますが、山本氏は、これは新しい文化の創造であると指摘しています。

「孟子『義を損なう者これを賊といい、仁を損なう者これを残という』
殷の湯王、周の武王も『残賊の一夫』を誅殺 『臣にして君を弑する』ではない
徳を失った天子も残賊の一夫にすぎないのであって、これを殺しても反逆ではない
明恵上人 人間が無欲で静かな状態にいる状態を聖という これが政治の一番基本
    『性の静におることを聖という』
 北条泰時に、おまえが完全に無欲にならない限り天下を治めることはできないといった
いわば何事であれ秩序通りでなければならない。秩序の維持を最も大切とする」

北条泰時の承久の乱後、明恵上人は孟子の易姓革命を引き合いにして、秩序の維持の大切さを説明しています。

孔子がいっている「礼楽」は、礼儀と音楽のことです。
「礼」外面的規範を意味します。
アメリカ人において法は外的規範であるということと非常に似ていて、
中国においても「礼」というのは外的規範です。
 内心とは関係なく秩序を守るためにその通りにしなくてはならないため。
 そこで虚礼があり得るわけです。
「楽」とは元来の意味は音楽を意味します。
音楽とは外面的秩序を超えて全員の情感に訴えるものです。
皇帝と乞食がいるとして、いい音楽にはどちらも同じように内心の反応が起こる
「礼」という外的な秩序と「楽」という内心にともに共感する何か
  この二つがないと秩序は成り立たないわけです。
「楽」というのは上から下まで一本通っている一体感ないしは情感のようなものであり、
同時に「礼」というのはそれでいながら上下のけじめをはっきりと形でつけ、
秩序立てていく外的な規範になります。
この二つが完備しないと秩序ができなく、「礼楽興らざればすなわち刑罰中(あた)らず」で、
 外面的秩序と内心的一体感 それがない限り秩序はできないとしています。

日本は礼楽的社会で、ヨーロッパは契約的社会と、いえばいえますが、どの社会にも礼楽的要素はあります。
礼楽的秩序をつくりあげるための教育が「論語」であり、礼楽的秩序という強い伝統により、日本の社会は、犯罪も少なく、治安も良く、警察官も少なく、法律書を誰も読まないわけで、弁護士の数はアメリカの何十分の一です。

「『事業の一番基本は道徳』であって、資本ではない」
日本の場合、上下秩序が何によってできているかというと、今に至るまで儒教的原則であって、決してヨーロッパの組織的原則ではなかったのです。

小室氏は、儒教はもともと、すぐれて政治的な宗教であり、政治を離れて儒教の存在はありえなく、日本人はその政治的な部分をまったく無視し、単なる一種の人間学にしてしまったと述べています。
なぜ日本人が、すぐれて政治的な宗教たる儒教を誤解するか。それは市民道徳と政治家の道徳の違いを理解していないからであって、もっと言えば、政治家の道徳という独自の概念が存在することにすら、気付いていないからであるとしています。
政治家として真っ先にやるべきことは、非常によいところの市民道徳が通用するような秩序を作ることであると指摘しています。

「礼」という外的な秩序と「楽」という内心にともに共感する何か
この二つがないと秩序は成り立たず、「楽」というのは上から下まで一本通っている一体感ないしは情感のようなものであり、同時に「礼」というのはそれでいながら上下のけじめをはっきりと形でつけ、秩序立てていく垂直的な規範になります。
外面的秩序と内心的一体感 それがない限り秩序はできないとしています。


内心的一体感とは、儒者である石田梅岩のいう「天理即本然の性」=「本心」=「宇宙の秩序」であって、これが、唯一絶対的な神ととらえられるならば、「礼楽」は、日本人にとっての“integrity”であると考えられるように思えます。

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