2018年4月27日金曜日

日本人にとっての“integrity”とは⑱神の摂理として自明なこととは

山本七平氏は、儒教における、中庸にして、「礼楽興らざれば即ち刑罰中らず」とは、外面的秩序と内心的一体感、それがない限り秩序はできないとしています。

日本人は、孟子の性善説を、「すべて罪人であることを自覚することに対する恐れ」からきていると感じているのではないでしょうか。

つまり、キリスト教の「原罪論」を無意識の内に閉じ込め、その反動として、徳川幕府時代、主流が仏教から儒教へと移行していくなかで、山本氏が禅僧の鈴木正三、儒者の石田梅岩を例とする「本心教徒」としての日本人が形成されていったと思います。

これは、小室直樹氏が指摘する幕末の儒者(本来善政主義)である崎門学(山崎闇斎学派)が、天皇の「非倫理性」を徹底的に追及することによって、善政主義の因果律を否定し、キリスト教の予定説である「天皇イデオロギー」を復活させていったことと相関し、心理的な逆作用が働いているように考えられます。

そして、明治維新となり、天皇は「アラヒトガミ」化され、昭和の軍部の無責任体制を生み、戦争へと突き進んでゆきます。

旧約聖書では、モーセが戒律によって、外面的行動の禁止を命令しましたが、新約聖書のイエスは、人間は皆が罪人なのだから、罪人が罪人に刑の執行はできない『罪なき者にかぎって刑の執行ができる』としました。

「中庸でない者」=「罪人」と解せば、「礼楽興らざれば、即ち刑罰中らず」と「罪人が罪人に刑の執行はできない」は同義になると考えられます。

「中庸」とは、「喜怒哀楽未だ発せざる、これを中という」で、「意なく、必なく、固なく、我なし」という状態です。

小室氏は、「ユダヤ教は『律法』法律を守ることが『救いの恩恵』の条件
『掟を守る』ことが約束の地へ帰還できる<必要かつ十分条件>である」としました。

「語源的にデモクラシー(民主政治)の反対は何かというと、シオクラシ―。神聖政治である。
古代ユダヤにおいては、根本的にシオクラシ―であるのに、それをきちんと守らなくなったからうまくいかなくなったというのが、旧約聖書のテーマになっている。つまり、シオクラシ―とは、神様の言ったとおりにやるという政治」

これは、“integrity”そのものと思います。

民主政治は衆愚政治とうらはらで、全体主義に陥る危険をはらんでいることは、ナチスが全権委任法で、独裁政治に進んだことで歴史が証明しています。

現在の日本は、その瀬戸際にたたされていると思います。

聖書の精神である、「自分にして欲しいことを他の人にもしなさい」と、論語の原則である「自分のして欲しくないことは、他の人にしてはいけない」は、「逆も真なり」で同義の行動規範であり、「救いの恩恵」の必要条件と考えられます。
十分条件は、政治制度として同義の「罪人が罪人に刑の執行はできない」と「礼楽興らざれば、即ち刑罰中らず」がそれぞれ対応すると考えられます。

つまり、「救いの恩恵」の条件は、新約聖書では、「何事によらず自分にしてもらいたいと思うことを、あなた達もそのように人にしなさい。これが律法と預言者と聖書の精神である」は必要条件であり、「罪なき者キリストにかぎって刑の執行ができるのであって、キリストの言行を信ずること」が十分条件となります。

論語での「救いの恩恵」の条件は、「己の欲せざる所は、人に施すことなかれ」が必要条件であり、「礼楽興らざれば、即ち刑罰中らず」は十分条件となります。

ユダヤ教では、「律法」法律を守ることが「救いの恩恵」の条件、「掟(モーセの十戒、偶像崇拝禁止はその一つ)を守る」ことが約束の地へ帰還できる<必要かつ十分条件>であります。

ユダヤ教と儒教は、救済の対象が集団であり、外面的秩序としての現世利益であり、政治的といえます。
キリスト教、イスラム教、仏教の救済対象は個人であり、内心的一体感であり、天国か地獄かという最後の審判へ、となります。

マックス・ヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」によれば、
近代資本主義においての「救いの恩恵」の必要条件は、「宗教的に働くこと」であり、十分条件は「自由、民主主義によって人権が蹂躙されることのない政治制度」であると考えられます。
資本主義は利益を追求することが目的となりますので、キリスト教でありながら、救済の対象が集団であり、外面的秩序としての現世利益であり、政治的といえますが、最終的には個人の内心的救済へと導かれるとしています。

禅僧の鈴木正三、儒者の石田梅岩によって「労働=善」と絶対化した日本人にとっての「救いの恩恵」の必要条件もやはり、「宗教的に働くこと」であり、十分条件は「人権が蹂躙されることのないように『方針をキチンと示す』ことのできる為政者による政治制度」と考えられます。
やはり、救済の対象は、集団であり、外面的秩序としての現世利益ですが、最終的には個人の内心的救済へと導かれるとしています。

「方針をキチンと示す」とは、山本氏的に言えば、偶像を絶対化した「空気」から脱却するために、その「空気」に「水を差す自由」を行使する勇気を示すことです。

「宗教的に働く」とは、神に救済されることを目的とし、「カネ」はそのための手段であることを自覚して働くことと言えます。
経済論的に言えば、目的合理的に働くこと、つまり、収入をすべて消費してしまわず、労働者であれば貯蓄に回したり、経営者であれば設備投資に回したりして未来に備え、継続的な維持繁栄を目的として働くことです。
徳目としては、正直、質素、倹約が重要となります。

人権が蹂躙されることのないように『方針をキチンと示す』ことのできる為政者による政治制度」とは、ギリシャ、ローマ法を基盤とした欧米においては、『「ヴィルトゥー」を有し、運命さえも自分の意志に従わせる効率の高い為政者による政治制度』、儒教圏においては、『「徳」を有し、残賊を放伐できる為政者による政治制度』、と言えます。

「方針をキチンと示す」と言ったのは、田中角栄であると小室氏は指摘していますが、田中角栄は「数は力なり」ばかりが取りざたされてきましたが、その前提としての議会での議論が大事であることを熟知し、議員立法を数多く成立させることのできた希少な政治家のひとりでした。

「数は力なり」というのは、多数決原理を強引に進めるような政治手法ととらえられがちです。

山本氏は、「われわれの社会では、常に正義の基準の如く絶対化されている命題も、すべて、一種の対立概念で把握されて、相対化されてしまう」とし、
「正否の明言できること、たとえば論証とか証明とかは、元来、多数決原理の対象ではなく、多数決は相対化された命題の決定にだけ使える方法である」と指摘しています。

つまり、「方針をキチンと示す」とは、正否の明言できることは、多数決の原理の対象とはせずに、方針を示すことにあります。

正否の明言できることとは、自然法則に基づく論証や証明であり、自然法則とは「宇宙の秩序」であり、「神の摂理」です。
そして、この人間にとっての抽象的情報の本源的根拠は「聖書」であり「論語」であるわけです。

日本人として為政者となれるのは、穢れの無い者です。
穢れの無い者となるには、神前において禊ぎにより罪や穢れを祓い清めるわけです。

穢れとは、古来、混乱に陥りそうな状態と考えられてきました。
村落共同体においては、出産(昔は低生存率)、女子の初潮、男子の元服、死に至るまで、秩序が乱れそうになったときを、逆に結集力を呼び起こすための機会ととらえたのです。
これが、上からの支配のための制度となってしまうと、差別、いじめを生んでしまいます。
冠婚葬祭は自主的に村落共同体を存続させていくうえで、穢れを祓い清めるための祭りであり、まつりごと(政)であったわけです。

「穢れの無い者」とは、「中庸である者」であり、「罪なき者(モーセの十戒を守り、キリストによって贖罪された者)」です。

モーセの十戒
1.     主が唯一の神であること
2.     偶像を作ってはならないこと(偶像崇拝の禁止)
3.     神の名をみだりに唱えてはならないこと
4.     安息日を守ること
5.     を敬うこと
6.     殺人をしてはいけないこと(汝、殺す無かれ)
7.     姦淫をしてはいけないこと
8.     盗んではいけないこと
9.     隣人について偽証してはいけないこと
10. 隣人の財産をむさぼってはいけないこと

また、神道における穢れの無い者の「清き明き心」は、徳目としての正直、誠実、思いやり、忠実を重んじることです。
これは、儒教の「徳」とキリスト教の「倫理」とも同じで、ユダヤ教の信仰の基本です。

日本人としてのこれらの前提は、元々、記紀における神話の時代以前から、日本人は「聖書」の民であり、知らず識らずのうちに、その倫理規範を「論語」を援用することによって補完させていたことにあると考えられます。

天皇は「人」であり、神を祀る立場であって、神として祀られる立場ではありませんでした。

そして、「国民統合の象徴」であり、「民族の継続性の象徴」であり、唯一絶対の神と日本人の仲介者としての「アラヒト象徴」であったわけです。


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