2018年11月9日金曜日

日本人にとっての“identity”とは⑦近代の歴史観について

司馬遼太郎氏の「翔ぶが如く」の解説として、平川氏は
「第二次世界大戦後の日本で歴史学会を風靡した一つの史観があった。それはマルクシズムに由来する唯物史観とか史的唯物論とかいわれたもので、未来については社会主義革命の必然性や不可避性を説き、過去については生産力に基づく発展段階説で、世界史も日本史も説明してくれた。日本の歴史学会ではこの「科学的」な歴史観を奉ぜぬ人は人に非ず、といったような強圧的な風潮も一時期はあったらしい。ずいぶん多くの学者が唯物史観にのっとって日本史を再解釈したようであるから、さぞかし多くの科学的成果もあったにちがいない。」と唯物史観を皮肉っています。

また、平川氏は、日本における人間不在の唯物史観の最近の退潮について考えてみますと。
唯物史観はかつて英雄中心主義の史観と異なり、人間個人個人の主体的な活動の意味をほとんど無視したところにその特徴があったとしています。それは人権不在の国にふさわしい歴史の見方であるともいえます。しかし日本史の流れはけっしてそれほど徹底した人間不在ではなかったのであろうとしています。司馬氏の史書が日本国民に愛読されるのは、さまざまな履歴、さまざまな背景の日本人が歴史の変動期に演ずる役柄の面白さに惹かれてのことであるわけです。氏は日本史のうえで、勝者とともに敗者の人権も回復してくれたようであるとしています。

世界のどの国を見ても、中央集権の国民国家が成立するについては、近代の神話ともいうべき伝説がまつわりついています。それは国民各層に参加の意識を与えたネーション・ステートの成立が、各国民のナショナリズムの感情を煽り、その感情の余波が今日なお私たちを揺すぶっているからです。その火山の爆発に似たナショナリズムの余熱がいまなおさめていない以上、旧体制を破壊した英雄については批判がましい口を利くことが許されないというわけです。
ソ連邦とか中華人民共和国とかでは、革命の元勲に対して批判がましい発言をすれば、その言動が反革命的とみなされ極刑に処せられる可能性のある時期が長く続きました。

なにしろ中国革命に命を賭して参加した何万、何十万という中国人がいた以上、どの象徴的指導者のために喜んで死のうと思った人が何十万、何百万といた以上、一度植えつけられたその感情を逆撫ですることは中国大陸では難しいのでした。
 ただ西郷隆盛の場合には違う要素もあったとしています。日本は独裁者が出にくい社会的体質であったために、権力者はいつも天皇という権威を利用することで統治に成功してきました。明治維新の志士たちはナポレオン、ワシントン、ピョートル大帝といった西洋人をひそかに欽慕しましたが、しかし徳川幕府を倒した後も、権威と権力とを一身に兼ね備えたような独裁者はついに我が国には現われなかったのです。

トルストイは、
「文学史はわれわれに、ある文学者、もしくは改革家の衝動や、生活条件や、思想などを説明してくれる。われわれはルターが激しやすい性質で、しかじかと演説をしたことを知る。またルソーが猜疑神の強い人間で、かくかくの書を著したことを知る。しかし何ゆえ宗教改革の後に国民が互いに斬りあったか、なぜフランス革命の後で互いに処刑しあったか、というようなことは、ついに知ることができないのである。
 もし最近歴史家が試みているように、これら二つの歴史を一つに結合したならば、それは君主と文学者の歴史ができあがるだけで、決して国民生活の歴史とはならない。」
と、「戦争と平和」のなかで述べており、一人の個人の権力者や思想家が歴史を動かしたのではなく、民衆個々の運動の力の総和が、歴史を動かし、そこには、神の摂理、予定(プレデターミネーション)による支配があったとの確信にいたります。

一つの集団の歴史は、一人の個人の歴史として説明できるという立場に立って、岸田氏は幕末から現代に至る日本国民の歴史を一人の神経症ないし精神病の患者の生活史として考察しました。歴史を動かす力を経済的条件に求める唯物史観と根本的に対立するであろうが、経済的条件はいっさい考慮にいれないことにします。

岸田氏は、
 「日本国民は精神分裂病的である。この精神分裂病的素質をつくったのは、1853年のペリー来航の事件である。日本は、極東の島国という特殊な地理的条件のため、他の諸民族、とくにヨーロッパの諸民族とくらべると、有史以来、一度として外国の侵略や支配を受けたことのない、言わば甘やかされた子どもであった。
日本は無理やりに開国を強制された。司馬遼太郎がどこかで日本はアメリカに強姦されたと言っていたが、まさに日本は無理やりに股を(港を)開かせられたのである。それは日本にとって耐えがたい屈辱であった。このペリー・ショックが日本を精神分裂病質にした病因的精神外傷であった。」

芝遼太郎氏は「翔ぶが如く」四において、
西郷従道が太政大臣三条実美からの征台の中止という命令に対して、天皇からの征台の勅文を盾に独断で大臣の命令に従わなかったことのいきさつにおいて、つぎのように述べています。

「日本は維新によって君主国として出発した。
しかしながら、天皇の独裁は歴史的慣習としてみとめない。中世にあっては関白や上皇、法皇が政治を代行し、次いで鎌倉幕府、室町幕府、豊臣政権、徳川幕府がそれを代行してきた。維新は徳川幕府をたおして天皇の親政にもどすというのが建前であったが、しかし内実は中世と変わらない。
 あくまでも政治は太政大臣以下が担当するのである。太政大臣・右大臣が参議たちに相談した結論が、形式的に天皇の裁可をへて実行され、ときに勅文もでる。その勅文は太政大臣が起草の責任を持って作られ、それに対して天皇が御名を書き、御璽を捺す。その逆はありえない。
 逆というのは、天皇がみずから政策を思いついて太政大臣をよんで相談したり、あるいは『親政』ということでいきなり個人の意志と決断で実行に移したり、あるいは直接勅命をくだしたりするようなことはありえなかった。天皇はあくまでも受身であり、形式上はともかく、実質上はその機能をもたされていなかった。
 この、天皇という位置の性格については、維新後、談合があってそうなったわけでもなく、また成文があってこのように規定され運営されているわけでもない。自然にできた。要するに過去の慣習の延長といってよい。」

「この征台の一件は、日本史上の珍事件といってよく、官製の倭寇といっていい。
この種の奇術的な軍隊使用のやりかたは、のちに体質的なものとして日本国家にあらわれる。明治期の20年代以後では立憲国家の運営に比較的忠実であったが、昭和期に入って遺伝的症状が露骨にあらわれた。陸軍参謀本部は統帥権という奇妙なものを常時「勅命」として保有し、軍隊使用は内閣と相談せずにできるという妄団をもってたとえば満州事変をおこし、日華事変をおこし、かたわらノモンハン事変をおこしてそのつど内閣に事後承認させ、ついには太平洋戦争をおこす道をひらいて国家を敗亡させた。大久保利通と西郷従道、それに大隈重信の三人が、三人きりで合作したこの官製倭寇は、それらの先例をひらいたものであろう。」

岸田氏は
明治政府そのものが、開国派と尊王攘夷派、外的自己と内的自己とのある種の妥協の産物で、その屈辱、文明開化政策は、内に抱え込んだ、または野に放たれている攘夷派、旧士族の反発を招かずにはおかなかった。(大久保と西郷、内地派と征韓派の対立は、政府内部における外的自己と内的自己の対立の典型的な例である。このパターンは、昭和になって、政党と軍部の対立という形で繰り返される。)としています。

トルストイは、自由と必然の関係から、内容と形式の関係を導き出しています。つまり、内容が自由であり、形式は必然であるとしています。
心理学の観点から見ますと、内容は意識(自由)であり、形式(必然)は理性となり、内容は自我であり、形式は超自我(良心の機能を営むもの)となります。外的自己における自我と超自我つまり内容と形式の間に葛藤がおこり、矛盾したものが、エスとして、内的自己に抑圧され潜在化します。

岸田氏は山本氏との対談(20年以上以前)のなかで
「日本人にとって、なぜ憲法改正はタブーなんでしょうか。
精神分析から言えば、それを変えることがタブーであるという、そのことが、ニセ物である証拠なんですよ。神経症の患者の場合、意識的には偽りの理由を持っているので、その理由に断固として固執するんですよね。つまり、ニセ物であるがゆえに、変えられないんです。また、現実にそれを守り、それにもとづいて行動しなくてもいいんですから、変える必要もないわけです。
ニセ物という意味は、憲法が理念や原理として間違っているとか、いないとかいうことではなくて、日本人の行動を決定している本当の法じゃないということです。
固執するのは、いわば強迫観念と同じで、ニセ物でなければ固執する必要はないんですから。現実として、日本の憲法が機能していないがゆえに、逆に固執するということですよね。」と述べています。

日本人の行動を決定している本当の法になっていないと言う意味は、形式のみで内容が伴わないということと思われます。
トルストイは、自由の力の本質が歴史の内容を形づくると言っています。自由の力の本質は、生の本質であり、自然の力です。

司馬氏は、奇しくも「天皇という位置の性格(天皇の独裁は歴史的慣習としてみとめない。)については、維新後、談合があってそうなったわけでもなく、また成文があってこのように規定され運営されているわけでもない。自然にできた。要するに過去の慣習の延長といってよい。」と述べました。

生の本質、自然の力が内容を形づくっていない法であれば、それはニセ物となり、外的自己において、自我と超自我(良心の機能を営むもの)の間で葛藤がおこり、矛盾したニセ物は内的自己にエスとして抑圧され潜在化し、逆に固執することになるということに思われます。したがって憲法改正は、日本人にとって、タブー視されてきました。

最近になっての憲法改正論議は、九条の取り扱い方が中心になっています。
私は、平和憲法の理念は堅持しなければならないという立場ではありますが、どうも昨今の議論は、上滑りのように思えて違和感をぬぐえません。つまり、内容の無い形式論のみなってしまっているように思えてならないからです。
今回のこのブログの主題である「日本人にとってのアイデンティティーとは」にした動機はここにあります。

日本人にとっての自己同一性とは、いかなるものなのであるかを考察しなければ、日本の国のかたちである憲法は、本物にはならないと思うのです。

岸田氏が言うとおり、ペリー・ショックにより、「尊王攘夷」という思想が、エスとなり、内的自己に抑圧され、病因となり、精神病的症状を発症しているのであれば、それが誤りであったことを日本人は悟り、内的自己と外的自己の統一を図らなくてはなりません。
私は尊王(天皇を敬う)という思想と攘夷(外敵を斥けようとする)という思想を結び合わせたところに無理があったのであろうと思っています。

以下このことについての考察を続けてゆきます。


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