2018年11月4日日曜日

日本人にとっての“identity”とは②自由と必然について

 トルストイは、多数または一個の人物の行為に関して、いかなる観念を検討してみても、部分的には人間の自由意思、部分的には必然の法則の所産とよりほかに、解釈することができないとしています。

すべての人間の行為が、自由と必然の一定の結合として映ずるという点は、いかなる場合でも同様であり、いかなる行為を検討してみても、われわれはその中に一定量の自由と、一定量の必然を発見します。その際、すべての行為について、次のようにいうことができます。
「自由の量が多ければ多いだけ、必然の量は少なくなり、必然の量が増すにしたがって、自由の量は減ずるものである。
自由の必然に対する関係は、行為を検討する見地の相違によって増減する。しかし、この関係は常に反比例をなしている。」

自由と必然に関するわれわれの観念が増大し、または減少するすべての場合は、いっさいの例外なしに、次の三点のみを根拠としているとします。
(一)   ある行為を行なった人間の外界に対する関係。
(二)   同じく時間に対する関係。
(三)   同じく行為を醸成した原因に対する関係。

(一)   については、溺れかかった人間は陸に立っている人間よりも、より多く不自由であり、より多く必然に左右されていることを、明瞭にするところの根拠であり、それがすなわち、人口稠密な土地に他人と密接な関係を保ち、かつ家族や勤務や事業に結びつけられている人間の行為が、孤独な隠者の行為にくらべて、より多く非自由で、より多く必然に左右されることを、明らかにするところの根拠であるとしています。
(二)   については、この根拠によってみると、いく世紀も前に暮していた人々の生活や活動は(時間のなかでわれわれと結び合わされている生活や活動は)、まだ結果の分明しない現代人の生活と同程度に、自由なものとは考えられないのであり、
この点において、自由と必然の程度に関する観念の相違は、行為の完成とその判断の間に横たわる時間の長短に支配されるものであるとしています。
民族の大移動に関しては、現代人は誰一人として、ヨーロッパという世界の更新がアッティラ汗(フン族の首長)の気まぐれから起ったものとは、とうてい想像しえないのであり、観察の対象を歴史の奥深く移せば移すほど、事件を惹起した人々の自由はいよいよ疑わしくなり、必然の法則はいよいよ明白となってくるわけです。
(三)   については、もしわれわれが無数の経験を持っているか、あるいは人間の行為における原因結果の相互関係の探求に、たえず観察の眼を向けたならば、われわれが原因と結果を正確に結びつければ結びつけるほど、人間の行為はいよいよ必然的な、非自由なものに見えるであろうし、もし研究の対象たる行為が単純なものであって、しかもわれわれがそういう行為を無数に持っていれば持っているほど、その必然性に関する観念はますます完全になってくるわけです。
 
ただこの三つの根拠のみによって、あらゆる法律に存在する犯罪の責任不能と、情状酌量が成立するのであり、犯罪の責任不能の理由は、審判の対象たる行為者を囲んでいた外的条件に関する知識の多少、行為遂行から審理までに経過した時間の長短、行為を惹起した原因の深浅などに応じて、大とも小ともなるのであると述べています。

そして、唯物史観への批判として次のように述べます。
「新しく生じた自然哲学の真理と戦う人々は、もしこの真理を承認すれば、神や、宇宙の創造や、ヌンの子ヨシュア(モーゼの後継者)の奇蹟に対する信仰が滅びるように思われた。またコペルニクスやニュートンの法則の支持者、たとえばヴォルテールなどは、天文学の法則が宗教を崩壊するような気がし、宗教と戦うための武器として引力の法則を使用したのである。
 今でもこれと同じように、もし必然の法則を認めたならば、霊魂や善悪に関する観念、ないしこの観念の上に確立された国家および教会の施設が、すべて崩壊するように思われている。
 以前ヴォルテールがなしたのと同様、今でも認められざる必然律の擁護者は、この必然律を宗教と戦う武器として使用している。ところが、それと同じようなぐあいで、歴史における必然の法則は、天文学におけるコペルニクスの法則と同様に、国家と教会の施設の基礎を破壊しないばかりでなく、かえって反対に確立さしているのである。
 当時の天文学の問題におけるがごとく、現今の歴史学の問題においても、見解の相違の基礎となっているのは、単に可視的現象の尺度となる絶対単位を、認めるか認めないかなのである。天文学においては、この単位は地動説による地球不動説(大地不動と天体運行の関係)であり、歴史学においては、個人の独立であり自由である。」

トルストイは、目に見える物理学上の現象においては必然の法則に支配されているが、霊魂や善悪に関する観念は必然の法則には支配されず、歴史学においては、個人の独立であり自由が、国家と教会の施設を反対に確立させているとしています。

私は、日本という国家と神社仏閣(欧米における教会に相当する。)の施設も、これと同じことが言えるのではないかと思い、ロシアと日本の近代の歴史を「戦争と平和」と「翔ぶが如く」を例にして比較考察してみようと思った動機の一つです。
それは、日本人のアイデンティティーとは何かという今回の主題について考える上で、とても重要に思えるからです。



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