2018年11月15日木曜日

日本人にとっての“identity”とは⑬象徴天皇・大統領併立制について

元来、日本人のメンタリティーは、戦争で殺した敵を祀り、祟られるのを恐れて神社、仏閣を作りました。梅原猛氏によると、法隆寺は王権によって子孫を抹殺された聖徳太子の怨霊を封じるための寺であり、大宰府も菅原道真の怨念を鎮めるために創建されたものとしています。
祟りとは、外的自己において、葛藤し、矛盾して抑圧されたエスが内的自己に潜在化されたものと考えてよいでしょう。

靖国神社は、官軍のために戦死した人を祀り、殺した敵を祀っていません。
これは、日本人のメンタリティーにはそぐわないものです。
つまり、祟となるエスを祓い清めることはできないのです。

神社仏閣が、日本人の不合理な面を吸収する機構として、機能するかどうかということは、日本人の内的自己と外的自己を統一できているかどうかということです。

外的自己において、自我と超自我の間に葛藤が起り、矛盾したものが抑圧され、エスとして内的自己に潜在化するわけですが、屈従を主調とする外的自己が日本という集団のアイデンティティーの基盤となり得るわけではないですから、そこには大きな無理があり、そのバランスはつねに危なっかしく、しばしば崩れ、抑えられていた内的自己が顕在化し爆発するわけです。

日本人のメンタリティーにそぐわないものは、エスとして内的自己に潜在化します。靖国問題はエスであり、たびたび顕在化し、小爆発を繰り返すわけです。

「象徴天皇」という言葉が、内容のない形式のみのものになってしまっているのは、日本の歴史上の伝統文化に根ざした慣習にもとづいていないからのようです。

それでは、内容を伴わせるためには、どうすればよいのでしょうか。
私は、日本人の「宣誓」という行為についての観点と、不合理な面を吸収する機構としての「神社仏閣」という観点のこの二点について、考察してみたいと思います。

小室直樹氏は、戦後天皇の「人間宣言」によって、日本人の自己は崩壊したと述べています。それまで、「現人神」として祀り上げていた天皇の絶対性が否定され、自己を支えていたものを、失ってしまったことによるとしています。

司馬氏が述べているように、古来、天皇は独裁者であったことは慣習としてなく、明治維新に形式だけの「神祇官」を復活させ、とりあえず間に合わせで、歴史上の慣習であるかのように取り繕いましたが、その後、「神祇官」を廃止し、軍部は、天皇の権威を絶対化して利用するために、「天皇の統帥権」にすり替えてしまったわけです。

その反省のもと、とはいえ、人格の統一性の裏付けを欠いた精神分裂病的なある傾向は、つ
ねにそれと正反対の傾向と背中合わせになっているという現実感覚の不全による、ひどい
態度の分裂と逆転を、憲法の条文においても起こしているかのようです。

天皇の権威の絶対化という誤りを、戦後、長期間に及ぶ歴史上の慣習をよく省みたわけでもなく、短期間に過ぎない検討により、国民に対しては憲法第19条において、「思想・良心の自由」を保障している一方、憲法第20条においての「信教の自由」は、政教分離原則(日本においては、戦前の国家神道に対する反省にすぎない)の観点から国家への制限(特定の宗教団体の国からの特権禁止、国による国民への宗教行為の強制禁止、国の宗教的活動禁止)としての「信教の自由」という色彩が濃く、これまた内容のない形式だけのものにすり替わってしまっているように思います。

「象徴天皇」は、まず天皇は人であることが、大前提です。「現人神」は否定されました。

日本の契約の慣習としての「一揆」における起請文は、天地神明という神を証人として、誓うものでした。天地神明の神は多神教の神であり、啓典宗教の唯一絶対の神とは、相容れない神です。
日本人は、そのため、神に絶対性を託することができず、物事を相対化することができないため、次から次へと感情移入した先を偶像化してしまいます。これが、日本人が付和雷同しやすい、つまり熱しやすく冷めやすく、簡単に自我を捨ててしまえる国民性であると山本七平氏が説くところの意味です。

ゆえに、日本人は、天という全知全能の神(大元神)を前提とした本来の宇宙観(コスモス)に回帰すべきであり、“integrity”の回復(「日本人にとっての“integrity”とは」編で詳述しましたので、ここでは繰り返しませんが)にもつながると思います。

キリスト型自由国家においては、法以外の王は許されないというのが大前提のため、アメリカでは、聖書に手を置いて宣誓します。法とは神の命令であり、その神を証人にすることなどありえないわけです。

私は、人である象徴天皇を証人として、宣誓することは、日本の慣習に根ざしたものになるのではと考えています。日本の慣習に根ざすという意味は、日本人にそれを受け容れる素地、下地があるという意味です。

つまり、「自分の良心に従い…」というのを「日本国、日本国民統合の象徴である天皇を証人として…」という宣誓(書)、あるいは誓約(書)を奨励してはと思っています。
これは、あくまでも上からの強制であってはならず、各コミュニティー、自治体等で自主的に奨励して広まっていくのが理想ですが、神社仏閣が指導してゆくのがよいのではないでしょうか。

天皇は、歴史上「現人神」として絶対化された時代を除き、祀られる側の神であったことはなく、祀る側の人でした。

神祇官と太政官が同格で並立していたということは、神事と現事を分離し、政教分離原則に則っていたものと言えます。兆民の説いた「君民共治」は、不合理な面は、神事が吸収し、合理的な面は現事が担当しようということになると言えます。
この時大事なことは、神事が歴史上の慣習に根ざしたものであるかどうかということです。
象徴天皇は、国民の総意を代表して、全知全能の神である大元神を拝して国民の証人になることは、日本の歴史上の慣習に根ざしたものであり、神社仏閣の教えに適ったものになると思います。

こういったことを積み重ねてゆくことが、象徴天皇という言葉が、形式だけのものではなく、内容を伴ったものになってゆくと思います。

日本人にとって、不合理な面を吸収する機能としての機構であった神社仏閣は、明治政府の廃仏毀釈による国家神道という無理な機構の「天皇の統帥権」いうごまかしにより、日本は破滅し、天皇の「人間宣言」によって、日本人の自己は崩壊しました。

この崩壊した自己は、「尊王攘夷」という無理な思想がエスとなり、内的自己に抑圧され潜在化したものです。これがたびたび、外的自己に顕在化し、爆発を繰り返さざるを得ない症状を治癒するためには、内的自己と外的自己を統一しなければなりません。

「尊王」とは天皇を敬い、「攘夷」とは外的を撃退しようとする思想です。
「尊王」と「攘夷」の間での葛藤が矛盾として抑圧され内的自己に潜在化したものが、日本人のエスです。このエスを日本人が誤りであったことを悟ることが、内的自己と外的自己の統一となり、日本人のアイデンティティーは回復すると思います。

兆民の説く「民約論」の本旨は、「人間は、原始時代には自由で平等であった」
という、(このルソーの巨大な前提を自然状態といいます。)その人間固有の権利を回復する方法がであったわけですが、日本においては、自由と平等というキリスト教型国家の思想を形而上学的に検討せず、欽定憲法という上からの規定としてしまい、日本人が受け入れることのできる素地、下地とはなりえませんでした。つまり、日本の歴史上の慣習に根ざした思想にはなり得なかったわけです。

兆民の説いた「君民共治」という政治制度は、イギリスが立憲君主制でありながら、その民権は堂々たる回復の民権(固有にもつ権利を人民が下からすすんで取ったもの、という意味)であるとたたえていることからもわかるように、欽定憲法である帝国憲法とは相容れません。

「君民共治」である天皇、大統領並立制は、現行の間接民主制が、事実上の官僚支配(世襲化した政治家が官僚の操り人形になってしまっている。)から脱却するのが困難であることを考えると、直接民主制の大統領制への移行は望ましく、また、象徴天皇制が歴史上の慣習に根ざした制度でなくてはなりません。

そのための方策としては二つあって、象徴天皇制が現状の形式的なものに内容をともなわせるため、宣誓という行為において、「日本国、日本国民の象徴であり、国民の総意を代表する天皇の名において、(証人として)自己の良心に従い…」というものを、日本の不合理な面の吸収機能の機構であった、神社仏閣が奨励、指導して普及させてゆくことが一つだと思います。

もう一つは、不合理な面を吸収する機能としての機構である神社仏閣ですが、鎮護国家と同格に世界平和を祈願する思想を積極的に広めていくことが望まれます。

世界平和を祈願するには、慰霊鎮魂という儀式が重要な意味の内容となってゆきます。
靖国神社に替わる、戦没者追悼施設を国立で創建することは幾度も検討されてきたようですが、そこでは、政教分離と信教の自由という相矛盾する内容をどのように解決したらよいかということが、問題であったように思われます。

律令時代の神祇官と太政官が同格で並立していたのは、日本における政教分離原則の模範となるわけで、明治政府も一度は復活させたわけですが、神祇官を形骸化(内容を失い形式だけのものになる。)してしまいました。それは、天皇個人を絶対化することにより、(天皇は本来、祀る側の人ではあっても、祀られる側の神ではなかったにもかかわらず)天皇の権威を利用するためでした。


象徴天皇としての内容は、神事を司る日本人の総意に基づく代表として、日本人のみならず、敵国であった戦没者に対しても慰霊鎮魂する式典は、日本人のメンタリティーに適ったものであり、エスとして抑圧された「尊王攘夷」という誤った思想を誤りと悟り、日本人のアイデンティティーを回復させることに寄与すると思います。

そして、象徴天皇という言葉が内容を伴うものとなれば、「象徴天皇・大統領併立制」は、日本の伝統文化に根ざした慣習に適った政治制度になると思います。


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