2018年11月11日日曜日

日本人にとっての“identity”とは⑨現実感覚の不全について

 岸田氏によると、日本にペリー・ショックという精神外傷を与えて日本を精神分裂病質者にしたのも、日本を発狂に追いつめたのもアメリカでありました。そのアメリカへの憎悪にはすさまじいものがありました。この憎悪は、単に鬼畜米英のスローガンによって惹き起こされたのではなく、百年の歴史をもつ憎悪であったわけです。日米戦争によって、百年来はじめてこの憎悪の自由な発現が許されました。開戦は内的自己を解放したのです。
 軍部が強制的に国民を戦争に引きずりこんだというのは誤りであるとしています。いくら忠君愛国と絶対服従の道徳を教え込まれていたとしても、国民の大半の意志に反することを一部の支配者が強制できるものではないからです。この戦争は国民の大半が支持しました。と言ってわるければ、国民の大半がおのれ自身の内的自己に引きずられて同意した戦争であったわけです。軍部にのみ責任をなすりつけて、国民自身における外的自己と内的自己の分裂の状態への反省を欠くことならば、ふたたび同じ失敗を犯す危険がありましょう。
 国力の不足もさることながら、日本の敗北に拍車をかけたのは、日本軍の現実感覚の不全でありました。
 人格の統一性の裏付けを欠いた精神分裂病的なある傾向は、つねにそれと正反対の傾向と背中合わせになっています。泥水すすり、草をはみ、死ぬまで戦う日本兵の向こう見ずの勇敢さと、なかには頼まれもしないのに自分から申し出てアメリカ空軍の爆撃機に乗り込み、ここが日本軍守備隊の司令部、あそこが砲兵陣地だと教えた者もいた日本兵の捕虜の卑屈さとは、表裏一体のものであって、前者を賛美して後者を非難するのは筋が通らないと言えるとしています。
昔の日本人には、このようにひどい態度の分裂と逆転はあまり見られなかったと思われます。戦国時代の武将が命を懸けるときは、敗北したときに予想される事態と勝利の可能性を計算して、客観的にいっても命を懸けるに値すると思われるときでありました。そしてとくに、彼らは退くときをしっており、闘争精神を示すだけの無用な戦いはできるかぎり避けました。敗北と決まれば、さっさと戦いをやめたのです。もちろん、判断を誤ることはあったが、その誤りは人格の分裂にもとづく痼疾的なものではありませんでした。日本人がこのような現実感覚を喪失して、退却を屈辱と感じ、実際の効果のないことのために命を捨てるのを勇敢と思うようになったのは、日露戦争のときの旅順攻略がはじめてで、日米戦争の末期にその極に達したわけです。

連合国の日本占領が平和裡に成功したのは、マッカーサーの占領政策がうまかったためでも、戦争をはじめるときと同じく戦争をやめるときも日本国民が天皇の命令に忠実であったためでもありません。分裂病質者に特有な態度の逆転が起こっただけのことであるわけです。

小室直樹氏は、山本氏と岸田氏との対談の解説として、次のように述べています。
「日本は何故大東亜戦争に敗けたか。
敗けた理由は、日本国民が精神分裂病(的)であったからである。
岸田氏の方法論は、精神分析を集団現象の説明に用いる。
アメリカ軍は一つ失敗を犯すと、同じような失敗を二度と繰り返すことはほとんどない。
しかし、日本軍は同じ失敗をまた繰り返す。それ故に日本は敗けた。
精神分析で、手段が目的化し、本来の目的より優位に立つのをフェティシズムと言う。日本軍は一種のフェティシズムに陥っていたので、「臨機応変性、柔軟性」を失い、「状況を無視した固定的、強迫的反応を示しはじめる」そして「反応が固定する」
この理由によって、日本軍は「いったん決定すると、何度失敗しても断固として方針を変えないわけである。言葉を換言すれば、目的合理性を欠き強迫観念的に呪縛されてしまうことになってしまうのである。その結果、現実感覚が不全になる。
すなわち、「日本軍があれほどみじめな惨敗を喫したのは、戦意、努力、物量の不足のためではなく、諸症状にあらわれている現実感覚の不全のためである。
日本国家の構造的欠陥は、現在に至ってもそのままである。」

岸田氏は、「人間集団は不安定である。集団は無限に拡大しつづけることはできないし、それを支える共同幻想は各人の私的幻想を完全に吸収することは決してできない。各人に分有された共同幻想は超自我および自我となり、共同化されずに残った私的幻想はエス*を構成する。このエスが、共同幻想にもとづく集団の統一性を内部から危うくする重大な要因となる。」と述べています。
     精神分析で、人格構造に関する基本的概念。人間が生まれつき持っている無意識の本能的衝動、欲求など精神的エネルギーの源泉。快を求め不快を避ける快楽原則に支配される。したがって自我や超自我と葛藤を起す。

集団と個人は共同幻想を介してつながっています。集団を支えているのも、個人を支えているのも共同幻想であるわけです。集団の共同幻想は、個人の私的幻想の共同化としてしか成立し得ず、個人はその私的幻想を共同化することによってしか個人となり得ません。したがって、集団の共同幻想は、個人の私的幻想の共同化された部分(超自我および自我)と一致します。そして、共同化されなかった部分(エス)は、集団を構成する個人のあいだで大体共通しています。そこで、各人のエスは集団のなかで、忌まわしいもの、おおっぴらには言えないもの、罪深いもの等々を形づくるわけです。

トルストイは
「歴史の対象たる人間は直截明瞭に、われは自由なり、したがっていっさいの法則に服従せず、と断言する。
 言葉をもって明白に表示こそされないけれど、人間の意志は自由なりという問題の存在は、歴史研究の一歩ごとに感じられる。」

「この矛盾のなかにこそ、意志の自由に関する問題がひそんでいるのである。それは古代より卓越した人々の頭脳を領し、偉大な意義を付与されてきた問題である。」

もし人間が自己を観察の対象としたとき、自分の意志がいつも同じ法則によって方向づけていることを認めるならば(たとえば食物摂取の必要、もしくは頭脳の活動、その他いかなる作用を観察するとしても)、彼はこのつねに同一な意志の方向も目して、一種の制限とよりほか解釈することができないわけです。自由でないものが制限されるべきはずはありません。人間が自分の意志を制限されたものと感じるのは、つまりそれを自由なものとよりほか意識することができないからであるというわけです。

この答は、理性に支配されない意識の表現であるとしています。
 もし自由なる意識が、理性から離れて独立した自己意識の根源でないならば、それは議論や経験に屈服すべき道理であるわけです。しかし実際において、そういう屈服はかつて一度もみられなかったし、またとうてい考えられないことなのであるとしています。

心理学においては、自由なる意識は外的自己における自我に相当します。理性に支配された意識が超自我(良心の機能を営むもの)です。自由なる意識である自我が、超自我と離れて外的自己から独立したものが、議論や経験(他者との関係)に屈服したもの、すなわちエスとなり、内的自己に抑圧され潜在化します。トルストイは理性に支配されない自由なる意識が自己意識の根源であるとし、他者との関係に屈服することはあり得ないとしていますが、ここに人間の生活の法則(たとえば食物摂取の必要、もしくは頭脳の活動、その他いかなる作用)との矛盾を見いだしていると言えます。人間の生活の法則とは、人間自体も物理的生体化学反応の対象ととらえる史的唯物論の根拠をなすものを指していると考えられます。

岸田氏のいう「人格の統一性の裏付けを欠いた精神分裂病的なある傾向は、つねにそれと正反対の傾向と背中合わせになっている」という現実感覚の不全は、トルストイのいう理性に支配されない自由なる意識(自我)が、人間の生活の法則(超自我)において矛盾することにより、その矛盾が抑圧されエスとなり内的自己に潜在化し、外的自己を正当化するため強迫観念的に起ると理解できます。

それでは、この現実感覚の不全を惹き起こすエスを解消するためには、どのようにすればよいのでしょうか。
以下、考察を続けてゆきます。





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