2018年11月13日火曜日

日本人にとっての“identity”とは⑪伝統文化に根ざした慣習について

日本における思想の歴史上、伝統、文化に根ざした慣習とはいかなるものでしょうか。
岸田氏は
「幕末以来、今日に至るまで、日本の政府においては、太平洋戦争中の四年間を除き、ずっと外的自己の代表者が主流を占めてきた。外的自己は、あるいは内的自己を弾圧、抑圧、放逐し、あるいは内的自己に名目的絶対権を与え(天皇制)、あるいは内的自己と妥協して部分的にその要求を是認、実行し、あるいは外征・対アジア侵略にふりむけ、何とか切り抜けてきた。しかし、屈従を主調とする外的自己が日本という集団のアイデンティティーの基盤となり得るわけはないから、そこには大きな無理があり、そのバランスはつねに危なっかしく、しばしば崩れ、抑えられていた内的自己が爆発する。太平洋戦争は大爆発だったが、小爆発は絶えず繰り返される。日本近代史において、内的自己の代表者は、吉田松陰、西郷隆盛、二・二六事件の蹶起将校、特攻隊員のように、しばしば、いったん生贄に供されたあと、(一部においてにせよ)神聖化され、崇拝されるという経過を辿る。あとからその主張が採択され、実行されることもある。殺されて祀り上げられるのだ。あたかもイエスのように。」

唯一の現人神であるイエスは、磔にされ、三日後に復活しました。すべての人の罪を贖うために自己を犠牲にしたわけです。

日本においては、仏教の「不惜身命」がそれに通じる思想ですが、その思想のもと、特攻隊員は、現人神として祀り上げられた天皇を絶対化してしまい、「天皇万歳」と言って死んでいったのは、自由の無い必然による形式的なものでした。
ほとんどの特攻隊員は「おかぁさん」と言って死んでいったのであって、自由な内容のある死に方でした。
フロイドが記述しているように、生後間もない赤ん坊は母親との関係のみが現実世界であり、日本の古い諺の「三つ子の魂百まで」ということからも察せられます。

彼ら特攻隊員を神聖化することは、偶像化につながり、その矛盾による葛藤は抑圧され、日本人のエスとして内的自己に潜在化してしまっているのです。

司馬遼太郎氏は「翔ぶが如く十」において
「官とは、明治の用語で、太政官のことである。日本語ではない。遠い七世紀に、日本の農地をすべて天皇領にし、すべての耕作者をオオミタカラ(公民・天皇のヤッコ等という意)にしたときそれらを統治するための中央集権の機構を中国式にし、それを官という中国語でよんだ。その後武家政治という現実主義的土地所有制の出発で『官』は有名無実になり、明治維新とともににわかに復活した。極端な開化政策をとるためには、極端な復古主義に重心を求めざるをえなかった当時の政治力学の所産といっていい。
要するに維新早々の『官』というのはかつて幕府のことを『大公儀』と尊称したものと概念、思想、語感がほとんど変わらず、官員の権威は、大官が旧大名で、中以下は旗本であった。かつての大公儀の政令は各藩の内治には及ばず、法理的には『大名のうちで最大なるものでその盟主』というにすぎず、大公儀の武威が衰えると諸藩が野党的色彩を帯びるという相対的な一面もあったが、『官』の場合、明治四年、薩長土の『御親兵』の武威によって廃藩置県が成功すると『官』は日本史上最強の絶対権力になった。維新後わずか四年だから、太政官にいるもの以外からみればあっという間の出来事である。」

司馬氏は「明治維新の『官』というものが、かつて幕府のことを『大公儀』と尊称したものと概念、思想、語感がほとんど変わらない」と述べています。つまり政治制度としては、以前からの慣習のままであったということでしょう。

司馬遼太郎氏は、「翔部が如く六」において
「奈良朝のころは神事(祭祀、大嘗、鎮魂、卜占)をつかさどる官庁として『神祇官』というものがあった。この官庁は現実の政治をつかさどる太政官と同格で併立していた。
明治元年、この制度を復古し、神祇官を再興した。しかし明治の制度は上代の律令時代とことなり、神祇官は太政官の下におかれた。次いで神祇官を太政官のそとに置いて独立させもした。ところが明治四年になって神祇官は廃止されてしまった。単に教部省ということになり、『現事』が本になり、『神事』が末になった。」

司馬氏は「翔部が如く」のなかで、
「ルソーの『民約論』(社会契約論)の訳者である中江兆民は、仏学塾を主宰していた。かれの思想的影響下にあるこの塾の気分が、ほぼ察せられるであろう。
兆民はフランスからの帰国からその死にいたるまで、その思想の基本を変えることがなかった。天皇の存在についても、ときに『君民共治』の論を述べつつ、多分に修辞的にそれを用い、君主が存在しても政治上の責任や権力をもつことを認めず、政体としては共和制以外を認めず(たとえ君主が存在しようとも)、国土のあるじはあくまでも人民であるとした。
 といって、兆民は行動として廃帝をおこなおうとする運動者ではなかった。かれはイギリスが立憲君主制でありながら、その民権は堂々たる回復の民権(固有にもつ権利を人民が下からすすんで取ったもの、という意味)であるとたたえている。
 が、一面、イギリスの貴族跋扈や財産不平均を手痛く指摘するところに、兆民の思想があるであろう。」

兆民の「君民共治」という思想は、奈良朝のころの神事(祭祀、大嘗、鎮魂、卜占)をつかさどる官庁として『神祇官』と、現実の政治をつかさどる太政官とが同格で併立していたことと比較して考察しなくてはならないと思います。

司馬氏は、「伊藤博文の民権論は、多分にきな臭くもある。かれの民権への同情は機略として出ていた。(日本中に充満する東京政権の不満を、民権体制をとることによって吸収してしまわねばならない)
ということであったであろう。事実、からは後年、かれが起草し、その手で発布まで事を運んだ『帝国憲法』によって、自由民権運動の大波の力を一挙に吸収してその力を失わせてしまうのである。この憲法は、欽定であった。天皇が定めた、というものであった。中江兆民という、人民が固有の権利を回復したものではなく、恩寵のそれだった。兆民は帝国憲法の草案をみたとき、一読して苦笑し、何もいわなかったという。」と述べています。

伊藤博文の手法はちょうど、岸田氏の言う「明治国家体制というのは、無理をしたために文化における伝統的な不合理の吸収機構が壊れたんじゃないかと思うんです。」と述べ、また、「それぞれの民族の文化の違いは、本能の壊れ方の違いなのではなくて、壊れたあとの対処の仕方だと思うんです。」ということにおいて、伊藤博文は「ごまかし」の民権体制をとることによって、東京政権に対する不満を吸収したわけですが、兆民は、その「ごまかし」を見抜いていたということだと理解できます。

「中江兆民は儒学をも大切にする。学校の教育に必要なのは徳性の涵養にあるとし、いかに外国語を教えても、人格が高くならなければ教育とはいえない、西洋ではキリスト教をもって徳育の根本としている、日本にあっては孔孟の教えを教えるべきである、と文部省にかけあった。当時の文部省の役人は福沢派の人が多く、功利主義・実学主義が支配的で、兆民が持ちだした倫理主義は、容れられなかった。」
これも、無理をして、キリスト教の徳育を取り入れるのではなく、すでに慣習として根ざしている孔孟の倫理主義を教えるべきとしています。

「人間は、原始時代には自由で平等であった」
という、ルソーの巨大な前提を、兆民はくりかえし話しました。ルソーはその「人間不平等起源論」ではこの状態を自然状態といいます。人間はそこから社会状態へ入って、自由をうしない、平等をうしなった。土地の私有によっていよいよ不平等性が増大し、人間は社会的害悪のなかに苦しむようになったわけです。
その人間固有の権利を回復する方法が「民約論」の本旨である、とルソーは説き、兆民も説くのでありました。

トルストイは、自由は意識であり、内容であり、生の本質であり、自然の力であると説いています。これらに対して相反するものとして、必然、理性、形式、理性の法則を導き出しています。
トルストイの説く自然の力は、ルソーが「自然に帰れ」と説いたことに相通じています。

ルソーの「自然に帰れ」は、トルストイに言わせれば「自由に帰れ」となりましょう。

フロイドの心理学においては、人間は、本能が歪められ、自然との接触を失ったため疑似現実という幻想を必要とし、文化を創造したと説明されます。物理学的思考を土台とする唯物史観とは相容れないのは、トルストイの思想と同様です。

日本人の自然観というものは、天地神明という天と地のあらゆる神々という多神教の世界であり、唯一絶対の啓典宗教の神とは相容れないものと私も以前は考えていましたが、今はそうではないと考えるようになりました。

司馬氏は、小学校6年生の教科書にも載った名文で「人間は自然の一部であり、自然によって生かされてきた存在であり、互いに助け合うことが必要で、決して人間だけが偉い存在だなどと傲慢になってはいけない」と述べています。

これは、天という全知全能の神を前提とした宇宙観(コスモス)といえるのではないでしょうか。

西郷隆盛は「敬天愛人」という言葉を座右の銘にしていました。明治政府を作った張本人である西郷が、ヒエラルキーの頂点に位置するものとして、直接天を拝していたのです。

司馬氏は「翔ぶが如く」において、この西郷を常に天に問い続けた人物として描いています。田原坂において「晋どん、もうこの辺でよか。」(「晋どん」とは、介錯役の別府晋介)と言って自決したくだりは、西郷の宇宙観が集約されています。司馬氏の名文は、この西郷の宇宙観からも察することができると思います。

この司馬氏の名文は、トルストイの言う自然の力であり、宇宙観(コスモス)としては、フロイドの言う内的自己と外的自己の統一に通ずると思います。

コスモスの対義語はカオス(混沌)です。
フロイドが死の欲動の概念として提示した涅槃原則(ニルヴァーナ原則)は熱力学第二法則(エントロピー増大の法則、第一法則はエネルギー保存の法則)の別名とされます。エントロピーが増大の一途を辿る結果として、あらゆるものは「一切空」の状態に達するからです。エントロピーとは、運動状態の混沌性・不規則性の程度を表わす量を意味します。

涅槃原則は、西郷の死生観に通じるものがあると思います。
西郷のもとに結集し、死んでいった薩摩隼人たちの基本思想は、多言を弄さず命を賭して弱きを助けるというものでしたが、多分に不平士族の不満を解消するため、西郷は自己を犠牲とし、混沌の収束に向かわざるを得なかったのだろうと思います。
自分をオセンシとして慕い結集した薩摩隼人や全国の不平士族と、自分が作った東京政府への彼らの不満解消という矛盾による葛藤が、西郷の天への問いかけとなっています。

ルソーのいう回復の民権(固有にもつ権利を人民が下からすすんで取ったもの、という意味)は、日本人にとっては、本来の宇宙観への回帰と言ってよいのではないでしょうか。

私は、自由、リベラルという思想は、欧米の血で血を洗う歴史、つまり奴隷解放の歴史の中から獲得したものであり、そのような経験を歴史上持たない日本人には、理解しようにも理解できないと考えていました。しかし、自由というものは、自然の力であり、回復の民権が日本人本来の宇宙観(コスモス)であると悟った今は、自分の考えが誤りであったと反省し、修正する判断に至ったことを、ここに表明する次第です。

ルソーの「民約論」の訳者である兆民は、「君民共治」の論を述べています。これは、天皇と大統領を併立させる政治制度のことです。

イギリスが、立憲君主制という、共和制の変種を貫いているのは、本来、キリスト教型国家では王制が禁止されているのに、棚上げの原理を採用している例として、山本氏が述べている通りです。

これに比べれば、天皇と大統領を併立させることは、まだましのように思われますが、ことはそう簡単ではありません。

以下、考察を続けてゆきます。


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