2018年11月12日月曜日

日本人にとっての“identity”とは⑩棚上げの原理について

山本七平氏は岸田氏との対談のなかで次のように述べています。
「絶対性を神に託することによって人間はすべて相対的になり得る。これは政治体制もそうですよね。人間社会における不合理をだんだん棚上げしていっちゃうわけです。イギリスがその典型で棚上げの対象が王室です。だから、国王をいただいた共和国、とこうなる。体制からみるとイギリスは非常におもしろい国で、(日本のように)「国会は国権の最高機関にして…」なんてことはどこにも書いていない。いまもって女王陛下の軍隊であり、女王陛下の下院なんです。民主主義社会になぜ王室なんてものがあるんだというかわりに、不合理性をそこに棚上げして、下院は合理性でいこうや、というわけです。」

岸田氏は、
「明治維新以前には神社などがそういう不合理な面を吸収していた。ところが、明治以降というのは、(神社などに)押し付けていた不合理なものを取り戻しちゃったんですよね。その結果、全能感がこちらに帰ってきて、日本軍人が神がかりになってゆく、という流れが考えられますよね。日本という国がずっと生き続けてきた以上、不合理性の吸収機構がなかったはずはないでしょうね。全然なければ滅びているはずです。その意味では明治国家体制というのは、無理をしたために文化における伝統的な不合理の吸収機構が壊れたんじゃないかと思うんですけどね。」

岸田氏は、「それぞれの民族の文化の違いは、本能の壊れ方の違いなのではなくて、壊れたあとの対処の仕方だと思うんです。」と述べ、
山本氏は「宣誓に関する論争において、誓うという言葉が日本では「お互いの間で」なんです。ところが、イスラム型乃至はキリスト教型世界では、基本的にいって「お互いの間で誓って、神との契約を破る」などと言うことは絶対に許されないし、天地神明のように神を証人としてひっぱり出すことも許されない。」と述べています。

トルストイは「戦争と平和」のなかで、「義務と忠誠宣誓は何よりも尊い」と述べています。
この義務と忠誠は、祖国ロシアに対するもので、国民のナショナリズムとしてのエネルギーを高揚させる一因となったものでしょう。

アメリカでは、大統領が就任するとき、聖書に手を置いて宣誓します。これは、イギリスとの独立戦争において、絶対王制では国王が法であるように、自由国家においては、法が国王であるべきであり、またそれ以外が国王であってはならないという思想に基づいていると言われています。
これによって、アメリカは特別な日に聖書の上に手を置き、宣誓することになったようです。
民衆から選ばれた大統領が、神に職務を忠実に遂行する、という意味合いも含まれるでしょう。
王制は、聖書では禁止されています。

次に、政教分離原則の観点から考えてみますと、ヨーロッパにおいては、ルターの宗教改革の後、異教徒虐殺という宗教戦争を経て、宗教の政治への介入をふせぐという考え方のものでした。

日本での政教分離は、戦前の国家神道に対する特典を廃止することから始まりました。

日本における、信教の自由とは、国が特定の宗教団体に特権を与えたり、国が個人に宗教上の行
為を強制したり、国が宗教的活動をしてはならないというもので、国家に対する制限となっています
が、戦前の国家神道に対する反省のもとに、短期間で日本国憲法、第20条に規定されたもので
す。

それに対して、欧米の信教の自由は、個人個人の精神的自由そのものの希求により、自由権確立
に至った長い闘争(宗教戦争)の歴史があります。

山本氏は、宣誓というものについて、欧米と日本の違いを述べています。

「お互いの間で誓って、神との契約を破る」などと言うことは絶対に許されないし、天地神明のように神を証人としてひっぱり出すことも許されない。」と述べているのは、欧米では、「絶対性を神に託することによって人間はすべて相対的になり得る。」のに対して、日本では、「お互いの間で」となってしまいます。

トルストイは、自由と必然の関係から、内容と形式の関係を導きだしましたが、日本にお
いての宣誓は、自由すなわち内容の無い必然的な形式だけのものになってしまっていま
す。欧米での自由は形而上学の対象として、棚上げされていますが、日本における信教の
自由などというものは、自由という言葉自体、形而上学として検討されたものでもなく、
それこそ内容の無い形式だけのものとなってしまっています。それゆえ、天地神明(天と
地のあらゆる神々のこと)という神を証人としてひっぱり出してしまえるわけです。

キリスト教型自由国家において、法が国王であるということは、絶対性を託された神の命
令が契約であり、それによって政治体制もできているわけで、神を証人とするなどという
ことは、あり得ないわけです。

日本においては、国会の証人喚問にしても、裁判における証人の宣誓においても、「自分
の良心に従い…」となされますが、そもそも「自分の良心」なるものが、内容の無い形式
だけのものとなっていて、宣誓に値するものではなくなっています。

心理学においては、外的自己における、自我と超自我のうち、超自我が良心の機能を営む
ものとしています。自我と超自我の間で葛藤が起り、矛盾したエスが抑圧され、内的自己
に潜在化されます。自我は自由なる意識であり、超自我は、必然的な理性であり、理性の
法則が形式となるわけですが、それは、歴史において自由の力の本質、あるいは、自然の
力が内容を形づくってきたものであることが、前提となります。

日本における宣誓は、思想の歴史において、自由の力の本質が反映されていると言えるで
しょうか?
つまり、歴史上の伝統、文化という慣習に根ざしたものでなければ、良心の呵責を意識で
きないということにあると思います。

心理学では、抑圧されて内的自己に潜在化したエスを矛盾した誤ったものであると悟り、
自由である意識として外的自己に顕在化できうるかどうかということ、つまり、良心の呵
責に迫ることができるかどうかということになると思います。

余談になりますが、ダグラス・グラマン事件(1979年)において、国会の証人喚問で当時
の海部八郎日商岩井副社長が、宣誓書に署名する際、手がふるえてなかなか書けなかった
場面がTV中継されました。
これは、あくまでも私個人の憶測ですが、海部八郎氏は、海部(あまべ)氏の系統なので
はないかと思います。海部一族は代々神官として、神に仕えた家柄です。海部俊樹元首相
もその系統だったと思います。
特に、天橋立で有名な元伊勢の籠神社は、海部氏が代々神官を勤めてします。元伊勢の籠
神社は、アマテラス以前の大元の神である大元霊神(大元神)が祀られています。大元神
とは、いわゆる唯一絶対のユダヤ教のヤハゥエ、イスラム教のアッラー、キリスト教の父
なる神と同じで、それぞれ呼び名が違うだけの全知全能の神です。海部八郎氏が、神官と
しての系統であるが故、手がふるえて宣誓書に署名できなかったのだとしたら、その心情
はよく理解できます。ご本人は手がふるえたのは、血管の病気によると説明されたとのこ
とですが…

最近の国会において、官僚による行政文書の捏造、隠蔽が問題となっています。国の根幹
を揺さぶるものと言われながら、その官僚を国会に招致し、質疑応答するにあたって、参
考人招致では偽証罪に問うことができないので、証人喚問にすべきという議論は、これほ
ど国会という場が議論の場ではなくなり、形骸化(内容を失い形式だけになってしま
う。)してしまっているということの証明にほかなりません。

宣誓という行為が、意味のない形式だけのものではなく、歴史上の慣習に根ざした内容を
持ったものでなくてはならなく、また、神聖なものでなくてはならないのは、国会という
国家の最高機関が正常を取り戻すためにも必要なものと思います。

国会は、合理的な議論がなされなければならない場でありながら、官僚によって不合理な
状態に棚上げされてしまっていると言っても過言ではないでしょう。

岸田氏によれば、西欧の歴史においては、生気論と機械論、目的論と因果論、観念論と唯物
論、先験論と経験論、創造説と進化論など、多岐にわたるさまざまな思想の闘争の歴史が
あり、人間は物理化学的反応体であるというテーゼも、その闘争のなかから必然的に生ま
れてきたテーゼの一つであって、そういう思想の歴史を背負っている西欧人としては、こ
のテーゼの真偽はその世界観の存亡にかかわる重大な問題であり、いずれ決着をつけねば
ならないわけです。


これらの思想の闘争の歴史も、それぞれ、将来決着がつくまで、棚上げにされている状態と言えるわけです。


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